
唯識では、五位無心という、意識が働かない時がある。意識は恒に働いているわけではなく、間断があるといわれています。間断が有るといわれて、自己が無くなってしまうのかと云うとそうではないのですね。有間断の底に恒に自己を思い続ける、恒相続の意識(第七末那識)が動いていると見抜いてきたのです。
恒相続は生存中と云うだけにとどまらず、現在・過去・未来を包んで恒相続だといわれています。私は私から逃げる事を許さないのです。厳しさというより、道理なのでしょう。
摂取不捨とうお言葉が有りますが、「摂取」という意味は二通りあるように思います。。一つは信心の行者を救い取って離さない、ということでありましょう。もう一つは、私は私から逃げる事を許さない、私は私に成ることの他に生きる事の意味はないのだということを、命の底から願いつづけている。このことは、私が私自身の「生まれたことの意味」なのでしょう。
仏教徒は其の中から、いろいろな過ちを見出してきたのですね。この五位無心も、信心の落とし穴になるわけですが、緻密に、自分の心を分析しています。
意識が働かない時が有る、無心の状態ですね。この無心の状態に自己を埋没させることに甘い期待を抱いているんだと指摘します。
『論』の説かれるところは、無想定という禅定を修して、その果報として無想天に生じると、いわれているわけです。ある意味、出離解脱をもとめるわけです。そこに開かれてくる世界は永遠の楽土であると。そういう作意をもって無想定というものが得られ、色界第四静慮を解脱地と考えているわけです。第四静慮・広果天に於いて完全に意識活動が停止するとされますから。そこが解脱地だと間違いを起こすわけです。意識が停止状態であって、意識がなくなったわけではないのですね。記述によりますと、五百大劫の間、無心という状態がつづくといわれています。しかし醒めれば、色界第四静慮から転落して欲界に逆戻りするわけです。この記述は何を意味しているのでしょうか。
私たちが生活しているこの場所は欲界だといわれています。何故かといいますと、欲望がみなぎっている世界、自我欲を中核として成立している世界が欲界といわれていますね。自我欲の裏返しが苦脳満ち溢れる世界と、云い換える事が出来ると思います。苦脳と共に生きていますから苦脳を離れる、苦脳しない世界を求めるわけでしょう。それが自我欲を満足させることであると思い違いをしている世界を、欲界と云い現わされたのではないでしょうかね。
「満足」をしたいという思いが、宗教に求める方もおられるでしょう。または世俗のいろいろな誘惑に自己を埋没させることで、一時的に満足を得ようとされる方もおられるでしょう。一時的な満足ではあっても、その世界に沈んでいる間は無心でおられるわけですね。一時の世界に没我したい、そこでストレスを解消させたいという願望があるわけでしょう。何もかも忘れて熱中し、無心になれるという時間を生んでくるのではないでしょうか。間違いではあってもです。これは一種の天に身を置いている状態ですね。しかし、縁が尽きれば現実に戻されますから、この繰り返しをつづけざるを得ないのです。
また「宗教」の世界にも、このような問題があります。無想天が究極の目標であると、錯覚を起こさせるわけです。新興宗教の世界に多く見受けられます。世俗の欲求としての無心の状態より根が深い問題です。宗教という名の外道に没我すると云う問題です。宗教を対象的に捉え、集団の中に自己を埋没させ、それが幸福であると思いこむ、或いは幸福であると思いこませることです。仏の教えを信、行じて、証を得る。これが教行証という仏教のあり方なのですが、これを巧みに歪曲し、“この信心はすごい”という迷文句を生みだしてくるのです。“願いは必ず叶う”・“冬は必ず春と為る”という元の意義をすりかえて、信心をしなさい。そして功徳を頂くのですと。その為に新聞・雑誌等々、布施という名の財務を半ば強要してくるわけです。新興宗教の大部分は必ず入会届を出させます。家族構成まで書かせます。それで、入会届を出すとですね、信心が成立したことになるのです。“この信心は必ず幸福になれるんですよ、すごいですね”が合言葉になり、洗悩という思想改造が始まるのですね。ここには「自己を問う」、ということはありません。これは自我欲を巧みに利用しているわけですが、この自我欲に気づかせないように休息を与えないのです。ですから入会した人たちは自己欲求達成のために、一生懸命に、会の為に励む日々を送るわけです。そしていつの間にか、その場所が居心地の良い楽土と、思い込むのですね。この場所に陥ってしまいますと、そこが解脱地となり、永遠に目覚める事が出来ないという過失を犯すことになってしまいます。修道の問題でいえば、「空に沈む」ということななるのでしょう。
親鸞聖人は「聞不具足・信不具足」として信心の内実を確かめておいでになります。聖教の言葉では「然に名を稱し憶念すること有れども、无明なほ存して所願を滿てざる者」、称名憶念すれども、無明がなお存して志願が満てないのは何故か、という問題になるのでしょうか。私たちはいつでもどっかに逃げ込んでしまいたいと云う欲求をもっているのでしょうね。ですから無想天という問題が大きく取り上げられている理由になると思うのです。私たちが簡単に陥ってしまう信心の課題になると思われます。
明日より、第三能変に戻ります。
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補足
菩薩の行位と修行の階位について
十住(初住<十信も含める>~第十住
十行(初行~第十行)
十回向(初回向~第十回向)
第十回向が二つにわかれ 第十回向(初住より第十回向を三賢(順解脱分)-資糧位
満心 - 四善根(順決択分) -加行位
資糧位と加行位が初阿僧祇 - 方便道
ここまでが地前の菩薩といわれます。以後の初地より第十地までを地上の菩薩とよばれます。
次に通達位に入りますが、見道ともいわれ、ここで初めて(入心)無分別智の一部が現行し、真理を見るといわれています。
十地(初地~第十地)
初地 - 入心 - 見道 - 通達位
- 住心 -
- 出心 - }修道 - 修習位
第十地(等覚を含む)
初地より七地以前を第二阿僧祇・八地以上を第三阿僧祇となり第二阿僧祇と第三阿僧祇を聖道となり方便道とあわせて因道となります。
仏果 ― 無学道 ― 究竟位 ― 果道
よく初発心から仏果に至るまでの修行の時間が三大阿僧祇劫かかるというのはこういう意味があるわけです。仏果に至って初めて自利利他が円満成就すると教えられています。