無味乾燥で煩瑣な論理がつづきますが、基礎というものはこういうものだと思います。気長にお付き合いいただければ幸いです。
護法の説、『瑜伽論』(巻六十三。大正30・650c)を引用して証拠の文献とする解釈の中で、次は『演秘』の解釈を述べます。
「論。瑜伽至後時方出者。按彼論云。非即彼定相應意識。而無唯字。唯之與即義少相似。此論意證不獨意取。改即爲唯。亦無者字。又疏中云謂有行人。亦意加也。餘文並同 疏。若遇聲縁至即是耳識者。有義疏有二説。今別解之。從定後起散心名從定起 詳曰。此亦可然。然論既云後方出定。起屬在定。起意・耳識義意幽遠。」(『演秘』第四本・四十八・四十九左。大正43・908a)
(「論に、瑜伽と云うより後時に方に出づに至るは、彼の論を按ずるに云く、即ち彼の定相応の意識なりと云えり。唯の字は無し。唯と即とは義少し相似す。此の論の意は独り意のみ取るにはあらずと云うことを証するには非ず。改めて即を唯と為す。亦者の字無し。又疏の中に云く。謂く有行人と云えり。亦意を加うなり。余文並びに同なり。
疏に、若し声の縁に遇うてと云うより即ち是れ耳識に至るは、有る義は疏に二説有。今別にこれを解す、定より後に起こる散心を従定起と名づくと云う。詳らかにして曰く、此れ亦然るべし。然るに論に既に後に方に出づと云う、起をば定に属在す。意と耳との識を起こすとならば義の意幽遠なり。」)
『樞要』(巻下本・三十一左。大正43・641c)
「 從定起者。瑜伽抄解。一起耳識名起者。二起定心與耳識縁聲名起者。三出定者名起者。初續前位故。此等廣如佛地第六菩薩後智中起五識。亦等引位起。雜集言據二乘少・異生全故。」
「從定起者」、という「起」について次のように述べています。
① 耳識を起こすを起と名づく。(定中に意識を起こす)
② 定心を起こして耳識と声を縁ずるを起と名づく。(定中に耳識を起こす)
③ 出定の者を起と名づく。(禅定より出る人)
読み方は、①②の場合には、「定より起こるは」と読み、③の場合には「定よりたつひとは」と読むことが慣例となっています。
次は、声を聞くのは、ただ第六意識のみではないことを説明し、その理由を述べます。