先日(2月12日)に「リヒト・クライス」の第2ステージで「水のいのち」(高田三郎作曲の合唱組曲)イタリア語版を聞いた。今回は本邦初演ということである上に、そのステージはイタリア公演時と同じメンバーによるもので熱演であった。(指揮は鈴木茂明氏)
その時、原語が日本語の歌を他の言語で(この場合はイタリア語)聴いたのは初めてだったんじゃないかと、ふと思った。
この組曲は合唱では実によく耳にする曲であるし、高校時代には歌ったこともあるのだが、そのイメージが日本語とイタリア語とではこんなに違うとは、と思ったからである。
どっちがいいとか、そういうものでは全くない。別の曲のように感じたのである。
イタリア語版はテンポも日本語版より少しゆったり目で全体が明るい、といった感じ。アンコールに日本語版の「水のいのち」より第一曲「雨」が演奏されたのも聞き較べられて興味深かった。そこに日本語の陰影を含む美しさというのを感じたのである。へ~、言語の持つニュアンスの違いというのは、こういうものか、と思わず納得の瞬間だった。
その時、原語が日本語の歌を他の言語で(この場合はイタリア語)聴いたのは初めてだったんじゃないかと、ふと思った。
この組曲は合唱では実によく耳にする曲であるし、高校時代には歌ったこともあるのだが、そのイメージが日本語とイタリア語とではこんなに違うとは、と思ったからである。
どっちがいいとか、そういうものでは全くない。別の曲のように感じたのである。
イタリア語版はテンポも日本語版より少しゆったり目で全体が明るい、といった感じ。アンコールに日本語版の「水のいのち」より第一曲「雨」が演奏されたのも聞き較べられて興味深かった。そこに日本語の陰影を含む美しさというのを感じたのである。へ~、言語の持つニュアンスの違いというのは、こういうものか、と思わず納得の瞬間だった。
熱演っつーからには、上手だったってことですよね?
同じ「水」とか「いのち」でも、日本人にとっての
「水」とイタリア人にとっての「水」は
違うもの・違うイメージなんじゃないかなあ?
ホント言葉のニュアンスの違いって大きいですよね。
さらに言うと、同じ「アミーゴ」っていう発音を聞いても
イタリア人と日本人では感じ方が違うのでしょうね。
逆もまた然り。
確かに言葉は文化の中で培われてくるものだから例えば「水」といったら風景から匂いから色から光から・・・とにかく自分のしょっているもの全てを総動員した中でこれが「水」ね、としてるわけですものね、突き詰めてみると。そして結果として「みず」と発音してるんだもんねえ。ということは、言葉のニュアンスの違いに文化の違いを感じたってこと?
酔ってるのバレバレ?
むかーし、まだ小さかった頃に、限りない不安に
かられたことがありました。自分は自分の顔を
鏡でこんなんして見とるけど、実は他の人には
全く違う風に見えてるんチャウかなぁ、とか、
みんなが言ってる「赤」って、あたしが見とる
「red」と同じやろっか、とか。。
rubiconeさんはそんなん無いん?
言葉とか発音とかニュアンスとか、そいうもの、
そのものを疑ったことあらへん?
そこまで疑っても人間って分かりあえる(ような
気がする)んだから、素晴らしいネ。
不安にかられたのはねえ・・・野山を駆け回っていた小さい頃、空は限りなく広かったし流れる時間も長かった。そんな中で不安を感じたのは自分が今いる世界のその向こうをふと想像することかなあ。(通りすがりの、行ったことのない草のかぶさったこの坂道の先にあるのは・・とか思うのは楽しかったけど。でもこの手の想像はたいていいつだって手酷く裏切られるんだよね)具体的にその不安は「想像を絶する」わけで、それがひどく不安だったな。
そして「言葉とか発音とかニュアンスとか、そいうもの、そのものを疑ったこと」というとですねえ、毎日使う言葉でひっかかる時があった。「お」と「は」と「よ」と「う」でなんでおはよう?朝の挨拶?ほんとに正しいの?とかね。
みんな色々背中にしょっていて一人ひとりになってるんだねえ。ううむ~!