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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (11) 五位無心 (9) 雑感

2016-12-29 10:56:15 | 第三能変 第九・起滅...
  

 唯識では、五位無心という、意識が働かない時がある。意識は恒に働いているわけではなく、間断があるといわれています。間断が有るといわれて、自己が無くなってしまうのかと云うとそうではないのですね。有間断の底に恒に自己を思い続ける、恒相続の意識(第七末那識)が動いていると見抜いてきたのです。
 恒相続は生存中と云うだけにとどまらず、現在・過去・未来を包んで恒相続だといわれています。私は私から逃げる事を許さないのです。厳しさというより、道理なのでしょう。
 摂取不捨とうお言葉が有りますが、「摂取」という意味は二通りあるように思います。。一つは信心の行者を救い取って離さない、ということでありましょう。もう一つは、私は私から逃げる事を許さない、私は私に成ることの他に生きる事の意味はないのだということを、命の底から願いつづけている。このことは、私が私自身の「生まれたことの意味」なのでしょう。
 仏教徒は其の中から、いろいろな過ちを見出してきたのですね。この五位無心も、信心の落とし穴になるわけですが、緻密に、自分の心を分析しています。
 意識が働かない時が有る、無心の状態ですね。この無心の状態に自己を埋没させることに甘い期待を抱いているんだと指摘します。
 『論』の説かれるところは、無想定という禅定を修して、その果報として無想天に生じると、いわれているわけです。ある意味、出離解脱をもとめるわけです。そこに開かれてくる世界は永遠の楽土であると。そういう作意をもって無想定というものが得られ、色界第四静慮を解脱地と考えているわけです。第四静慮・広果天に於いて完全に意識活動が停止するとされますから。そこが解脱地だと間違いを起こすわけです。意識が停止状態であって、意識がなくなったわけではないのですね。記述によりますと、五百大劫の間、無心という状態がつづくといわれています。しかし醒めれば、色界第四静慮から転落して欲界に逆戻りするわけです。この記述は何を意味しているのでしょうか。
 私たちが生活しているこの場所は欲界だといわれています。何故かといいますと、欲望がみなぎっている世界、自我欲を中核として成立している世界が欲界といわれていますね。自我欲の裏返しが苦脳満ち溢れる世界と、云い換える事が出来ると思います。苦脳と共に生きていますから苦脳を離れる、苦脳しない世界を求めるわけでしょう。それが自我欲を満足させることであると思い違いをしている世界を、欲界と云い現わされたのではないでしょうかね。
 「満足」をしたいという思いが、宗教に求める方もおられるでしょう。または世俗のいろいろな誘惑に自己を埋没させることで、一時的に満足を得ようとされる方もおられるでしょう。一時的な満足ではあっても、その世界に沈んでいる間は無心でおられるわけですね。一時の世界に没我したい、そこでストレスを解消させたいという願望があるわけでしょう。何もかも忘れて熱中し、無心になれるという時間を生んでくるのではないでしょうか。間違いではあってもです。これは一種の天に身を置いている状態ですね。しかし、縁が尽きれば現実に戻されますから、この繰り返しをつづけざるを得ないのです。
 また「宗教」の世界にも、このような問題があります。無想天が究極の目標であると、錯覚を起こさせるわけです。新興宗教の世界に多く見受けられます。世俗の欲求としての無心の状態より根が深い問題です。宗教という名の外道に没我すると云う問題です。宗教を対象的に捉え、集団の中に自己を埋没させ、それが幸福であると思いこむ、或いは幸福であると思いこませることです。仏の教えを信、行じて、証を得る。これが教行証という仏教のあり方なのですが、これを巧みに歪曲し、“この信心はすごい”という迷文句を生みだしてくるのです。“願いは必ず叶う”・“冬は必ず春と為る”という元の意義をすりかえて、信心をしなさい。そして功徳を頂くのですと。その為に新聞・雑誌等々、布施という名の財務を半ば強要してくるわけです。新興宗教の大部分は必ず入会届を出させます。家族構成まで書かせます。それで、入会届を出すとですね、信心が成立したことになるのです。“この信心は必ず幸福になれるんですよ、すごいですね”が合言葉になり、洗悩という思想改造が始まるのですね。ここには「自己を問う」、ということはありません。これは自我欲を巧みに利用しているわけですが、この自我欲に気づかせないように休息を与えないのです。ですから入会した人たちは自己欲求達成のために、一生懸命に、会の為に励む日々を送るわけです。そしていつの間にか、その場所が居心地の良い楽土と、思い込むのですね。この場所に陥ってしまいますと、そこが解脱地となり、永遠に目覚める事が出来ないという過失を犯すことになってしまいます。修道の問題でいえば、「空に沈む」ということななるのでしょう。
 親鸞聖人は「聞不具足・信不具足」として信心の内実を確かめておいでになります。聖教の言葉では「然に名を稱し憶念すること有れども、无明なほ存して所願を滿てざる者」、称名憶念すれども、無明がなお存して志願が満てないのは何故か、という問題になるのでしょうか。私たちはいつでもどっかに逃げ込んでしまいたいと云う欲求をもっているのでしょうね。ですから無想天という問題が大きく取り上げられている理由になると思うのです。私たちが簡単に陥ってしまう信心の課題になると思われます。
 明日より、第三能変に戻ります。
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 補足
 菩薩の行位と修行の階位について

 十住(初住<十信も含める>~第十住

 十行(初行~第十行)       

 十回向(初回向~第十回向)

  第十回向が二つにわかれ 第十回向(初住より第十回向を三賢(順解脱分)-資糧位

  満心 - 四善根(順決択分) -加行位   

 資糧位と加行位が初阿僧祇 - 方便道

ここまでが地前の菩薩といわれます。以後の初地より第十地までを地上の菩薩とよばれます。

 次に通達位に入りますが、見道ともいわれ、ここで初めて(入心)無分別智の一部が現行し、真理を見るといわれています。

 十地(初地~第十地)

  初地 - 入心 - 見道 - 通達位

      - 住心 -

      - 出心 - }修道 - 修習位 

  第十地(等覚を含む)

 初地より七地以前を第二阿僧祇・八地以上を第三阿僧祇となり第二阿僧祇と第三阿僧祇を聖道となり方便道とあわせて因道となります。

 仏果 ― 無学道 ― 究竟位 ― 果道

 よく初発心から仏果に至るまでの修行の時間が三大阿僧祇劫かかるというのはこういう意味があるわけです。仏果に至って初めて自利利他が円満成就すると教えられています。

第三能変 第九 起滅分位門 (9) 五位無心 (7)

2016-12-17 00:54:19 | 第三能変 第九・起滅...
  

 松田様、ご質問に答えなければいけませんが、少し猶予を頂きまして、『摂論』の記述をお読み頂ければと思います。少しづつ記載していきます。
 part(1)
 「『摂論』の書き下しを記します。
 ここは、第八識の存在証明にもなります。「衆名品第一の一」です。
 「云何が此の識を或は説いて、阿陀那識(アダナシキ)と為すや。
 能く一切の有色の諸根を執持し、一切の受生(ジュウショウ)の取の依止なるが故なり。何を以ての故に、有色の諸根は此の識に執持せられて、壊せず失せず、乃し相続して後際(ゴサイ・未来世)に至る。又、正しく生を受くるの時、能く取陰(シュウン)を生ずるに由るが故なり。故に六道の身はみな是の如く取る。是の取の事用(ジユウ)は識に摂持せらるるが故に説いて阿陀那と名く。
 或は説いて心と名く。仏世尊の心意識と言えるが如し。
 意に二種あり、一は能く彼の生ずる與(タメ)に、次第(シダイ・物事の順序)縁の依止なるが故に、先に滅せる識を意と為し、又識の生ずる依止なるを以て意と為す。
 二には有染汚(ウゼンマ)の意、四煩悩と恒に相応す。一には我見、二には我慢、三には我愛、四には無明なり。
 此の識は、是れ余の煩悩識の依止なり。此の煩悩識は第一に由って依止して生じ、第二に由って染汚す。
 塵(ジン)を縁じ、及び次第して、能く分別するに由るが故に此の二を意と名く。
 云何が染汚心有るを知ることを得るや。
 若し此の心、無ければ独行無明は則ち有りと説くべからず。五識と相似せる此の法は応に無かるべし。何を以ての故に、此の五識は共に一時に自の依止有り。謂ゆる眼等の諸根なり。」

 この次に、無想定を修して無想天に生まれることの意味が記されます。これは何を意味しているのか。「四煩悩と倶なり」と関りがあるようです。
僕たちの生きざまは、利益優先なのですね。どうしたら人の上に立ち得るにか、優雅な生活を送れるのかという妄想の中で蠢いているのでしょうね。仏教は、名聞。利養・勝他という三種の神器を断ち切ることにおいて、道理に生きることを教えました。私たちは常日頃から、道理に反して生きていることかを思い知らされます。

第三能変 第九 起滅分位門 (8) 五位無心 (6)

2016-12-14 22:14:08 | 第三能変 第九・起滅...
  

   ― 染汚(ゼンマ)された意(マナス)の存在証明としての根拠 ―
 『摂大乗論』に「一切の時に我執は生起しており、善・悪・無記、すべての心の中に遍在している」という意識を見い出してきたのです。
 『摂大乗論』にマナスの記述と無想天に関する記述が述べられていますので紹介しておきます。「もろもろの存在は、ア―ラヤによって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識であるが故に、ア―ラヤと名づける」 このア―ラヤが「心」と呼ばれ、また「心・意・識」と呼ばれることもあると。
 そして、この「意」には、二種類あると説かれています。
 前滅の意
 「一つには、先に消滅した識を意とし、また、識の発生する根拠なので意とする。」
 染汚された意、
 二つめは、汚染された意で、常に四つの根本的な煩悩を伴っている。それは、(一)我見・(二)我慢・(三)我愛・(四)我癡である。この識は、他の煩悩の識の発生源である。この煩悩ある識は、第一の識を発生源として発生し、第二の識によって汚染される。
 外界を対象化し、それにしたがって順序に分別的認識をするようになるので、この二つを意と名づけるのです。
 ではですね、なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか、という問題が残ります。その理由が六つ述べられます。
 (1)もし、この心がないとすれば、独立して働く無明(独行無明)が存在すると言えなくなるからである。
 (2)五識と同質のこの存在がないことになる。何故かというと、この五識はどれもみな同時的に自分の依り所をもっている。いわゆる眼などの諸器官である。
 (3)また次に、意という名称に意味がなくなってしまうからである。
 (4)また次に、無想定と滅尽定との区別がなくなってしまう。何故かというと、無想定は汚染された心から現れるものであるが、滅尽定はそうではない。もし、そうでないとすれば、この二つの禅定に区別がなくなってしまうだろう。
 (5)また次に、無想天の一生には煩悩の流出がない(無流)という過失におちいる。汚染がないことになるのだから。その中では、我見や我慢などもないことになる。
 (6)また次に、一切の時に我執は生起しており、善・悪・無記、すべての心の中に遍在している。もし、そうでなければ、悪の心だけが我執などと対応することになり、我と我に所属する作用はそこでは生起しうるにしても、善と無記の中では生起しないことになる。それゆえ、善・無記と我執の二つの心が同時に生じることがあるとすれば、この矛盾がなくなる。我執は第六識と対応して生起するとしても、こうした矛盾が生じるだろう。
 根拠としての教証を挙げます。参考文献(出典は『摂大乗論』(正蔵31・114a19~b19)、原文を掲載します。
  先滅識爲意。又以識生依止爲意。二有染汚意。與四煩惱恒相應。一身見。二我慢。三我愛。四無明。此識是餘煩惱識依止。此煩惱識由一依止生。由第二染汚。由縁塵及次第能分別故。此二名意。云何得知有染汚心。若無此心獨行無明則不可説有。與五識相似此法應無。何以故。此五識共一時有自依止。謂眼等諸根。復次意名應無有義。復次無想定滅心定應無有異。何以故。無想定有染汚心。所顯滅心定不爾。若不爾此二定應不異。復次於無想天一 期。應成無流無失無染汚故。於中若無我見及我慢等。復次一切時中起我執遍善惡無記心中。若不如此。但惡心與我執等相應故。我及我所此或得行。於善無記中則不得行。若立二心同時生。3無此過失。若立與第六識相應行。有此過失 無獨行無明 及相似五識 二定無差別 意名無有義 無想無我執 一期生無流 善惡無記中 我執不應起 離汚心不有 二與三相違 無此一切處 我執不得生 證見眞實義 4或障令不起 恒行一切處 名獨行無明此心染汚故無記性攝。恒與四惑相應。譬如色無色界5惑。是有覆無記。此二界煩惱奢摩他所藏故。此心恒生不廢尋。第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生。(無著造・真諦訳)
 このマナスは、恒に生起しており、停止しない。(此心恒生不廢尋) この識の体はア―ラヤ識を離れては存在しえない。この故にア―ラヤ識から意が成立(ジョウリュウ)する。これに依って種子ができるので、他の識が発生することができる。(第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生)と説明されます。
 五位無心説を通じて、無心の底に流れる我の執着意識を明らかにし、第七・第八識の存在証明を初能変・第二能変に説き明かしているのです。 

第三能変 第九 起滅分位門 (7) 五位無心 (5)

2016-12-13 22:17:37 | 第三能変 第九・起滅...


  第二師の説は初中無心義、末後有心義であるという。次に第三師の説(「大乗中有は生支に摂するが故に」という、中間無心義)が述べられます。
 「想を離れて心が安和であるということで、無心という。これが解脱と考えらている」ということには、現在の世相に大きな示唆を与えているようです。また信仰の落とし穴のように思われます。
 私たちの身近な希望は病気をしないで、長生きで、豊かに暮らしたい。昔の言葉では無病息災・家内安全でしょう。意識の底で幸福になりたいという、それは私の欲が叶うことが幸せであるということでしょう。ですから、病・老・死は意に背くわけです。そこに何の疑いも抱いていないということ。病・老・死を回避するような願望を抱いているわけでしょう。このような、道理に反した心の間隙をついて新興の宗教が 「この信心で幸せになりますよ」 と、チームワークよろしく洗悩攻撃がはじまるわけです。その行きつくところが「幸福」という錯覚に陥るということになります。無想天とはそのような処ではないでしょうか。思いの中で描いた世界のように思います。
  ―  無想天・一期有心無心義 ・ 第三師の説 ―
 「有義は生ずる時にも亦転識あり。彼の中有には必ず潤生の煩悩を起こすが故に」(『論』第七・十一右)
  (意訳) 第三師の説くところは、無想天に生じる時にもまた現行識は存在する。それは死有と生有の間の中有には必ず潤生の煩悩を起こしているからである。
 •中有 - 旧訳では中陰という。生存の四つの在り方の一つ。死有と生有の中間の存在で、死の瞬間から次の生を享けるまでの間の時期をさす。三界のなかの欲界と色界の有情にのみあり、無色界の有情にはないという。
 参考文献
 「述曰。第三師の説。末後の有心は前の第二の所解に同なり。違せる論もまた彼の如く説くべし。ただ初生の有心は前師と別なり。これは初生にもまた識ありというが故に。死の時に亦するなり。然るに上座部等は、かの中有にもまた心あることなしと説けり。この前師もまた此の計を作さんかと恐れるが故に、中有の末後は有心なりと説けり。大乗の中有は有支に摂するが故に(論八・十六・六)。かの中有の末心は必ず潤生の煩悩を起こすが故に、無想天もまた有心なり。かの中有は彼処に摂するが故に。第五の対法等に、中有の末心は亦ただ染なりと説けるが故に。もし生も亦有心なりと争わば、いま量を為して云く」(『述記』第七本・五十七左)
 •「大乗の中有は有支に摂するが故に」の文(広く十二支を明かす)を指し、惑・業・苦を総と名づけ、十二支を別と名づける。(新導本・巻第八p14・選註pp183)この中,所生支に「所生支とは、謂く生と老死なり。是れ愛と取と有とに近く生ぜらるる故なり。謂く中有より本有の中に至るまでに未だ衰変せざるこのかたは、皆生支に摂む。諸の衰変する位をば総じて名づけて老と為し。身壊し命終するをば乃ち名づけて死と為す」と。惑・業・苦の三つを能引支・所引支・能生支・所生支の四つに分け十二縁起を配当して説明されています。この中、所生支は11番目・12番目の生・老死になります。無明から始まって生・老死にいたる迷いの生存の展開を明らかににしているのです。生・老死は所生の果報であるので所生支といいます。
 『演秘』の釈
 「論に、 「必ず潤生の煩悩をおこすが故に」 とは、瑜伽論五十九(正蔵30・629c)を按ずるに、結生相続(けっしょうそうぞく - 再び生まれること。 七種の結生相続が説かれる) するに略して七種あり。一に纏(てん)と及び随眠(ずいめん)の結生相続、謂くわく諸の異生なり。ニにただ随眠のみの結生相続、謂く聖迹(せいしゃく)を見たるものなり。三に正知にして入胎する結生、謂く輪王(転輪王)なり。四には正知にして入往する結生、謂く独覚なり。五に一切の位に於て正念を失わざる結生、謂く諸の菩薩なり。六は業に引発せらるる結生、謂く菩薩を除く。七には智に引発せらるる結生、謂く諸の菩薩なりと云えり。
 又 対法論(正蔵31・714c)の第五に云わく、中有の初めの相続する刹那は唯無覆無記なり。是れ異熟の摂なるを以ての故に。此れ従り已後は或いは善と不善と無記となり。その所応に随いて彼の没心を除く。中有の没心は常に是れ染汚なるを以てと云えり。故に知る中有に心有るなり」(『演秘』第六本・三左)と。
 『演秘』の釈から窺えますことは、
 中有に於ける意識の滅・無心は常に染汚性をもっているのであり、無心ではあっても、無心を成り立たしめている染汚心があるという、故に中有には無心ではなく心有るということなのです。
 中有という考え方は古代インドの哲学であるウパニシャッドでは、意識の状態を、覚醒・夢見・睡眠・第四に分けて考えられていました。いわゆる輪廻思想です。この思想が仏教に融合して生死輪廻の生存の在り方を四有として、特に小乗仏教において論じられていたようです。四有とは中有・生有・本有・死有の生存の在り方をいいますが、有情はこの四つの生存の在り方を繰り返しながら生死輪廻すると考えられていました。
 生死輪廻から解脱するにはどのようにしたらいいのか、この願望から無想定を起こして無想天に生まれようとしたのでしょう。そこでは意識を滅するができるのだと。しかし無想天にとどまる限り夢見のなかに生存を閉じ込めるわけですね。でも、眼が覚めたら意識が回復するのは何故かという、迷いの世界に再び生をうけるのは、そこに無意識ではあっても、何らかの意識が働いているのではないのかという問いが、深層に働く意識を見い出してきた。無想天という色界第四静慮の広果天という天界、所謂、絶えず心に想念がない状態であっても、我に関する執着が有る、と見い出したのですね。それは末那識が存在するからだと。寝ても醒めても、さらには生死輪廻していても、審らかに執拗に自分だと思いつづけるマナスがあるからだと。人間の心の深層の領域に染汚された意(マナス)が働き続けているということを、唯識の初期の論者は発見してきたのでしょう。

第三能変 第九 起滅分位門 (6) 五位無心 (4)

2016-12-12 21:26:39 | 第三能変 第九・起滅...
 

 無想天 第二師の説 ― 初中無心義  ― について考えてみます。
 「有義は、彼の天にして命終せむと将する位には、要ず転識を起こして然して後に命終す。彼こには必ず下の潤生の愛を起こすと云うが故に」(『論』第七・十左)
 (意訳) 第二師の説は、初生は無心ということは、第一師の説と同じである。凡夫は顕在的な煩悩と潜在的な煩悩とを以て、惑を起こして生存を潤し、それを相続せしめる働きをもつ。表層の行為が深層の阿頼耶識の中の種子を潤して種子を成育せしめる。『対法論』第五に「諸の異生の九種の潤生する心は、必ず現の愛を起こす」と説かれている。彼の無想天にして命終せんと欲する位には、要ず、欲界にて定を起こし後に色界第四静慮において無想果を得るのである。
 教証が挙げられます。
 「瑜伽論に後に想生じ已りて是の諸の有情いい彼より没すと説けるが故に」(『論』第七・十左)
  参考文献 『瑜伽論』
 「問依何分位建立無想定滅盡定及無想天。此三各有幾種。答依已離遍淨貪未離上貪出離想作意爲先。名滅分位。建立無想定。此復三種。自性者唯是善。補特伽羅者在異生相續。起者先於此起。後於色界第四靜慮當受彼果。依已離無所有處貪止息想作意爲先。名滅分位。建立滅盡定。此復三種。自性者唯是善。補特伽羅者在聖相續。通學無學。起者先於此起。後於色界重現在前。託色所依方現前故。此據未建立阿頼耶識教。若已建立於一切處皆得現前若已建立於一切處皆得現前。依已生無想有情天中名滅分位。建立無想此亦三種。自性者無覆無記。補特伽羅者唯異生性。彼非諸聖者。起者謂能引發無想定思。能感彼異熟果。後想生已是諸有情便從彼沒。」(『瑜伽論』巻第五十六・正蔵30・607b)
 「問う。何れの分位(ぶんい)に依りて無想定・滅尽定及び無想天(無想果)を建立するや、此の三に各々幾種ありや。答う。已に遍浄(天)の貪を離れたるも、未だ上貪を離れずして出離想の作意を先と為るに依りて無想定を建立す。此れに復三種有り、(1)自性は唯是善なり、(2)補特伽羅(ぷとがら)は異生(位)に在れて相続し、(3)定を起こす者は先づ此の(欲界)に於いて起こし、後色界の第四静慮(だいしじょうりょ)に於いて、当に彼の果を受く。已に無所有処の貪を離れ、止息想の作意を先と為るに依って滅の分位と名づけ、滅尽定を建立す。此れに復三種あり、(1)自性は唯是善なり、(2)補特伽羅は聖(位)に在りて相続し学無学に通ず、(3)(定を)起こす者は、先づ此の(欲界)に於いて起こし、後色界に於いて重ねて現在前す、色に託して所依(の色身)方に現前するが故なり。此れは未だ阿頼耶識の教えを建立せざるに拠る、若し已に建立せば、一切処に於いて皆現前することを得。已に無想有情天の中に生ぜるに依りて滅の分位と名づけ、無想(果)を建立す。此れに亦三種あり、(1)自性は無覆無記なり、(2)補特伽羅は唯異生なり、彼に生ずるは諸の聖者には非らず、(3)(定)を起こす者は謂く、能く無想定の思を引発し、能く彼の異熟果を感じ、後想生じ已るや是の諸の有情は便ち彼より没す。
 • 遍浄 - 第三静慮の最高天に在るとされる。
 • 出離想 - 外道の解脱涅槃。色界の第四静慮の最後の遍浄天の貪を伏し、いまだ第四静慮以上の貪を伏していない外道や凡夫が、第四静慮にある無想天を真の解脱と考えて、そこに出離しようと願って起こす想い
 • 補特伽羅 - 衆生の異名
 • 止息想 - 聖者が前七識の染汚の心・心所を止息しようとする想。寂静の心境になろうとする想い。無色界の有頂天において滅尽定に入る。出離想によって色界の第四静慮出離想で無想定に入ることに対する。
 『瑜伽論』巻の第五十六の記述に「定を起こす者」と。此の欲界に於いて無想天に生まれようとして無想定を起こすわけです。(欲界の異生は色界第四静慮を出離と考え、そこでは意識活動が停止するということが解脱だと思いこんでいる)そして、無想定を修して後に無想果を受けるといわれます。そこに「無想定の思を引発(いんぽつ)し」と。思とは、行為を起こす意志の働きですね。初めは審慮思といわれます。何を為すかと欲する意志です。次に為そうと決定し行動に移しますね。決定思・動発思です。無想天に生まれようとする意思決定が定を引き起こすのでしょう。そして無想果という異熟果を感じて、後に出離想が成就して諸の有情は諸の色根を滅するのである、と説かれている。このような理由に由って無想天には不恒行の意は存在しない、無心なのであるということになります。
 今日はここまでにします。

第三能変 第九 起滅分位門 (5) 五位無心 (3)

2016-12-10 22:36:32 | 第三能変 第九・起滅...


(はじめに) 五位無心の初めに無想天が述べられてあります。無想天に生まれると五百大劫の間、意識がなくなるといわれています。無心の状態ですね。禅定に入ったままの状態で生きているわけですが、生きているという生命の持続が異熟果と押さえられて、無心の状態であっても、第八識が生命を維持しつづけてきるということなのです。
 少し前に戻りますが、
 「「無想天とは、謂く彼の定を修して麤想を厭う力を以て。彼の天の中に生れて、不恒行の心と、及び心所とに違う。想を滅するを以て首と為す、無想天と名づく」(『論』第七・十左)
 (意訳) 無想天とは、色界・第四静慮処の第三広果天(無想果)の中の高勝(有情の得る果報のうちで最も勝れた人の生まれるところ)の依処をいう。欲界の迷いを超えて色界に生ずる定の中の不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなるのを第四静慮という。此処に生じた有情は、五百大劫の間無心に住する、この果報を指して無想天と名づける。(彼の定とは)無想定を修して無想天に生まれる。因として得られた果である。有情の類が前六識の麤想を生死の因と思い、それを厭う力を以て無想天に生まれて、前六識と及びそれに相応する心所とに違うのである。六識とそれに相応する心所が起こらないことを以て、無想天と名づく、と。
 この解釈について初めに第一師の説を挙げましたが、もう少しつづきます。
 第一師の説 (2)
 「彼こには、唯、有色支のみ有りと説けるが故に」(『論』第七・十左) (意訳) 無想天には、ただ五根等のみ有ると説かれているからである。
• 支は部分・要素をあらわす。「別を以て総を成じて支の名を得る。車の衆分、四支の軍の如し」といわれますように、五蘊という五つの構成要素によって身体が成り立っているように、一つの総を成り立たせる必要欠くべからざる別を支というのです。
• 有色は物質的なもの。五蘊のなかの色蘊の色をいう。十二処(存在の十二の領域)でいえば、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処と色処・声処・香処・味処・触処と法処所摂色をいう。(『瑜伽論』66・正蔵30.666b)
 第一師は無想天には、眼処・耳処・鼻処・舌処・身処と色処・声処・香処・味処・触処と法処所摂色のみが存在している。意根(意処)と法境(法処)とは存在しないのであると。五根・五境のみが存在するということは現量になり、分別は起こらないというのです。
 「述曰。瑜伽の第十に説いて、問、一切の生処と及び三摩鉢底(等至)の中に於いて、みな一切支が現行し可得なることありや。答、不可得なり。謂く無想天と滅尽定と無想定との中に、 「唯、色支にみあって」 可得也。無色支にあらず。無色界に生じてはただ無色支のみ可得なり。有色支にあらず。これは六識に依るといえり。故に彼処は一期に無心なることを知る」(『述記』第七本・五十五右)
 十二処と色界の四静慮と無色界の四無色定を根本の等至といわれる中に於いて、すべての支が現行し、可得(かとくー認識され得ること。存在し得ること)があるのか、否か。という問いがだされています。『瑜伽論』の中には六種の三摩鉢底が説かれていて、無想定・滅尽定の三摩鉢底が説かれている。(『瑜伽論』巻十一・正蔵30・329b)等に至るという意味で、定の力によって身心が等しく安和な状態に至ること。掉挙・惛沈とを離れて等に至るということがいわれている。答えは、不可得である。何故かというと、無想天と滅尽定と無想定との中には、ただ色支のみあって認識され得るのである。無色支ではない。無色界には物質的なものでない六支の中の意支のみが認識され得るのである。このような理由で無想天は一期(一期の生滅と刹那の生滅)に無心であるというのです。
 第一師の説 (3) 「又説かく」 
 「又彼こを説いて無心地と為せるが故に」(『論』第七・十左)
 (意訳)又、無想天を説いて無心地と名づけるということが、『瑜伽論』巻第十三に説かれている。
 「述曰。瑜伽の第十三巻に、六種を無心地と名づけと説けり。謂く、二の無心定、及び、無想天、睡眠、悶絶、無余涅槃なり。
 (分位建立者。謂除六位。當知所餘名有心地。何等爲六。謂無心睡眠位。無心悶絶位。無想定位。無想生位。滅盡定位。及無餘依涅槃界位。如是六位。名無心地)
 (分位建立とは、謂く六位を除く、当に知るべし、所余を有心地と名くと。何等をか六と為す、謂く無心睡眠位と無心悶絶位と無想定位と無想生位と滅盡定位と及び無餘依涅般界位と、是の如きの六位を無心地と名づく。)
 すでにこの天をもって二定に例同するに、明らかに有心にあらず。有心のときに二定と名づくるに非ざるが故に。これを以って例とするに、明らかに亦なきが故に」(『述記』第七本・五十五左)
 第一師が解釈していることは、多分に拠って説いているのであり、一切を云っているわけではない。『瑜伽論』に説いていることは、 「死後の中有の諸心に、想が正しく生ずる時を説いて、想を生じ已ると名づくのであり、即ち後に想が生ずる時は、これは死し已って便ち彼の天より没すというのである。これによって未没の時を便となすというのではない、と論破しています。無心は心が働いていない状態(例えば睡眠・悶絶している状態)をいいますが、この状態は阿頼耶識を成就し転識を成就するのではない、ということなのですね。
 涅槃ということもですね、ただ涅槃というのであれば、無心位が涅槃ではないという論証がありません。涅槃だと言われれば、そうかな、というようなものです。親鸞聖人は涅槃とはいわれないですね。大般涅槃・無上大涅槃といわれます。「大慈大悲きわまりて、生死海にかえりて、普賢の徳に帰せしむともうす」(『唯信鈔文意』)ことが内実になりますね。本願文の中で、必ず滅度に至る願として第十一に誓われています。これを証大涅槃の願と名づけておられますね。往相・還相廻向の基点になるわけです。そこに「設我得佛」 一切衆生が救済されなかったならば、 「不取正覚」 という意味をもつわけです。このような眼差しがなかったならば、五位無心位は楽土で有ると言われても致し方のない所に成りますし、命をみつめる眼差しも欠如してしまいます。五位無心位には意識が働かないといわれていても、意識を動かす、意識の所依である根本識と、末那は恒に倶転しているわけです。
 安田先生は、
 「第六識の五無心位を注意することによって、生きているという識を六識以外に求めねばならないこととなる。・・・生まれるとか、死ぬとかということは、意識では包めることではない。・・・生命の問題である。・・・その場合、前六識には意識がないという場合が、稀ではあるがあるということが、重要な意義をもってくる。・・・第一や第二能変に至る通路として、これが重要な意義をもってくる」 と、示唆されています。(『選集』第四・p22~23)
 第一師の説を述べおわりました。次回は第二師の説を述べます。

第三能変 第九 起滅分位門 (4) 五位無心 (2)

2016-12-09 23:23:44 | 第三能変 第九・起滅...
  

 無想天について、第一師の主張。
 「無想天とは、謂く彼の定を修して麤想を厭う力を以て。彼の天の中に生れて、不恒行の心と、及び心所とに違う。想を滅するを以て首と為す、無想天と名づく」(『論』第七・十左)
 (意訳) 無想天とは、色界・第四静慮処の第三広果天(無想果)の中の高勝(有情の得る果報のうちで最も勝れた人の生まれるところ)の依処をいう。欲界の迷いを超えて色界に生ずる定の中の不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなるのを第四静慮という。此処に生じた有情は、五百大劫の間無心に住する、この果報を指して無想天と名づける。(彼の定とは)無想定を修して無想天に生まれる。因として得られた果である。有情の類が前六識の麤想を生死の因と思い、それを厭う力を以て無想天に生まれて、前六識と及びそれに相応する心所とに違うのである。六識とそれに相応する心所が起こらないことを以て、無想天と名づく。
 定については、別境の心所の定の項で述べていますが、定に二義あることについては、定とは「所観の境の於に心を専注して散ぜらしむるを以て性と為し、智が依たるを業と為す」といわれていました。この定について二種ある。生得定(しょうとくじょう)と修得定(しゅとくじょう)です。生得定とは、前世の善業の力によって、生まれながらに得ている定の境地をいい、色界四禅天と無色界四定の八定地はこれにあたります。その対として修得定がいわれ、現世において段階的に修行をして得られる定をさします。これに無想定と滅尽定があるといわれています。
 次に、五位の解釈が述べられます。
 この中が三に分かれます。(1) 無想天を解す。 (2) 二定(無想定と滅尽定)を解す。 (3) 睡・悶の位を解す。
 (1)の無想天がさらに五に分かれて説かれます。(一) 得名を顕す。 (二) 識を滅する多少 (三) 一期に於いて有心・無心ということを争う。並びに出体と弁性を述べる。 (四) 処所を顕す。 (五) 彼の因を顕す。
  初めに第一に得名を解す。
 「麤想を厭う力」とは、謂く諸の外道は想をもって生死の因となす。いま偏にこれを厭う。ただ前六識の想なり。第七・八にあらず。故に麤想という。細想は在るが故に。「彼の天の中に生まれて」とは、第四禅の広果天の中に生まれて、別に高楼あり、この果をうけれが故に、前の六識を不恒行と名づく。数間断するが故に。「不恒行の心と及び心所とに違す」とは、六転識が滅し、全に行ぜざることを顕す。七・八の行ぜざることなきが如くにあらざるが故に。若し六識がみな滅すれば、何ぞ独り無想とのみ名づけんや。「想を滅するをもって首と為す」。加行の位において、ただ偏にこれを厭う。故に「首となす」という。首とはこれ頭首なり。先首の義なるが故に、「無想天と名づく」。(『述記』第七本・五十四右)
 想は別境の心所の一つで、対象が何であるのかと知る知覚作用です。言葉を用いた概念的思考ですね。この想が無い天を無想天といいます。言葉を用いた概念的思考を起す働きのある想を特に厭って無想といわれるわけですが、概念的思考が離れるところから間違いを起すのですね。この天を真の解脱・涅槃と考え、無想定を修して生まれる天といわれます。無想定を因とした結果(異熟・果報)であることから無想異熟ともいわれています。六識が滅したところに仮にたてられたところなのです。ですから意識は現起しないのですね、解脱したと錯覚を起すわけです。
 「故に六転識いい、彼に於いて皆断ず」(『論』第七・十左)
 (意訳) (第二の識を滅する多少が述べられます。)以上の理由によって、六転識は、無想天において皆断ずるのである。
 「述曰。これは即ち第二に六識を滅するなり。七八は微細にして彼は知ること能わず。故に滅せざるなり。総じて六というと雖も、遠く三と近の一となり」(『述記』第七本・五十四左)
 「疏に「雖総言六遠三近」とは、二釈あり。一に云く、当地を近と名づけ、異地を遠と名く。眼耳鼻の三は下地の法なるが故に。二に云く、先滅を遠と名づけ後滅を近と名づく。彼の天に生じては四識生ぜざること前後有るに由るが故に。前の釈を正と為す。本意は彼の所滅の識は皆当地に非ずと顕して遠近の言を置くなり」(『演秘』第六本・三右)
 五位無心位ということが、意識の大きな特徴ですね。五位無心位において意識は起こらないから、前六識は起こらないと説かれています。『論』は五位無心について第七・十左から第七末まで詳細に解釈しています。このことについては、安田理深先生が「第七・第八の論証の理証の根拠として、五位無心位が重要になってくる」と教えられています。(『選集』第四・p15)また、大田久紀師は「利己的自己について」のなかで、「第六意識が働かぬ時にも、或は、第六意識の我愛が超克された時にも、なお且つ衆生を動かしつづける自我愛を自覚せざるをえなかったのである。それが<恒>ということばで表される。<恒>は、第六意識が有間断、つまり非恒であるのと、善悪等の三性が常に変わってゆくのに対して第七識がそうでないのを表わす。・・・従って、第六意識が断えた時にはそこでは我執・我愛は、識体と共に働かなくなる。つまり我執のない状態になる。とすると諸仏には我執・我愛はないから、第六意識が断えて我執のない状態は、そのまま仏だという論理が成立する。第六意識の断える時・・・(五位無心)・・・この五の時には、・・・それをその儘成仏とする思いちがいもありうるかもしれないが、極睡眠とか、深酒や病気で意識をうしなっているのを、そのまま仏とはいかにしても認め難い。・・・間断の底に無間断で常恒の凡夫性、つまり第七末那識を捉える」と述べられています。五位無心が第七末那識の存在の証明になるのですね。第七末那識の存在の証明が五位無心時において有情が仏に成るのではなく、有情は有情であることの証明にもなるわけです。五位無心時において第六意識は働かないとしても“生きている”わけです。その生を成り立たしめているのが第七・八の識なのです。
 無想定を修して無想果を得るということですから、無想定を修する時は有想の状態ですね。「この身今生において度せん」という菩提心が聞法の機縁になって、日常生活がそのまま仏道の道場となるのでしょう。信心を獲得するということは、異熟果ですね。迷いの生存を明らかにし、迷いしかない人生を引きうけていける力をいただく、そこがところがのまま、転じていける世界がひらかれてくるのでしょう。「悪を転じて、徳と成す正智」の世界です。「穢を捨て浄を欣」う心根が「行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの」という目覚めと一体に働くのです。法蔵菩薩の願心と衆生の願心が一つになったところが阿頼耶識なのでしょうね。
 横道にそれましたが、求めた結果が誤解であっても無想天に生じて六識が滅する、迷いの意識である六識がおこらないというのです。ここに私たちの生存を明らかにする根拠が示されてくるのですね。『論』における、無想天についての記述が示されます。
 「有義は彼の天には常に六識無し。聖教に彼こには転識無しと説けるが故に」(『論』第七・十左)
  (意訳) (第三の、一期に於いて有心・無心ということを争う、三の解あり。ここは第一師の説を述べる)無想天には常に六識は存在しない。「聖教に彼には転識なしと説けるが故に」とは、『顕揚論』の第一(正蔵31・484・b-09)に云く、無想天というは謂わく先に此の間に於て無想定を得て、此れに由りて後に無想有情の天処に生じて、恒に現行せざる諸の心心法滅する性なりと云えり。又『五蘊論』(正蔵31・849・c-09)にも亦恒に現行せざる心心法滅すと云えり。『対法』(巻第二・正蔵31・700・b-12・無想定の釈文)も亦同じ」(『演秘』(第六本・三右7)
 「無想天者。謂先於此間得無想定。由此後生無想有情天處。不恒現行心心法滅性」(『顕揚聖教論』巻第一)
 「不恒現行心心法滅爲性」(『大乗五蘊論』巻一)
 「無想異熟者。謂已生無想有情天。於不恒行心心法滅」(『大乗阿毘達磨雑集論』巻二)
 以上が第一師の教証になります。
 「述曰。一期の生死に倶に六識無し。故に常無と言う。少しく有るに非る故に、常は一切の時の義なり。「聖教に彼には転識なしと説けるが故に」とは、即ち対法第二と顕揚第一と五蘊とに、みな無想に心なしといえり。この中にもまた第六意識は無想天に生じ、竟(つい)に起こらずと説けるが故に。定めて一期にみな無心なりと言わずと雖も、然も総じて、彼に生じ、第六の識心なしと説けるが故に、生にも死にも無心なり。若し爾らずんば、論に初後には有心、中間には無心なりと分別すべきなり」(『論』第七本・十左)と。
 無想天に生まれると言う事が、ニルバーナの境地なのだというわけです。涅槃だと。そこでは一切の時に意識は常無であると。「一期にみな無心」であるというのが第一師の説になります。

第三能変 第九 起滅分位門 (3) 五位無心 (1)

2016-12-08 23:25:52 | 第三能変 第九・起滅...
    

 本科段より、五位無心に入ります。
 「自下は第二に除生無想天等という下の三句の頌を解す。中に於いて初めに問、次に答、後に総料簡なり」(『述記』)
 『頌』 第十六頌の下の三句を解釈する。初めに問いと答え後にまとめる。
 「五位とは何ぞ」 ・ 「述曰。問なり、下を生ずるなり」
 「無想に生ずる等なり」(『論』第七・十左) 「述曰。答えの中に三あり、初めに頌をあげて総じて答す。次に別に五を解す。後にこれを総結す。第二の頌の中、下の三句をあげて、以て所問に答す。「等」の言に摂するが故に」(『述記』第七本・五十三左)
 (意訳) 「五位とは」という問いに対して、初めに「無想に生ずる等なり」と答え、次に五位の名を列挙して解釈する。後に(第三・総結)「斯の五の位を除いては意識恒に起こる」(『論』第七・十六右)結ぶ。二の無心定と無想天及び睡眠と悶絶の、この五を除いては第六意識は恒に起こる。何故ならば、第六意識が起こる縁は恒に備わっているからである。
 意識が絶える時の説明です。それが五位無心だというわけです。初めに無想天を代表させて述べています。無想天では意識は働かないといわれています。色界の第四静慮天の第三の広果天の中にある高勝の依処で、此処に生じた有情は、五百大劫の間無心に住する分位をいう。対象が何であるかと知る知覚作用がない天で、六識が滅したところに仮にたてられたものであるとされます。そして何故、意識が働かないのか、その理由を五位に由って説明されます。
 無想天の出典は、『倶舎論』巻二に「広果天の中に高勝処あり。中間静慮の如し、無想天と名づく」 説一切有部・経量部は色界第四禅天の広果天の一部としています。
 この無想天とは、何を指すのでしょうか。次科段から『論』では非常に詳しく論じられていますが、私にとって無想天とは何かという問題です。端的に言えば、聞法から生じる信心の誤解、疑惑なのです。信心の私有化の問題です。私有化は仏智疑惑なのですね。

         “仏智疑惑のつみにより
            懈慢辺地にとまるなり
            疑惑のつみのふかきゆえ
            年歳劫数をふるととく”

         “七宝の宮殿にうまれては
            五百歳のとしをとしをへて
            三宝を見聞せざるゆえ
            有情利益はさらになし”

         “辺地七宝の宮殿に
            五百歳までいでずして
            みずから過咎をなさしめて
            もろもろの厄をうくるなり”

 『正像末和讃』に親鸞聖人は述懐されていますが、まさにですね、「如来よりたまわりたる信心」の私有化(自力の信心)が、浄土をあこがれ、浄土に生まれたような錯覚を起し、七宝の宮殿に自らを閉じ込め三宝を見聞しない、このような状態を“無想天”といい現わしているのではないでしょうか。
 「無想天とは、謂く彼の定を修して麤想を厭う力を以て。彼の天の中に生れて、不恒行の心と、及び心所とに違う。想を滅するを以て首と為す、無想天と名づく」(『論』第七・十左)
 (意訳) 無想天とは、色界・第四静慮処の第三広果天(無想果)の中の高勝(有情の得る果報のうちで最も勝れた人の生まれるところ)の依処をいう。欲界の迷いを超えて色界に生ずる定の中の不苦不楽・捨・念・一心の四支よりなるのを第四静慮という。此処に生じた有情は、五百大劫の間無心に住する、この果報を指して無想天と名づける。(彼の定とは)無想定を修して無想天に生まれる。因として得られた果である。有情の類が前六識の麤想を生死の因と思い、それを厭う力を以て無想天に生まれて、前六識と及びそれに相応する心所とに違うのである。六識とそれに相応する心所が起こらないことを以て、無想天と名づく。
 定については、別境の心所の定の項で述べていますが、定に二義あることについて述べてみます。
 定とは「所観の境の於に心を専注して散ぜらしむるを以て性と為し、智が依たるを業と為す」といわれていました。
 この定について二種ある。生得定(しょうとくじょう)と修得定(しゅとくじょう)です。生得定とは、前世の善業の力によって、生まれながらに得ている定の境地をいい、色界四禅天と無色界四定の八定地はこれにあたります。その対として修得定がいわれ、現世において段階的に修行をして得られる定をさします。これに無想定と滅尽定があるのです。

第三能変 第九 起滅分位門 (2) 意識常現起

2016-12-06 21:24:00 | 第三能変 第九・起滅...
    
 釈昇空法話集より引用 
 「これは、唯識仏教で説かれております「心の構造」を、私なりにアレンジして描き直した「いのちの全体像」です。と申しましても、別に、「いのち」がこういう形をしているというわけではありません。これは、あくまでも、ひとつのモデルでして、いわば「たとえ話」です。どうぞ、そのおつもりでご覧ください。
 まず、簡単に、この図をご説明いたします。この小山のように盛り上がっているのが、たとえば「私」です。図全体では、波が並んでいるようにも見えますが、この波ひとつが一人の人間に相当いたします。ちょうど、海底から立ち上がって海に浮かぶ島を、横から見たような形ですね。
 ひとつの小山を、上から順に、青、赤、黄に色分けしてありますのは、それぞれ「五感と意識」「マナ識」「アラヤ識」を表しております。「マナ識」「アラヤ識」というのは、唯識仏教の用語ですが、特に憶えて頂く必要はありません。心理学でいう「深層意識」や「無意識」に近いものとお考えください。
 この水平線から上が、私たちの目に見える現象世界です。この青色の「五感と意識」には、帽子のように緑色の膜が被せてありますが、これは「身体」を表しております。「五感と意識」は目に見えません。見えているのは、それらを包み込んでいる「身体」の方です。ですから、この水平線から上の部分は、死ねば無くなってしまいます。私たちが通常自覚できるのは、ここまでです。
 さて、次に、この水平線から下は、私たちには通常はほとんど自覚できない、いわば無意識の世界です。上にあります赤色の「マナ識」というのは、私たちの心のなかで「煩悩」に支配されている領域です。「煩悩」というのは、簡単に申しますと、「他の誰よりも我が身が可愛い」という心の働きのことです。現代の言葉で言えば、つまりは、「エゴ」です。
 私たちは、この「エゴ」に「意識」を支配されておりますから、この「マナ識」を「自分」だと思っております。それで、これが「我」と呼ばれるわけですが、それは「本当の自分」ではなくて、「エゴ」に支配された「偽りの自分」なのです。
 その下に広がっている黄色の「アラヤ識」というのは、私たちの心のなかで「煩悩」に支配されていない清らかな領域です。仏教ではこの領域のことを、いろいろな名前で呼んでおります。たとえば、「涅槃」とか、「空」とか、「無我」とか、「如」「真如」「一如」とか、「仏性」「浄土」「阿弥陀仏」とかいうのは、みなこの領域のことです。精神世界の伝統で「永遠の今」というのも、ここのことです。
 ここは、「エゴ」に支配されておりませんから「無我」と呼ばれております。この「無我」こそが「本当の自分」なのです。つまりは、「本当の自分」は「仏」だということです。私たちは、みんな「いのち」の奥底で「仏」に支えられているのです。
 「仏様」と言うと、私たちは、どこか遠い空の彼方にでもおられるように思っておりますけれど、そうではありません。私たちは、みんな「仏」なのです。「エゴ」に妨げられて、そのことに気づいていないだけなのです。
 ちょっと余談ですが。インドの聖者でサイババという人がおられます。有名な方ですから、皆様もご存じかもしれませんが、あのサイババに、ある人が、こう尋ねた。「あなたは神ですか」と。すると、サイババは、こう応えたといいます。「そうです。私は神です。ですが、あなたもまた神なのです。私は、自分が神であることを知っている。でも、あなたは知らない。私たちの違いは、それだけですよ」と。これも、同じことを言っているのだと思いますね。
 仏教がめざしているのは、この「エゴ」の支配から解放されて、本当の自由になることです。つまりは、「本当の自分」になること、「仏」になることです。
 ちなみに、「エゴ」から解放されることを「解脱」と言います。そして、その「解脱」の境地が、「涅槃」と呼ばれる完全な平和です。この完全な自由と平和の境地に到達することをめざしているのが、仏教なのです。完全な自由と平和。いかがですか。これこそ、私たちが本当に願っていることではないでしょうかね。」(釈昇空法話集より引用)
  
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 起滅の分位(2)第七識・第八識について、

 「第七・八識は行相微細(ギョウソウミサイ)なり。所籍(ショシャク)の衆縁(シュエン)一切の時に有り。故に縁として礙(サエ)て総じて行ぜざらしむること無し」(『論』第七・十右)

 (意訳)第七・八識の行相は前六識と違って微細に働く。第七・八識を動かす縁は一切の時にある。いつでもあるわけです。私が生きている限り、第七・八識は意識の根底にあって、いつでも働き続けている、働かないということはないのである。

 ここまでが第一の解です。第六識が常現起する説明として、前五識に対して区別するとともに、第七・八識とも区別をしているわけです。

 「述曰。第七・八識は行相、恒に内に縁じて一類に審なり。起こるに縁を籍ること少なり、一切の時に有り。行相は細を以て。故に縁として礙げて総じて行ぜざらしむるもの無し。総じて行ぜずの言は、謂く第七識は無漏と滅定とに違す。染の一分は行ぜず。体が総じてなきにあらざるなり。又但だ転変せしむべし。総じて行ぜざるにあらず。故に前と別なり(第六識とは別である)。・・・八識を以て相望するに、前の五にも同じからず。また後の二に異る。常現起と名づく。・・・」(『述記』第七本・五十二右)

 「第七識は無漏と滅定とに違す」と護法は主張しています。無漏の識が起こってくれば、第七末那識は無くなるのではなく、染汚の末那がなくなるのみであって、末那が無になるということではないのです。
 染汚の末那が転じて出世の末那というときは、我と執着する我から、我と執着しない我へと、我が転変するわけですね。「(第七識)体が総じてなきにあらざるなり」なのです。
 前五識と、後の第七・八識と区別をして常現起を説明しているのです。
                         
   ー  起滅の分位 意常現起  ―
 第二の解釈になります。
 「又、五識身は思慮すること能はず。唯、外門(ゲモン)のみに転じ起こるには多縁を籍(カ)る。故に断ずる時は多く現行する時は少なし。第六意識は自ら能く思慮して内外門に転じ多縁を籍らず。唯、五位を除いては、常に能く現起こす。故に断ずる時は少なし、現起する時は多し。斯に由って此をば随縁現と云うことを説かず」(『論』第七・十右)

 (意訳) 前五識はいろいろなことを思慮することが出来ない。ただ、外のものに働いていくので、五つの感覚が働くためには多くの縁が必要になる。よって、断ずる時が多くなるり、現行する時は少ないのである。第六意識は自らよく思慮して内側にも、外にも働いていく。よって、多くの縁を必要としないで現行していくのであり、断じている時は少なく、現起している時は多い。よって第六意識の現起するには、縁に随いて現ずとはいわないのである。
 • 外門転とは - 「五識の行相は麤にして外門転なり」。内門転の対。外界の対象に対してはたらきを起すこと。
 • 内門転とは - 心識が内面に対してはたらきを起すこと。「阿頼耶識は唯、内門に依って転ず」
 
 「述曰。第二番の解なり。「思慮すること能わず」とは、尋伺なきが故に、自ら起こること能わず、他の引を籍るが故に、麤の事を縁ずるが故に。「唯、外門に転ず」とは、ただ外境を縁じて、内に種と根と理(四諦の理)等を縁ぜざるが故に、この所以あり、「起こるに多の縁を籍る」とは、境界は定めて格限りあるが故に、所依等が、或いは欠る等の時に由るが故に、「断ずる時は多く現行する時は」乃ち少なし」
 • 尋伺(尋求と伺察) - 第三能変・不定の項(200年3月30日)を参照してください。尋は認識の対象を大雑把に思い計ることですが、伺は詳細に思い計ることになります。 

 第一の解釈では他の識と区別をして「常現起」するとみられていましたが、第二の解釈では、第七・八識を待つ必要はない、と。前五識と区別して「常現起」を明らかにしています。
 (1) 前五識は思慮することができない。意識の引く力が必要である。五識は意識に引かれて起こるのである。 
 (2) 五識は唯、外門に転ずる。 
 (3) 五識は現象的存在(事)であって知覚の内容となるもの、すべては事であり、自性分別(現在一刹那の対象そのものを認識する)のみがある。 
 (4) 五識は、多くの縁を籍りるから、現行することは多くない、といわれています。 
 以上の四つの説明は第六意識と比較して第六意識の「常現起」を明らかにしているわけです。第六意識は縁に依って現ずるのではない、多くの縁を必要としないので、断じている場合が多くない、少ないのである、と。

 「述曰。「自ら能く思慮す」とは、尋伺あるが故に。「内外門に転ず」とは、理、事等を縁ずるが故に、根、境等の法の所籍の縁は少なし。一切の時に具し足らざることあることなし。自ら能く思慮す。五識が起こる時、引生するを籍るが如くにあらず。「多くの縁を籍らず、ただ五位を除き、常によく現起す。故に断ずる時は少く、現行する時は乃ち多し」。これに由って頌の中に、第六の意は「縁に随って現ず」と説かず。ただ「常に起こる」というは、起こる時が多きが故に、五識は起こる時少し。故に頌の中に随縁現の言あり。

 この師(護法)の意は、この頌の中に、ただ六識の行と不行とを明かす。何ぞ労して七・八に対せんやという。前師は八・七識に対して、内外門を解するうち、理に約し以て内門となすを得ず。八・七識が五と同なるをもっての故に。この第二師は内外門に於いて、理をもってまた内となすことを得。第六に方べるが故に。二解の中において第二師を勝となす(『述記』第七本・五十三右)

 意識は、
 (1) 一切時にあるといわれますから、過去・現在・未来も分別するわけですね。現在一刹那の分別は自性分別、過去の事柄を思考することを随念分別と云うのに対し、過去の事も、未来のことも、また現在の事柄を思考することを計度分別(けたくふんべつ)といわれます。意識はこの三種の分別をそなえているわけです。 
 (2) 内外門に転ずる。内は理(四諦の真理)・外は事(現象的存在)に、その時、その場合によって認識が異なる。外門転という場合もあるという。第七・八識は内門転のみである。 
 (3) しかし、第六意識は、多くの縁を必要としないので、断じている場合は少ないという。断は五位においていわれる。五位については次の科段で説明されます。

 五識は多くの縁を籍りて起こるので、「随縁現」と云うのに対して、第六意識は所籍の縁が少ない、つまり縁が常に具足しているので、随縁現とはいはず、常現起と云う。この解釈のほうが第一師の解釈よりも勝れているといわれているのです。

第三能変 第九 起滅分位門 (1)

2016-12-05 20:31:41 | 第三能変 第九・起滅...
  

   ― 第三 起滅の分位 ―
 起滅分位門に入ります。意識の問題です。意識は五つの生縁を待って現起します。

 「自下は第三に起滅の分位を解す。中において二あり、初めに意は常に現起することを解す。後に除生無想天等を解す。初のうちに二の復次の解あり。将に第六の常現起を明かさんとするが故に、却って結んで、五識は縁に由るが故に生じ、生ぜざることを解するなり」(『述記』第七本・五十一右)
(意訳) これから下は第九起滅門になり、第三の起滅の分位を説き明かします。初めに「意常現起」を釈し、後に五位無心を釈します。この初めの中に二の釈があり、第一には、「常現起の言」を釈し、第二に五識は縁に由って現起すること、或いは現起しないことを釈します。
  

 「五転識は行相麤動(ギョウソウソドウ)なり。所籍(ショシャク)の衆縁(シュエン)の時として多く具せざるに由って、故れ起こる時は少なく起らざる時は多し」(『論』第七・九左)

 (意訳) 五転識は因と縁に依って生じる現象があらあらしく、いろいろな条件、即ち九つあったり、八つだったりします。条件が多いということは、それだけ条件が揃わない、欠けるという事が多いということになり、起こる時は少なく、起こらない時は多いのである。

 「述曰。即ち眼等なり。行相麤動なり、とは、麤はただ外境を取るなり。動は浮囂(ふごう)の義なり。また麤は行相が知り易きなり。動は外境を縁ずるに由って、数、転易を加え乃し仏果に至り、五識の勢は因と同なり。所籍の衆縁は前にすでに説けるが如し。時として多く具せずとは、縁が多にして弁じ難きを以ての故に、恒に具すべからざるが故に、起こる時は少なく、起こらざる時は多し」(『述記』第七本・五十一右)

 五識は行相が麤動である。つまり、五識が生起する可能性は種子としてはいつでもあるけれども、縁がともなわない、現行するためには縁が必要であるが、縁が伴わない時が多いという。麤は大雑把であるから知り易い・動は転易する。善か悪かいつでも動転している。
 意識は五縁(意根・一切法・作意・根本依・種子)を必要とします。五縁をまって生起するのです。意根が末那識になりますね。意識が意根に由って左右されますし、意識の状態に由って五識がまた左右されるわけです。五識の場合には多縁を必要とするので起こる時は少なく、起こらない時は多いといわれているわけです。第六意識は条件が少なく(五縁)なるので、起こりやすい。しかし時として起こらない時もある、ということですね。
 囂(ゴウ) - かまびすしい。がやがやと騒がしいこと。
 麤動(ソドウ) - 心が定まらず動揺している様子。 

 「第六意識も亦麤動なりと雖も、而も所籍の縁時として具せざること無し。違縁に由るが故に有る時は起こらず」(『論』第七・十右)
 違縁とは、こころに違う縁。自ら心に望まない事がら。ここでは五位無心を指します。「除生無想天・及無心二定・睡眠與悶絶」です。

 (意訳) 第六意識もまた五識と同様に、こころが定まらず揺れ動いているのである。第六意識を動かす縁が、時として具せない時はない。いつでも具している。しかし、こころに違う縁に由って起こらない時があるのである。「意識は断ずる時少なく、現起の時多し」といわれます。

 「述曰。亦麤動なりと雖も、の亦とは、不定の義を顕す。謂く五識に亦す。又自識の行相には兼ねて細もあることを顕す。麤をもって細に亦す。又第七八識と行相が異なることを顕す。彼は微細、沈審なり。また所籍の縁、少にして弁じ易きが故に、時として具せざることなし。
 (問) 若し爾らば、何故に一切の時に第七八識の如く、相続して生ぜざるや。
 (答) 違縁に由るが故に、有る時に起こらず。何者をか違縁なりや。即ち下の五位なり。或いは心を厭う。あるいは異縁をもって礙げ、識の生起することを遮す。故に違縁と名づく。 (『述記』第七本・五十一左)

 第六意識も「亦麤動なりと雖も」の「亦(ヤク)」は不定の意義を表します。前五識は行相麤動であり、随縁現起です。第六意識は行相麤動ではあるけれども、行相が一切時にあり、また違縁がある。また第七・八識は行相微細であることに亦す。また第七・八識は行相微細であるとともに、行相が一切時に有り、違縁がないのである。第六意識は五位を除いては常に現起していることを明らかにしています。前五識は起こらない時があるけれども、第六意識は一切時において有る、しかし違縁というものがある。違縁がないのは、第七・八識なのですね。第七・八識は三縁及び四縁を必要とするのみであってですね、第七識の縁は根・作意・種子を必要とし、第八識は根・境・作意・種子を必要とするのみであると説かれているのです。