愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

全羅北道益山市 古都里石仏立像

2011年10月16日 | 韓国 石仏:史跡他

ネットで検索していてなんとも奇妙で、どうしても出遭いたくなった石仏さん??です。

全羅北道益山市はずっと紹介してきた忠清南道と道境を接する、KTXの走る湖南線沿線の地方都市のひとつですが、僕もこの街のモテルで二泊したほど都市機能の良く整った街です。

扶余の街角で拾ったタクシーで前回紹介の大鳥寺に寄り、そのまま白馬江の下流、錦江の大きな流れを渡り約1時間、益山の街に入りそのままこの古都里石仏に遭いに来た。

益山市街を少し外れた高速道路脇に広がる耕地、小川の流れを挟んで二体の、一見電柱でも建っているのかと??見まごうような石柱状の石仏が建っている。

新しく盛り土された小高い頂部に建っていて、周囲は農作業に来た人たちの格好の駐車場と化している。

四角柱状の花崗岩にモニュメント宜しく様式化されたような体躯、その上には四角い顔を刻み

頭頂部には宝冠と高麗仏の特徴であるあの宝蓋を載せている。

相対する石仏は小川を挟んで200mほど西側、やっぱり農地の空き地に盛り土をした頂部に建っている。

二体共に殆ど瓜二つ、よく見ないとどちらがどちらなのか見分けもつかなほど・・

腕も無く、突然体躯に生え出た手を腰上で組み、顔はわずかに笑みをたたえている。

まるで石チャンスンの様ににも見える土俗臭を感じなくも無い・・、まるでこの地の守護神のようにも??

すぐ近くには王宮里と呼ばれる百済時代の離宮址もあり、その関連も考えられるが、時代的には全く合わない高麗末期の造立。

像高共に約4.3m、耕地の只中に有って共に向かい合う石像は周りの景観に良く溶け込み韓国の田舎を彷彿とさせてくれる。

韓国宝物第46号指定。

男女像だと想定され、風水的な意味も込められ、配置方法が特異で注目されている石像です。

撮影2011.9.29

場所


忠清南道扶餘郡 大鳥寺石造弥勒菩薩立像

2011年10月15日 | 韓国 石仏:史跡他

定林寺の有る扶餘中心街より南に約10km程走った里山のなだらかな斜面に建つ大鳥寺の、やっぱり巨大な高麗時代の石仏です。

実は此処を訪れたときには土砂降りの雨、それでも傘が邪魔に成るからとて傘も挿さずに撮影したものだからメインのカメラがすっかりこれ以後不調・・。

何も解らない韓国ではどうしようもなく、この日以後は全てサブのコンデジ1台でカバーする始末になってしまった。

帰国してもやっぱり不調、メーカー見積もりを取れば新しく買い換えるほど修理代が嵩むのでボディーを買い換える羽目になってしまった・・。

ああ~~過ぎたるは、及ばざるが如しか・・、無茶はするものでない??

愛機での最後の写真となってしまったこの大鳥寺の大弥勒石仏、そんなこと知る由もなくただただ激しい雨の中に立ち尽くしていた。

境内の奥まりに有る円通殿、その脇を少し斜面に登るとこの巨大な石仏、やっぱり大きな屹立する岩から頭部を含めて一石で彫りだしている。

その高さ約10m、頭上の宝冠と二重の宝蓋は別石で調整されているようです。

しかし、前々回に紹介した潅燭寺の弥勒石仏そっくりのその容姿、幾分小振りで顔容も穏やかに見えるが・・

忠南地方の一石大石仏はどこでも同じように前面はそこそこ装飾加工されているが、背面はどれを見ても切り出したままの荒削りです。

なんと言っても特徴的な宝蓋をつけて高麗前期、高麗元宗 (1260年頃)の造立だとされています。

韓国宝物217号指定の弥勒石仏です。

雨の日の撮影はカメラにカバーを掛けましょう。

ラップフィルムをカメラバックに入れ込んでおこうかな・・・・・・

撮影2011.9.29

場所


忠清南道扶餘郡 定林寺五層石塔/毘盧遮那石仏座像

2011年10月14日 | 韓国 石仏:史跡他

言わずと知れた日本とつながりの深い百済最後の都、扶餘(プヨ)の定林寺は「扶餘郡」郡都、扶餘邑の中心に位置して、周りを多くの百済史跡に囲まれている。

その昔、百済と日本の連合軍は、半島西部、白村江で「新羅、唐」の連合軍と戦い退敗、此処から北方約1km白馬江「落花岩の悲劇」が生まれ百済は滅びた。

この定林寺も西暦660年、唐・新羅連合軍の百済攻略にすべて破壊され灰燼に化したという・・・・。

当然此処もまた何度も訪れることになるとは思うが今回は雨の中、論山から郊外バスに揺られて大急ぎでこの定林寺だけはどうしても外せないと遣って来た。

古いWEBページなどを見るとだだ広い赤土の原野に土壇が点々と並び、この五層石塔と石仏だけが青天の下、佇んでいる。

 五層石塔は広い定林寺遺跡のほぼ中央部、発掘調査の終わった土壇の上に孤立している。

この寺址で唯一百済時代の遺物で有るという五層石塔・・・韓国最古の石塔だとされ、石塔様式の発展過程を知ることができる重要な作品だと位置付けられているようです。

定林寺の創立と共にその歴史、運命を共に石塔はやっぱり火災 に遭った様な痕が伺われるが、現在実に堂々と屹立していて、荘重な感じがする。

木造塔の構造様式をを石材に換えて表現してあるといわれており、どこかあの法隆寺の五重の塔のシルエットに重なる。

基壇上の初軸部には西暦660年7月18日、唐軍が扶蘇山城、王宮に入城、その百済平定記録を刻みこんでいる。

肉眼での判読は不可能だが・・・・唐が百済を平定し、百済の王と臣下を捕虜とした事実などを記録しているという。

百済を象徴する石塔に刻まれた百済の最期・・・・・なんとも哀しい運命を背負って建ち尽くしている。

高さ8.3m、国宝第9号に指定されている。

一方新しく再建された金堂内の他に何も無いがら~~んとした広いスペースぽつんと佇む石仏・・・・・

永らくは青天の元に在り、その混乱の歴史を物語るように見る影もなくひどく痛んでいる。

この定林寺は、唐の平定にて廃頽、後高麗時代には再興され再度繁栄したと思われ、その時代の遺仏だとされるのがこの石仏です。

度重なる戦乱で焼け爛れ赤っぽく変色、粉々状態で再築された八角形の見事な二重??三重台座、蓮弁は基部で下方に開き、上部石仏台座では上向きに開いていたと思われる

体躯はほぼ、つんつるてんで何がなにやら状態、ただなんとなく左手の人指し指を右手で握っている様にも見え、毘盧遮那仏坐像ではないかと言われています。

頭部や高麗形式を踏襲した宝冠は到底アンバランスな素人造りの近世のもの。

この石仏にしても何度戦火に焼かれたのだろう、今は穏やかな顔のように造られて居るが・・・なんともむごい歴史を見て来たに違いない。

この焼け爛れ、崩れた台座がそれを良く語っている。

総高約5.6m、韓国宝物第108号に指定されています。

扶餘定林寺址HP

撮影2011.9.29

場所


忠南論山市 特坪里(トッピョンリ)如来石仏立像

2011年10月13日 | 韓国 石仏:史跡他

何をどう間違ったのか??、タクシーのアジョッシが連れて行ってくれた石仏さん・・・・、多分僕が住所をどこかで取り間違えたのだろうが??

先に紹介した灌燭寺から北東へ約5km、KR湖南線「夫皇駅」近く、なだらかな斜面の小さな集落「特坪里(トッピョンリ)」の民家脇の台地に佇んでいる石仏さんです。

まあ、日本で言えば村の地蔵さんと言った類でしょうか??それでも忠南道の文化財には指定されてますが、何よりもあの煩わしい涎掛けの無いのがうれしい。

見てください、なだらかな韓国の山には杉の植樹がなく松林がどこでも広がっています・・・・、いまや日本では見れなくなった自然の山と言う感じがします。

この地にも往時「云除寺(ウンジェサ)」と呼ばれた寺があって、この石仏はその遺仏だといわれています。

下腹部は突き出しているが背後に廻ると、こんなに薄っぺらくて何の飾りも無い。

石仏はご覧のように丸彫りの如来立像で高さ約2m、民家の片隅に置かれてる石仏としては中々どうして大きなものです・・、此処では寺院の堂さえ再建されては居ないですが。

顔は風化や痛みも激しいいが、大きな肉髻(にっけい)まん丸ぽっちゃり顔はまるでキューピー人形のよう・・・・・。

手は共に切り取られたように欠損しているが右手、施無畏印(せむいいん)、左手、与願印(よがんいん)の釈迦如来のようにも見える。

これでもやっぱり高麗時代の造立、少なくとも日本で言えば平安後期頃の事だろうか??・・・

撮影2011.9.29

場所


忠南論山市 松佛庵弥勒石佛(ソンブルアムミロクソクブル)

2011年10月12日 | 韓国 石仏:史跡他

どこか幼さの残る顔で立ち尽くす高麗後期から李氏朝鮮前期(1300~1400年頃)に造立されたと言われる石仏です。

論山市のはるか北方郊外「鶏龍市」との境界近く、里山の斜面台地に立ち尽くしています。

「壬辰倭乱」時に兵火で焼き尽くされ廃虚となってしまった「石佛寺」といわれる寺院の弥勒石仏だといわれています。

後、最近になって現在地に祀り直し、傍らに石仏の背後に有ったと言う松の大木に因んで松佛庵というお堂も建てられている。

現在、石仏の背後に松ノ木は無いが、その傍らにはこんもりとした松の木が有って再度石仏を移動したのかも知れない。

石仏は高麗期の特徴そのままの柱状長身の丸彫り石仏で、総高約5m、角ばった顔の頭上には鍋蓋上の宝蓋を載せている。

体躯の背部は殆ど荒削りのままの石材でなんの装飾も無く・・円盤上の台座は返り蓮弁が刻まれています。

前面体躯はワンピース状の衣に衣文が刻まれ、右手は胸に、左手は脇に下ろされ与願印の様にも??

しかし韓国の場合印相など殆ど意味を持たない様です。

因みにこの石仏さんも如来やら菩薩やら良くわかりませんが、韓国では殆どの仏さんが弥勒仏(ミロクブル)と呼ばれることが多いようです。

どこか俗っぽさのある、遠くを無心に眺めるちょっと幼い自分の子供の頃の姿を見出すような石仏さんでした(決してこんな理知的な顔はしてませんが)。 

撮影2011.9.29

場所


忠南論山市  灌燭寺(グァンチョクサ)石造弥勒菩薩立像

2011年10月11日 | 韓国 石仏:史跡他

僕達日本人が持つ磨崖石仏の概念を見事に打ち砕いてしまうような石仏です。

8日間の韓国石仏巡訪の旅で唯一雨に降られた日の9月29日、忠南の地方都市、論山市を訪れたのは巨大で妙な顔つきのこの石仏を見るのが第一の目的でした。

論山市街を少し離れた郊外、幹線道から少し入った参道に建つ「磐石山灌燭寺」の山門脇をタクシーで通過・・・・

参道奥に有る、多分四王門と書かれた門前で車を降りる。

ブルー基調で見事な満艦飾の門内両脇にこれも見事な彩色を施された四天王??

どうもケバケバしくて、なんとも日本人の僕には馴染がたい様相です。

山内に足を踏み入れると、この大雄殿でもそうで有った様に韓国の寺では、どこに行ってもあの木魚をポクポク叩くリズミカルな音と「五体投地」で祈る姿を見かける。

まさに観光寺院ではなく今に信仰が生きている寺だと強く感じないわけにはいかない。

しかし、此処ではちゃんと1500ウォン(約100円強)の拝観料は払いましたけど。

問題の石仏はなだらかな岩山斜面を背にして、巨大で奇妙な顔立ちで立っている・・・・、どうも日本の石仏を見慣れてる僕にはちょっと異質なものを感じないでもないが。

石仏正面には拝堂があり、その円窓からはこの尊顔が飛び込むように出来ているようです・

拝堂と石仏の間には五層石塔とちょっと見慣れない石灯篭が一直線に配されている。

石仏の前にはやはり「五体投地」用の長方形の敷物・・・、しかしこの石仏が磨崖だとは俄には信じ難い・・・。

屹立していた岩山を切り刻み下半身を彫り出し、上半身と顔は別石で繋ぎ合わせている。

高麗初期の 光宗19年(968)に着工、約38年を要して1006年に完成したといわれる韓国最大の石仏です。

胴回り約11m、総高18mを越える巨大さで、顔部や体躯に比して手が異常に大きいのが目に付く。

しかしなんと言ってもその特徴的な巨大カッパの親玉の様な頭に長い宝冠を被せ、その上に二重の四角い宝蓋を載せ四隅には風鈴を吊下げている。

これが韓国高麗期石仏のひとつの特徴、丸彫り石仏に天蓋、どうも馴染めない姿です。

それでも良く見ると石仏としての完成度は並離れて素晴らしく、顔の彫などはまるで大理石を磨き上げたように滑らかです。

1000年以上も前、この地にこんな巨大な石仏を造る必要があったのだろうか??

この地で1000年という気の遠くなる時代を見続けてきた弥勒仏、さぞや目を覆いたくなる事もいっぱい有っただろう・・・・・

今はちょっと奇妙な顔に穏やかな笑みをたたえているように見える。

撮影2011.9.29

場所 


忠南論山市連山面 開泰寺三体石仏

2011年10月10日 | 韓国 石仏:史跡他

余り日本人好みのする石仏では有りません(いや僕好みしないだけか)??

最近になって寺として整備されたのか??ネットで検索すると青天土壇上のこの石仏の写真が出てき来たりする。

韓国の場合はいたるところの史跡で急ピッチな文化財整備が行われており、今回の旅でもせっかく訪ねても撮影も出来ないところが何箇所もあった。

此処は向こう読みでは「ゲテサ」と呼ばれる高麗初期の古刹址、度々の倭寇ですっかり廃退、1934年以降から少しずつ再建され出して今の姿に成ったようです。

それまでは市街から外れたなだらかな山裾の荒野にこの石仏と石塔だけがぽつんと建っていたようです。

荒野時代の名残か?境内には柿の大木が1本・・・・

境内左手脇の真新しい極楽大宝殿と書かれた本堂の本尊としてこの三体石仏は祀られていました。

勿論拝観料が居るでもなく、撮影禁止でもなく今も信仰の対象としてしっかり根付いているようです。

三体の間に掛け渡された綱はいったい何を意味するものでしょうか??

中尊の如来型石仏は総高約4.2m、供台が邪魔になって見えませんが復縁伏蓮方形基壇の上に建つ丸彫り立像です。

尊顔もどこと無く日本人好みのしない顔つきで目にはペイントまで施されています・・・、はたまたこのアンバランスな手の大きさはどうしたものだろう??

脇侍の両菩薩??はそれぞれに総高約3.2mで八角形の蓮華の台座に載っているようです。

中尊に比べ脇侍の方が体躯の意匠の細緻さには長けて居るように見受けられます。

いずれにしても僕達日本人の感覚ではそれほど良さそうな石仏には見えませんが・・・ただ巨大な涎掛けが無いのは嬉しいですが。

高麗初期の西暦1000年前後の造立、韓国宝物第219号に指定されています。

撮影2011.9.29

場所


全羅北道南原市山内面 チャンスン(長柱)とソッテ(鳥竿)

2011年10月09日 | 韓国 石仏:史跡他

全羅北道南原市郊外の霊山「智異山」北東斜面 裾野あたりの里山、「古刹実相寺」門前に石長丞(石のチャスン)が有ると知ってどうしても外せないと訪ねてみた。

<だだっ広い耕野の一角に再建された「実相寺(シルサンサ)」の門前>

殆ど日本の観光客など来ないと思われる片田舎、日本の倭寇、「文禄慶長の役」で全てが灰燼と化した新羅の興徳王三年(828)に創建された名古刹です。

当時豊臣軍は我が遠い故郷の兄弟と殺しあってるなどとは思いもしなかったのだろう??

寺域と外部を隔てる「ラム川」に架かる「ヘタル橋」の手前畔に一体の石チャンスン。

高さ約3m弱、幅約40cm強の石柱状の花崗岩上部に、この象徴的とも滑稽とも思われるような顔を刻み出している。

体部には漢字で「擁護金紗逐鬼将軍」と刻まれていてハングル登用以前の造立の物だと伺える

頭に三角帽子、飛び出したドングリ目にだんご鼻と大きな耳を持って立ち尽くしている。

約50mぐらいの短い橋を渡ると田圃の中を行く参道の両脇にも一体ずつの石チャンスン・・・こちらは左手。

これは一番大きくて高さ約3m強ぐらいも有るだろうか??橋の手前のチャンスンよりもっとなにやら象徴的・・

イースター島のモアイやトーテムポールと良く似たものを感じる・・・・

しかしこちらのチャンスンは大きな三角あご髭を蓄えて睨みつけている。

片や対面する右側のチャンスンはややスマートで洗練されているようにも??

やっぱりドングリ目玉の団子鼻・・・やっぱりあご髭は蓄えている。

通常チャンスンは男女で一対として陰陽の調和をはかるようだが此処では全て男のものである。

元々は橋の手前に二対四体 有ったものが1936年の洪水で一体は喪失、一対は川向こうの現在地に移されたという。

三体共に統一新羅時代の造立で重要民俗資料第15号に指定されている。

こうした石チャンスンは集中してこの地域に多く残されているようです。

もうひとつ僕が恋焦がれていた有るがままの木製チャンスンとソッテが傍らの農道に建っていました。

有るがままの姿と言ってもこれはおそらく観光客向けに新しく作られた物でしょうが、なんとなく博物館や民俗資料館で見るものよりは有るがままの姿に近いものだと納得できます。

韓国の田舎、里山地域の空は日本の青空とは桁違いに透明感が違って、青く澄みわたっている。

木製チャンスンは男女1組で・・・・胸には大きくハングルで男の方には「天下金将軍」、女の方には「地下土将軍」と書かれている。

こちらの方はちょっと僕には読みきれない・・・後ろの黄金色は日本と何も変わらない。

威嚇的な人面を刻み、かっと見開いた目、裂けた口とむき出しの歯は疫病や悪霊外敵を威嚇し、追い払う魔除けの呪物として相応しい・・・・

反面、チャンスンはその威圧的な形相の割には、どこかユーモラスでおどけたところが有り、それが守護神の役割を果たしていないことをも充分承知して、のろまで間の抜けた人を「チャンスンみたいにのろまだ」と揶揄したりもするそうです。

しかし、いろんなことを聞いても、この原始信仰にも近いチャンスンやソッテを持つ韓国の農村はなんとも魅力的でとっても心が癒されます。

勿論ソッテの鳥は鳥居の鳥と同じ意味を持つのだろう。

はるか遠い昔、僕の祖先はこの土地から海を越えてきたのだろうか??

撮影2011.9.30

場所


忠清南道洪城  新耕里磨崖石仏/龍凰寺磨崖仏  

2011年10月08日 | 韓国 石仏:史跡他

前回紹介した瑞山龍賢谷から山を下り、途中何箇所かめぼしい石仏を訪ねて貰ったが、言葉の不自由さや全くの予備知識不足のため見つからずその日の最終目的地である洪城群の龍凰寺を訪ねた。

此処も韓国の古刹の例に漏れず、人里離れた山中に在って、拝観料を払う受付からは山道の参道を1kmばかり歩く事になるが、タクシー運転手と受付の伯父さんとの話し合いで山門までタクシーで乗り付けて貰った・・・・、KTRの時間が決まっていたので有難き幸せと甘えておきました。

山門前のわずかな空き地で車を降りるといきなり左手大岩に磨崖石仏の刻まれているのが目に入る・・・・、まさしくネットで確認していた磨崖です。

斜面から突き出した高さ5mほどの岩に高さ約2.3mの肉髻(にっけい)が良く整った釈迦如来だろうか??

細い目、口元には僅かばかりの笑みを持つ穏やかな顔容・・・・尊顔に比べると体躯下部の磨耗風化が激しいように思われる。

向かって左手の銘に拠ると今から約1300年前、新羅昭成王(ソソンワン)一年(799)の像立だとか・・・

忠南有形文化財118号に指定されている。

正面石段を登り詰めると境内正面には本堂に相当する龍凰寺大雄殿・・・・。

大雄殿左脇から山道が斜面をクネクネと伸びていてヒイヒイ登ること約15分何とかその日の最終目標の石仏さんに出遭うことが出来ました。

石仏は緩斜面に突き出した大岩の正面を整形、二重光背状に深く彫り沈め、中に像高4m、肩幅1.4mの如来形立像を厚肉彫りで刻み出している。

左手施無畏印、右手降魔印の釈迦如来立像のように見えます。

穏やかで張りが有り、少しアルカイックな笑みも見える・・・顔容の充実ぶりに比べると体躯は少し貧弱に見えるが衣文は流麗に流れている。

頂上には高麗佛の特徴である四角い鍋蓋のような笠が載せられ、白毫(びゃくごう)には当時のものかは解らないが紅い玉もはめられている。

造立は高麗時代の初期、西暦1000年前後だと考えられて居るようです。

大岩は少し前かがみ状態になっていて、最近斜面も整地されたのか、少し趣きに欠けるきらいは否めない

日本の重要文化財に当たる韓国宝物第355号に指定されている。

帰り道見かけた山の土饅頭の墓・・・・・韓国の山肌のいたるところで目に付きます。

傍らの石柱は何を意味するのでしょうか??

人気の無いKTRローカル、長項線洪城駅のプラットホーム・・・・。

韓国の鉄道システムには驚きの連続、乗るのも降りるのも改札は全くのフリーパス、その上車中でも全く検札も無し・・切符は今も旅行カバンの中で居眠りしてます。

あれは徹底した合理化の結果なのだろうか??、おまけに構内のエスカレーターは人が乗ったときだけ動くようになっている(これはローカル線だけでなく)。

エコエネの時代、日本でもまねたら良いんじゃない??(もうすでに有るのかな)

撮影2011.9.28

場所


瑞山市雲山面龍賢里 カンデンイ弥勒石仏

2011年10月07日 | 韓国 石仏:史跡他

言葉が通じなく文字が読めないと言うことは、かくも大変だとしみじみ噛みしめる旅でした。

若者ならまだしも片言の英語で何とか話は出来るものの、中年以上になると全く意思の疎通が出来なく、身ぶり手振りで情けなくなる始末・・

前回のように国宝級ならいざ知らず地方都市の文化財で探した石仏などはタクシーの運転手に近くまで行って貰って、地元民に聞いてもらっても殆ど見つけられずに涙を呑みました。

おまけに頼りにしていたタブレットPCも田舎じゃ殆どWIFI電波が届かず使用不可・・・・、ハングルが恨めしい、せめて漢字なら何と無くなんだけど・・・・。

この石仏はたまたま前回紹介の磨崖三尊石仏への道筋に在ってラッキーにもすぐに見つける事が出来ました。

正確には忠清南道瑞山市雲山面龍賢里カンデンイ弥勒石仏と言うらしいのですがハングルではどう呼ぶのか ??色々ヤフーコリアで検索しても出てこなかった。

掲示板はハングルと英語だけ何がなにやら??・・・・、英語では、Bowon-sa Tenple totem poleと書かれていました。

高さ2m余りの土饅頭に葺石を敷き詰めその上にトーテムポールのような高さ約2.2mの石仏?を立てている。

日本では見かけない、多分李朝時代のものではないかと思うのですが??

韓国では高麗後期から石仏は多くの場合、(後からも何点か紹介しますが)このような石柱形の巨大な丸彫り石仏(これは小さいですが・・)が多くなるようです。

石仏は弥勒と呼ばれてもおかしく無いような手印、スカートでもはいているような前垂れで足元は葺き石に隠され定かではない。

この石像は、石仏としてより、もっと土俗臭の有るチャンスンとしての性格が強いもののような気がする

石仏としての価値はそれほど無さそうだが、韓国石仏の一種で有ることには違いなく中々味わい深いものがあります。

また何か解ったら書き加えるかもです。

撮影2011.9.28

場所


忠清南道瑞山 磨崖三尊仏像(マエサムジョンブル)

2011年10月06日 | 韓国 石仏:史跡他

今回の韓国の旅でどうしても見ておきたかった磨崖石仏です。

プサンからソウル行きのKTXで約2時間余り、ティアンアザンで在来線のムグファン号に乗り換え約30分、イエッサン駅前からタクシーを拾って約30分、何とかソサン伽耶山渓谷沿い、磨崖石仏の在る麓にたどり着きました。

KTRプザン駅を朝7時に出発、この磨崖石仏の前に立った時はもう11時を過ぎていて、やっとたどり着いたんだという思いが強く、その石仏の素晴らしさと共に感激も一入、無宗教の僕も思わず手を合わせ暫くは、ぼうっと眺めるよりは無かった。

渓谷を良く整備された橋や石段で10分程登りつめて行くと・・・

こんな石積みがあちこちに・・・韓国の仏址では良く見かけるが名前は知らない。

登りつめた狭い台地には案内所を兼ねたお堂のような建物・・、勿論仏様は祀られているのだろうが近世になってから建てられたものだろう??

帰途に写したので逆方向だが、この門を潜ってしばらく斜面を登ると・・・

やがて対面することになるこの釈迦三尊磨崖石仏

中尊の釈迦如来は像高2.8m装飾された大きな円光光背を背負って中肉彫りで刻まれて居る。

上部には大きな岩が庇のようにせり出しこの磨崖三尊仏像を風化を防いでいるのか?百済の後期(6世紀半ば)の像立が信じ難い保存の良さです。

韓国の歴史や地理は良く知らないのですが此処は、忠清南道瑞山市、伽耶山を流れ落ちる賢渓谷、百済の都、プヨから中国への玄関口泰山半島の道筋に当たるとか??

とにかく中尊の口元をゆがめてはにかむ様に微笑む童顔がなんとも印象的で流麗な衣装や、精緻な光背にも目を見張る。

脇侍も見事な彫り出しで、向かって右手、菩薩半跏像は像高約1.7m

向かって左手菩薩立像は約1.7m・・・、共に静かな微笑を称えている。

現存する韓国の仏像の中で最も美しい微笑を持つと言われ、「百済の微笑」と讃えられるのも納得のいく石仏です。

韓国国宝第84号に指定されているが、申し訳程度の低い柵はあるものの真近に近寄れ、別に監視人が居るわけでもなく、その上拝観料を取るでもなく・・・。

そんな、大らかさの有る韓国の懐深さを感じる。

撮影2011.9.28

場所


京都府木津川市 市坂 動(ゆるぎ)観音石仏[画像追加再UP]

2011年10月01日 | 石仏:京都

 いつも通る走り慣れた道、ちょっと気になったので寄って新しく撮影してきた。

別段変わったことは何もないけど、木津町は周囲の街を合併して木津川市と成っている。

国道24号線は奈良県境の旧木津町で奈良公園を避けて大きく迂回するが、旧道は奈良坂をを越えて大仏殿の大屋根をやがて目の前にする。

 

木津町で、旧道に入ると直ぐの集落が市坂の集落で、この集落の終わる辺りの右手上方に小さなお堂が二つ並んで建っていて、右側のお堂が動(ゆるぎ)観音堂と呼ばれている。

左側のお堂には法然上人ゆかりの「念仏石」と「役の行者石仏」が安置されています。

扉にはいつも錠前が下ろされていて扉を開けられず、レンズを扉の格子に突き刺しての撮影ですが、中には端正な等身大の十一面観音石仏が安置されています。

舟形光背を背負う花崗岩製で左手に杓杖、右手には蓮花瓶を持つ、所謂長谷寺型十一面観音石仏です。

向かって右の光背面には大永4年(1524)の銘が有り、室町後期の造立。

この石仏は、奈良の春日山の奥で刻まれ、いろんな村から欲しいとやってきたが動かず、市坂の村人が動かしたら不思議と動いたのでここに安置したという伝説が残る石仏で、恥かむ様に微笑む顔容は美しい。

頭上の十一面もしっかり刻まれ、中央には阿弥陀立像の化仏も刻み出され、当初から堂内に祀られていたらしく、ほとんど風化摩耗も見られず当初の姿のままのようにも見える。

往時街道筋の寒村で有っただろうこの集落に、この石仏は立派すぎるような??

撮影2011.9.18