「正理に反する」と非難された護法の立場から「三性は並起しえる」という証拠を引き論証する。
「故に瑜伽に説かく、若し聲の縁に遇いて定より起こるは、定相応の意識と倶に転じて余の耳識を生ず。」(『論』第五・十八右)
(その為に、『瑜伽論』(巻第六十三。大正30・650c)に次のように説かれている。
「若し聲縁に遇うて定より起こるは、定相応の意識と倶転して余の耳識生ず」と。)
『解深密経』に「意は五と同じく縁ず」と説かれ、又『集量論』には「五と倶なる意識は必ず現量なり」と説かれている。この論証は、第六意識の三性と五識の三性は同じ性になる。問は、第六意識が、五識と同じ三性ではないとどうしていえるのであろうか、ということなのです。この問いに対する答えが本科段になります。
「若し聲縁に遇うて定より起こるは、定相応の意識と倶転して余の耳識生ず」 と。
定中の意識は善性であり、声を聞く耳識の卒爾心は無記性である。その為に、性は不同であっても、善の第六意識と無記の耳識が並起しえるのであるという。『述記』には逸話を用いて説明しています。
「論。故瑜伽説至餘耳識生 述曰。下引證也。明此縁者。如大目連獼猴池側。坐無所有處定。有象哮吼・猨猴戲聲。即便出定。薩婆多師出已方聞。今此大乘聞已方出。若先不聞如何出定 問豈有無所有處心得縁欲界聲等境也 六十五等説廣惠聲聞有學・無學無色界心縁三界法。故得無違。六十三卷三摩?多地末説。謂有行人若遇聲縁從定起者。遇聲耳識與定相應意識倶轉起聞於聲。名遇聲縁從定而起 或復起者。即是耳識。此擧定中得起耳識 或者謂假者。即得定人由定中聞故出。」(『述記』第五末・六十三左。大正43・419c~420a)
(「述して曰く。下は証を引くなり。此の縁を明すことは、大目連の獼猴(びこうーさる)池の側に無所有処定に坐せしとく、象の哮吼(こうこうーほえる)猨猴(えんこう)の戲れの聲と有るをもって、即便ち出定せんが如き、薩婆多師は(定を)出で已って方に聞くと云う。今此の大乗は聞き已って方に出づ。若し先に聞かずんば如何ぞ出定せん。」)
一旦ここで切ります。逸話は、大目連が獼猴池の側で無所有処定に入っていた時、象の吠える声や猿の叫びを聞いて出定したということをもって説明しています。有部と大乗の立場の相違が明らかになっています。
- 大乗の立場 - 耳識が声を認識して、その後に第六意識が働き、そして定を出る。
- 有部の立場 - 定を出終ってから、声を聞く、有部の説明では定中には五識は消滅しているから、定を出ることを以て声を聞くという。
そして、大乗は、声を先に聞かなかったならば、どうして定から出るといえるのか、と問いを出します。
今日はここまでにしておきます。おやすみなさい。