言わずと知れた日本とつながりの深い百済最後の都、扶餘(プヨ)の定林寺は「扶餘郡」郡都、扶餘邑の中心に位置して、周りを多くの百済史跡に囲まれている。
その昔、百済と日本の連合軍は、半島西部、白村江で「新羅、唐」の連合軍と戦い退敗、此処から北方約1km白馬江「落花岩の悲劇」が生まれ百済は滅びた。
この定林寺も西暦660年、唐・新羅連合軍の百済攻略にすべて破壊され灰燼に化したという・・・・。
当然此処もまた何度も訪れることになるとは思うが今回は雨の中、論山から郊外バスに揺られて大急ぎでこの定林寺だけはどうしても外せないと遣って来た。
古いWEBページなどを見るとだだ広い赤土の原野に土壇が点々と並び、この五層石塔と石仏だけが青天の下、佇んでいる。
五層石塔は広い定林寺遺跡のほぼ中央部、発掘調査の終わった土壇の上に孤立している。
この寺址で唯一百済時代の遺物で有るという五層石塔・・・韓国最古の石塔だとされ、石塔様式の発展過程を知ることができる重要な作品だと位置付けられているようです。
定林寺の創立と共にその歴史、運命を共に石塔はやっぱり火災 に遭った様な痕が伺われるが、現在実に堂々と屹立していて、荘重な感じがする。
木造塔の構造様式をを石材に換えて表現してあるといわれており、どこかあの法隆寺の五重の塔のシルエットに重なる。
基壇上の初軸部には西暦660年7月18日、唐軍が扶蘇山城、王宮に入城、その百済平定記録を刻みこんでいる。
肉眼での判読は不可能だが・・・・唐が百済を平定し、百済の王と臣下を捕虜とした事実などを記録しているという。
百済を象徴する石塔に刻まれた百済の最期・・・・・なんとも哀しい運命を背負って建ち尽くしている。
高さ8.3m、国宝第9号に指定されている。
一方新しく再建された金堂内の他に何も無いがら~~んとした広いスペースぽつんと佇む石仏・・・・・
永らくは青天の元に在り、その混乱の歴史を物語るように見る影もなくひどく痛んでいる。
この定林寺は、唐の平定にて廃頽、後高麗時代には再興され再度繁栄したと思われ、その時代の遺仏だとされるのがこの石仏です。
度重なる戦乱で焼け爛れ赤っぽく変色、粉々状態で再築された八角形の見事な二重??三重台座、蓮弁は基部で下方に開き、上部石仏台座では上向きに開いていたと思われる
体躯はほぼ、つんつるてんで何がなにやら状態、ただなんとなく左手の人指し指を右手で握っている様にも見え、毘盧遮那仏坐像ではないかと言われています。
頭部や高麗形式を踏襲した宝冠は到底アンバランスな素人造りの近世のもの。
この石仏にしても何度戦火に焼かれたのだろう、今は穏やかな顔のように造られて居るが・・・なんともむごい歴史を見て来たに違いない。
この焼け爛れ、崩れた台座がそれを良く語っている。
総高約5.6m、韓国宝物第108号に指定されています。
撮影2011.9.29