「得自在の位には、唯だ善性のみに摂む、仏の色心等をば、道諦に摂むるが故に、已に永に戯論の種を滅除せるが故に。」(『論』第五・十九左)
(得自在の位には、六識は唯だ善性のみである、何故ならば、仏の色心等は、道諦に摂めるからである。すでに永遠に戯論の種子を滅除しているからである。)
「得自在の位」について『述記』には、二説あることを述べ、その理由を説明しています。
一は、初地以上を得自在位とするもの。初地以上で、五識を転じて成所作智を得るとする説。五識は、この初地以上で善性となる。
二は、仏位をもって、得自在位とするもの。これを正義とする。
その理由は「唯だ仏の色心のみ是れ道諦なるが故に、唯だ善の性に摂む」と説明しています。「初地已去にも五識の中に尚、不善有り。八地已去にも或る時には亦、無記の五識あるが故に。」(初地以上、七地の菩薩では、五識の中に不善があり、五識は善とはならない、また八地以上仏位未満でも、第六識は、無漏の善となるが、五識は無記である。六識すべてが善となるのは仏位(果位)のみである、と説明しています。
ここで問題がでてきます。昨日も私論を述べましたが、五識と六識の関係ですね。五識は、第六識に引生される為に、五識の三性は、第六意識の三性によって決定されるものである訳です。しかし、ここで問題になるのは、八地以上仏位未満では、第六識が無漏の善とはなっても、五識は無記である、と述べている段です。この問題に対する古来の解答は『唯識論第五巻同学鈔第三』(大日本仏教全書77・p669)に「問う、正義の意は、八地已上に無記の五識有ると許すべきや。「八地已去にも或る時には亦、無記の五識有るが故に」の文。これに付いて五識の三性は必ず意識能引に随い、八地已上は第六は常に無漏なり。所引の五識、豈無記なりや。答う、邑法師、釈して云く、此れは卒爾の五識に約す。云云。今其の意を按ずるに、未転依位の卒爾心は定んで無記なり。未転依とは卒爾堕心は定んで無記なるが故にと云うが如し。八地已上の五識は猶是れ未転依なり。卒爾心は定んで無記なるべし。但だ、五識の三性、意識能引に随ってとは、染淨心初起に拠って之を論ず。・・・・・・」と説明されています。その意は、五識が無記であるというのは、卒爾心で述べられており、五識の卒爾心は無記であるからであると説明しています。