愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

天理市滝本町 地蔵石仏二体

2011年05月17日 | 石仏:奈良

天理滝本町は旧国道25号線が天理市街からその東方の天理ダムに至る途中、旧街道筋に有る鄙びた集落で下滝本と上滝本に大きく分れ、今回紹介するのは下滝本の旧街道筋にある二体の大きな地蔵さん。

旧国道25号線が市街をはずれ天理トンネルをを越えると景色が一変、長閑な里山風景と成るが、そのまま東進すると初めて出遭う集落が下滝本。

合流地点から旧街道で集落に入ると出会いの辻でこの大きな地蔵石仏、小石仏、観世音と刻まれた化け燈籠などが林立しているのが目に付く。

地蔵石仏は真っ赤な涎掛けを掛けられ、高さ1.9mの舟形光背を背負い蓮華座に立つ像高1.3mの地蔵菩薩立像。

舟形光背の頂上近く、ちょうど頭上にこれも蓮華座に座す如来石仏を刻み出していて珍しい。

保存も良く風化磨耗も少なく、目鼻立ちもはっきり残っていて見るものを喜ばせてくれる。

ちょっと細身で、端正な顔立ちは南北朝初期の像立だと考えられてるようです。

向かって右足元脇にも箱型の地蔵石仏が置かれていて首のところで断裂しているのがちょっと痛々しい・・・・。

此処から道なりに歩を進めること100m足らず、集落の中程の辻にはもう一体の地蔵さん。

こちらはちょっと小振りで総高約1.5mと言ったところか・・・・

簡素な覆屋の下、真新しい供台を前に蓮華座に立つ定型の地蔵菩薩立像。

こちらはすっかり目鼻立ちをなくしてしまって殆どのっぺらぼう・・・・

こんな小さな集落にこんなに立派な地蔵さんが2体も・・・。

こちらは前者より遅れて室町中期の像立。

顔の磨耗具合や風化の進み具合から色々想像を巡らすのもまた楽しい。

撮影2009.11.14/2011.5.15


茨木市上音羽 多尊磨崖石仏

2011年05月16日 | 石仏:大阪

天正、群雄割拠の戦国動乱時代この攝津山中の農民達は何を願って石に仏を刻んだのだろう。

その苦しみや悲しみが余りに稚拙なまるで子供の絵を思わすようなこの石仏たちから真っ直ぐに胸に突き刺さる思いがする。

名神高速茨木IC付近から豊能町役場付近へと北摂山中を縫って走る府道110号でジグザグの山中道路をひた走ること約30分、豊能町との境界すぐ近くに上音羽の集落がある。

石仏へは上手の山肌を縫うように走る県道から進入路を下って集落内を行く旧道を更に豊能町方面に向かうと道路脇に木立が在り、その株元にそれとわかる大岩や説明板も見える

ここまで行くともう形式化を通り越して図形化・・・・、それがまた野の仏の素朴さ・・・・。  

大和高原域でも多く見かける多尊磨崖石仏・・・・・、こちら北摂、豊能能勢地域でもよく目に出来そのほのぼの感がなんとも心を和ませてくれる。

中尊だと思われる上段二体のうち向かって左側、放射光背を背負う阿弥陀さん?、右手には合掌地蔵??、その右上には月輪内に地蔵の種字の「カ」を刻んでいる

なんとも微笑ましい阿弥陀さん?刻銘は天正二年と読めるそうな・・・・。

大きい中尊の二体は高さ約30cm,その他30体程ある地蔵さんは約20cm、まるでこけしを並べたように立ち並んでいます。

上段の地蔵の下には、記名があって宗承と読める・・・・、これは逆修供養者の名前なのだろう。

こんな山中の寒村に在っても戦国戦禍の影響が色濃く、農民たちの暮らしもさぞかし大変で、逆修供養をしなければならないほど追いつめられていたのかと思うと心が傷みます。

今は一見長閑に見える山里にも辛い歴史は秘められている様です。

撮影2009.7.11


京都 大原三千院阿弥陀如来石仏

2011年05月15日 | 石仏:京都

この石仏はある意味京都文化圏を代表する石仏と言っても過言ではないほどの優品です。

勿論南山城の石仏群に付いては大和文化圏に属するものとしてここでは考えていませんが・・・・

京都市の中心街から約15km、30分以上、誰もがよく知るあの京都大原三千院山内に有る石仏です。 

同じ京都に居るとは言え、ここは南山城に住んでる僕にとってはまるで遠隔地、ここを訪れるときはいつも琵琶湖側から比叡山を遠巻きにして京都市内からは逆方向から入って行きます。

距離的には遠いようですが京都市内の渋滞を避け、それのほうがよほどストレス無しに到着出来ます。

以前、この石仏は三千院山内にあるとは言え全く三千院の境内は通らず自由に参拝出来たものだが、近頃では境内に取り込まれ馬鹿高い拝観料を払わなくては遭うことも叶わない。

さすが観光寺院しっかり勘定高くて呆れてしまう。

石仏は境内の最奥の地に簡素な多い屋を掛けられ石積みの基壇上に座している。

さすがに京都市で最大最美だと言われるだけ在って格調が高く、実に堂々とした見事な石仏です。

 

石仏は高さ2.25m、幅1.8mの二重光背を背負い蓮華座に結跏趺坐する像高1.7mの定印阿弥陀で見事な厚肉彫りで刻み出している。

ボリューム感、力強さは他の追随を許さず見るものを圧倒させる。

顔容は重厚で半眼の目は慈悲深く、全体には軟らかさと重厚さが良くマッチして見事な石造技術で鎌倉中期の造立だと考えられて居る。

しかし、なお大和の石仏を見慣れてる僕にとっては何かが足りない・・・、それは奈良文化の持つ大らかさとそれを育んだ自然環境,社会環境の違いだろうか・・・ 

撮影2007.12.23


伊賀市 岩根の磨崖石仏(花之木磨崖石仏)<再UP>

2011年05月14日 | 石仏:三重

知る人とぞ知る、伊賀の石仏を代表するような優れた石仏です。

名阪国道大内ICで降り旧国道25号線に出、ほんの200~300mも月ヶ瀬方面に戻ると左手川越しの台地上に建つ花之木小学校が見え、その右脇古道の脇にこの磨崖石仏が有る。

以前からこの石仏さんになぜか惹かれていて、この前に立った時は想像以上の感動をおぼえました。

それ以後もう何度この磨崖の前に立っただろうか・・・。

いつ来ても何度見てもこの磨崖石仏の景観と石仏の素晴らしさにただただ平伏するばかりです。

大岩は幅約10m弱、高さ3m弱、奥行き約6mばかしの巨大さ・・・・

その大岩の表面を隅切りの長方形に彫りくぼめ、三体の大きな石仏と四体の供養座像石仏、蓮花瓶を厚く刻み出し、枠外には別枠の中に五輪塔を浮き彫りにしている。

石仏の前を行く古道は月ヶ瀬、柳生、奈良へと延びていて古石仏の多い古道でもある。

磨崖石仏さんの前はきれいに掃き清められていて、隣に有る小学校の情操教育が行き届いてるのかなあ・・・と思ったり。

石仏は像高1.2mの立像で、向かって右から釈迦如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩と三尊を厚肉彫りにしている。

枠外の五輪塔は死者への供養の意も込められているとか・・・・。

徳治第一年九月日(1306年)願主沙彌六阿彌の刻銘が確認され鎌倉後期の造立。

岩盤には深い臍穴があけられていて、覆い屋根の附けられていたのだろう風化も磨耗も少なく良く保存されている。

右端釈迦如来・・・・

中央に阿弥陀如来・・・

左端には地蔵菩薩・・・・

地蔵菩薩の両脇には各二体づつ計四体の供養座像・・・

三体共になんとも力量あふれる像容で心惹かれるものがあり、すぐには立ち去り難く強く心に残る石仏です。

撮影2006.2/2009.2.8


伊賀市島ヶ原 行者堂阿弥陀磨崖石仏

2011年05月13日 | 石仏:三重

国道165号線で京都山城方面から伊賀方面に向け東進してくると、京都府最南端の南山城村を越え峠の登りに差し掛かると此処より三重県の看板が目に入る。

<これは行者堂では無く籠り堂、現在地区の公民館として利用されている>

峠を下って最初の信号が島ヶ原への進入路、信号の先約100m程で木津川を越える橋を渡るが目的地の行者堂はちょうどこの橋の下辺りに有る。

付近は木津川と支流の小山川が合流する瀬になっており、水が岩を噛む鋭い流れになっている。

阿弥陀磨崖石仏はこの籠り堂左側の斜面に露出した花崗岩に刻まれ、前には簡素な覆い堂が在り、窮屈そうなその堂の奥で時の過ぎ行くままに身をゆだねているよう・・・・。

薄く舟形後背を彫り窪めた中に中肉彫りで結構力強い定印の阿弥陀坐像が大きく開いた蓮座の上に座している。

総高113cm、蓮弁を含む像高約1m、膝幅約70cmといかにも下半身に力がみなぎり、顔も四角く力強さを感じるが目鼻立ちは風化磨耗が強く定かではない。

南北朝期の像立だと思われるこの阿弥陀石仏を地域では、行者堂の「役行者(えんのぎょうじゃ)」に因んで大日如来と呼ばれて居るらしい。

その行者堂は小山川を挟んだ山裾の岩肌前に覆い堂として建つが、内には近世の「役行者」丸彫り石仏が祀られていて興味喪失。

隣の小さな祠の中にも近代の不動明王で、おあいにく様でした。

撮影2006.2.12/2011.5.7


伊賀市島ヶ原 薬師沢六地蔵磨崖石仏(再UP)

2011年05月13日 | 石仏:三重

この石仏さんも、新しく画像を加えての再UPです。

<磨崖辺りから北方、正月堂方面を見る>

やはり野に置け、野の仏・・・、そんな言葉がぴったり当てはまる長閑な里山の、いかにも素朴さの嬉しい六体地蔵磨崖石仏です。

薬師堂磨崖石仏とは道路を挟んで対面、元は同一境内にでもあったものだろう??椿の葉陰に大きい石塊が見え、石仏の刻まれているのが車からでも見える。

高さ幅共に2.5mほどの花崗岩表面に四角い枠を彫りくぼめ中に六体地蔵を刻み出している。

地蔵は共に像高約35cm、形式化省略化の進んだ江戸期のもので慶長九年(1604)三月十五日の銘がある。

取り立てて珍しくもなく美しくもないが、単純素朴なこの六地蔵は微笑ましい。

いつ見ても真新しい花が手向けられ、地域の信仰が厚いことを見て取れる。

撮影2006.2.12/2010.8.21


伊賀市島ヶ原 石薬師磨崖石仏(再UP)

2011年05月12日 | 石仏:三重

以前ここを訪れたときに確認できなかった阿弥陀三尊を確認するため再度訪れ、写真も新しく撮って来たので再UP です。

三重県伊賀市の最西端に位置する島ヶ原は京都府の最南端の南山城村と県府境を接し、我が山城の母なる河、木津川の上流域に有って長閑な里山風景の広がるところ。

JR関西本線島ヶ原駅の脇を通って線路を越え道なりに切り通しを越えると全面に長閑なさとやま風景が広がり、右手にそれと解る立派な石碑も立ち駐車スペースも用意され、道路わきの一段下がった田んぼの横手に小さなお堂が見える。

石仏はこのお堂(覆堂)の中に祀られ、正面は引き戸によって閉められているが、誰でも自由に引き戸を開けてお参りすることが出来るように成っている。

この地には元、岩動寺(薬師寺)という正月堂の一堂が有り此の石仏が本尊だったという。

石仏は大きな花崗岩の表面に刻まれ、覆堂により守られて来たのか保存も良い。

<こちら2006年撮影>

<こちらは2011、今回撮影>

自然の花崗岩の右側に高さ50cm、幅54cmの薬師如来、円光背を背負い右手は施無畏印左手には薬壷を持ち、蓮華座上に座している。

どの像にも彩色が残っているが当初からのものか後補なのかは解らない。

向かって左側には阿弥陀三尊立像を半肉彫りで刻んでいる。

中尊の阿弥陀は像高さ78cm

脇侍の観音、勢至は、共に像高約50cm。

やっぱり彩色が残って薬師如来、阿弥陀三尊立像、ともに南北朝時代のものと推定されている。

一方同岩肌の覆堂外部にも阿弥陀三尊立像が刻まれているがその前方に大岩が落下してきたのか、ちょうど邪魔をするように居座って居て前方からは見ることが出来ない。

細い隙間に身体を通し何とかワイドレンズで撮影してきた。

色々試しに撮影してみたが何とか納得

中尊阿弥陀如来は像高約60cm、脇侍は共に約40cm

何とか無理やり真正面からも撮影出来た。

岩越しに逆方向からちょっと望遠で・・・・・。

覆堂横の柵に写真のような乳房が吊り下げられていた。

多分近所の人たちのささやかな願いをこの薬師石仏に願掛けしたものだと思われ、ほほえましい。

撮影2006.212/2011.5.7


伊賀市 青山峠地蔵磨崖石仏/他

2011年05月11日 | 石仏:三重

伊勢と伊賀を隔てる青山峠を越える初瀬街道脇に道中安全を祈願し造顕された磨崖石仏です。

初瀬街道は現在国道165号線と名を変え青山峠をあっと言う間に越えることになる。

伊賀側から峠道最後の宿場「伊勢路」の集落を抜け青山峠をトンネルで越える少し手前、大きくカーブした左側に駐車スペースがあり、その下方山裾に青山地蔵と呼ばれる木立に囲まれた小さな境内が有る。

当然この国道が新しくかさ上げされ近代国道となるまで、街道はこの石仏の前を通っていた。

小さな境内には多くの小石仏や石塔も集められ、中央の大岩に枡形を彫り窪め中央に蓮座に立つ定型地蔵を刻み出している。

地蔵には地衣類や蔦が這いまわり決して充分な環境とは言えないものの、石仏としては安住の地を与えられている。

弘法大師が一夜にして彫ったという伝説がまことしやかに伝えられているようですが、この石仏の像容からもそのようなことは有り得ないが、何処に行っても弘法大師の絶大さを感じる。

それはそれなりの磨崖石仏、旅して峠を越えて来た人、これから峠に向かう人、幾多の人たちがこの石仏に手を合わせただろう・・・。

脇には顔容も定かで無いこんな一石六体地蔵??

これは磨崖で在ったものを切り離して何処かから持って来たものだろう??。

道路工事の犠牲者なのかも??、

そういえば青山トンネル工事の犠牲者慰霊塔も合わせて祀られている。

撮影2011.2.26


津市一志町 笠つき地蔵

2011年05月10日 | 石仏:三重

天台宗の一派に天台真盛派と言われる一派が有り、その開祖である真盛上人が生まれ育った土地に、真盛上人にまつわる石仏が有る。

それも殆ど傍に時代の違う二つの石仏(実際には三体なのだが)が・・・・、一体は川岸の大きな岩に、他方二体は川の中に崩れ落ちた大岩に刻まれている。

地元では、上人が幼児の時に笠に乗せられ川に流されると川上へとさかのぼり、ここへたどり着いたという伝説があり、岩石に地蔵尊を刻み、逆さに流れ着いたので「逆着地蔵」また「笠着地蔵」とも呼ばれている。

津市一志町は伊賀方面から国道165号線で青山峠を下りきった辺りに有る町で雲出川に沿って走る県道661号線脇、一志ゴルフクラブの直ぐ脇にあって誰でも目に付く。

「逆着地蔵」と呼ばれる地蔵磨崖石仏は県道脇の大岩壁に刻まれていて両手で宝珠を胸元に抱いている。

しかしどう見てもこの地蔵さん、真盛上人の活躍していた室町期以前のものとは思えず、これを「逆着地蔵」また「笠着地蔵」と呼ぶのはおかしい様な??

他方、雲出川の川原に横たわる巨石には逆さに向いた石仏と、後世に刻まれ直立した地蔵石仏が刻まれている。

安政の大地震(1854)で道路脇の巨岩が二つに割れて転げ落ち、刻まれていた地蔵が逆さまになったという・・・。

逆さになった向かって右手に地蔵菩薩、片やすっかり水の流れに姿をなくしてしまった阿弥陀如来が刻まれていたと思われる枡形。

こちらは「さかさ地蔵」と呼ばれているようですが・・・・、少なくとも像容からはこちらの方が時代は古そうだし・・

本来の笠着地蔵はこちらでは無いかと???

勿論一目で時代の違いもわかる地蔵さん・・・これは間違いなく安政の大地震以後に刻まれたものです。

なにやら頭のこんがらかる二体?、いや三体の地蔵磨崖石仏です。

撮影2011.2.26


三重県旧美里町 平木の山の神

2011年05月09日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

旧美里町の一番伊賀寄り、伊賀越えの長野峠近くに平木と言う集落が経が峰西山麓に拓けている。

県道から集落に入っていくと棚田に囲まれて民家が建ち並び此処もいかにも長閑な山村・・・、しかし戸数はかなり多くて50~60軒ばかしか??

右手一段高くなった高みには安養寺と言う無住の寺、寺らしからぬ建物とがらんとした境内が有ってまるで公民館を兼ねてでも居そう 。

実は公民館が道路左手の有るんですが・・・。

寺から一段上に見える木立の森が平木天王社、この境内に美里町では3箇所目となる木股人形が見られる。

二対四体のオッタイメッタイが仲良く立並んで臆することなく大股開き、実にアッケラカンとしたものです。

撮影201.4.2


津市美里町穴倉 別所の山の神

2011年05月08日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

同じく旧美里町穴倉(あなくら)は前回紹介の高座原(こうざわら)の隣村。

穴倉から経が峰への道筋の奥まったところに約10軒にも満たない小さな集落があります。

日本のふるさとをそのまま絵にしたような鄙びた山村風情そのままで、この土地の空気を感じるだけで豊かな気持ちになれるような・・・・

そんな一番奥の高台に金剛寺と言う古刹が有って、その脇道に山の神場が残されている。

茂みの一段高い場所に石の祠が在ってその中に1対のオッタイメッタイ・・・いかにも微笑ましい。

高座原のものほど生々しさは感じなく素朴で微笑ましい感じがそのまま現れている。

シンボリックな呪具と言うより素直な形として見られ、日本の原点の一つかも知れない。

撮影2011.4.2


三重県旧美里町 高座原(こうざわら)の「山の神」

2011年05月07日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

伊賀と伊勢を分ける布引山系、その主峰の一つである経が峰東南部に広がる北勢地方の一部を芸濃地域と呼んでいる。

この地域は伊賀や近江から伊勢への古道や間道も多く、古い文化を数多く秘めた興味深い土地柄です。

伊賀東部、大山田から布引山系を越える伊賀越えで峠を越すと其処は旧美里町の山間集落が点在する鄙びた山里。

そんな山里に2~3近江と良く似た股木人形の山の神行事が残る集落が有ると言うので訪ねて見た。

そんな高座原は経が峰東南山麓の小さな農山集落。

集落から経が峰へ通じる林道脇に大きな山の神場が有って例の股木人形オッタイ(男体)メッタイ(女体)が見られる。

山の神場の大きな岩には殆ど風化した多尊石仏・・・・・・、仏教遺跡だろうか??はたまた原始信仰と仏教が混交して聖地化した土地なのだろうか??

今はこうして山の神を祀る聖地とされている。

なんとも解りやすい・・・・・これ以上の具象化はないと思うほどに見事ないでたちです。

これが生の原点、全てへの再生産といわんばかりの大らかさ・・・其処には何の衒いもない。

行事(神事??)の一部始終を見たわけでないので何ともいえませんが、少なくとも我ら農耕民族の命と実りの再生産にかけた願いのようなものを感じ取ることが出来るような気がします。

撮影2011.4.2


交野市星田 薬師寺の石仏

2011年05月06日 | 石仏:大阪

大阪北河内、交野市星田の古い町並みの中に有る無住の鄙びたお寺。

普段誰もいないので重文クラスの仏像が有るからとしっかり施錠されていて立ち入り禁止・・、以前に訪ねてとぼとぼ帰って来たことも有る。

4月21、 この日は年に2回の御祀りが有るとかでお堂は開放、石仏さんも自由に撮影可能とのこと、いそいそ出かけて撮影させてもらった。

町中に有ってこの荒れ寺風情はなんとも・・・・

壊れかけた築地塀をバックに(いくら鍵が掛かっていても乗りこえられそうなほど)・・・・石仏と石塔がずらっと一列横体。

やっぱり中央に居並ぶ二体ががどうしても目につきます。

どこかで見たことの有る特徴的な阿弥陀さん。 

元、この近くに在った小松廃寺の遺仏を祀って創られたという薬師寺、その石仏も当然小松廃寺のものだろう??

すぐ近くに有る慈光寺の2体の阿弥陀石仏に瓜二つ・・・、この特徴的なつくりは印象的です。 

かといって隣の地蔵石仏もかなり特徴的でその顔容は、きわめて慈悲深い柔和な微笑み湛えている。

しかも孤の地では多い板状石材に二重の線彫り円後背をもち、錫杖を持たない古式な地蔵石仏です。

他にもこんな石仏さんも・・・。

撮影2011.4.21


長野県下諏訪町 万治の石仏

2011年05月05日 | 石仏:その他

もう何十年も前に何かの写真集??で強烈な印象を受けた石仏さんです。

なんと言うか・・・。大岩自体を体躯にみたて、別石で頭部を造り臍穴で繋ぐというユニークさ・・・。

それまでにこんな石仏は見たことないし、なんと云っても岩全体を体躯として捉えた姿に強いインパクトを感じないわけにはいかない。

長野県下諏訪町、諏訪大社下社春宮の砥川対岸を5分ほど遡ったところ、近年造成されたであろう住宅地を見上げる丘陵裾の僅かな農地の空き地にその石仏が在る。

あの岡本太郎や新田次郎などが賞賛したことにより有名になったようだが最近(もう随分前か??)では首の伸びる石仏としてもTVで取り上げられ一躍パワースポットとしても名を馳せた。

何のことはない臍穴に溜まった雨水が冬季凍ることによって頭部が持ちあげられただけのことだが・・・・。

最近ではすっかり整備、観光地化され旗や幟の喧伝も激しく、野の仏のイメージは失われているが・・・・・・。

体躯、頭部の彫りは稚拙で単純、一流の石工の手になったとは思えないが、そのぶんローカル色豊かな素朴さと、この石仏を刻んだ思いのようなものが強く伝わって来る。

高さ2.7m、奥行き約6m、正面から見ると半球形の自然石に落ち込んだ目に団子鼻の頭部をちょこんと載せて異型石仏といえば確かに異型。

体躯左脇には大きく南無阿弥陀仏と刻み、「万治三年(1660年・江戸初期)十一月一日」その下に「願主 明誉浄光 心誉広春」の銘を入れている。

日本では異型異型とよく言われるが、お隣、韓国の石仏では何度か見た形態で、それがこの江戸時代初期にも伝わっていたのかは定かではないけど・・・

万治の石仏は上品上生定印の阿弥陀磨崖石仏、異型と云うよりあえて別石で頭部を造るという方法を選んだのは何故だったのだろう??

この石に一石で石仏を刻む方法は他にいくらでもあっただろうに??

撮影2009.4.30


福井県 朝倉氏遺跡義景(よしかげ)墓所 不動明王石仏

2011年05月04日 | 石仏:その他

一乗谷朝倉氏遺跡の中心部を成す朝倉館跡は五代百年にわたって越前を実力支配した最後の当主朝倉義景の館跡でその東南隅に墓地がある。

織田信長との戦いに敗れ滅ぼされたが、当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれ、館跡の寺と墓は義景の法名をとって「松雲院」として残されることとなりました。

現在一乗谷朝倉氏遺跡の景観を代表する景観として取り上げられる唐門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門の様です。

栄華盛衰、さしも権勢を誇った朝倉氏も長続きはしなかった・・・

そんな墓所横に立つ不動明王石仏・・・・墓所横に現世利益の不動明王は一寸違う気がするけど???

多分近くから発掘されたものだろうが・・・

像容はこれまで紹介した一乗谷石仏より単純にみえるが、眼光の鋭さでは劣らない。

近くにはこんな石仏も・・・、これは大黒天??

不思議なところです・・・。

 

帰りがけに邸内より見たから唐門も中々どうして良いものでした。

撮影2008.4.27