天正、群雄割拠の戦国動乱時代この攝津山中の農民達は何を願って石に仏を刻んだのだろう。
その苦しみや悲しみが余りに稚拙なまるで子供の絵を思わすようなこの石仏たちから真っ直ぐに胸に突き刺さる思いがする。
名神高速茨木IC付近から豊能町役場付近へと北摂山中を縫って走る府道110号でジグザグの山中道路をひた走ること約30分、豊能町との境界すぐ近くに上音羽の集落がある。
石仏へは上手の山肌を縫うように走る県道から進入路を下って集落内を行く旧道を更に豊能町方面に向かうと道路脇に木立が在り、その株元にそれとわかる大岩や説明板も見える
ここまで行くともう形式化を通り越して図形化・・・・、それがまた野の仏の素朴さ・・・・。
大和高原域でも多く見かける多尊磨崖石仏・・・・・、こちら北摂、豊能能勢地域でもよく目に出来そのほのぼの感がなんとも心を和ませてくれる。
中尊だと思われる上段二体のうち向かって左側、放射光背を背負う阿弥陀さん?、右手には合掌地蔵??、その右上には月輪内に地蔵の種字の「カ」を刻んでいる
なんとも微笑ましい阿弥陀さん?刻銘は天正二年と読めるそうな・・・・。
大きい中尊の二体は高さ約30cm,その他30体程ある地蔵さんは約20cm、まるでこけしを並べたように立ち並んでいます。
上段の地蔵の下には、記名があって宗承と読める・・・・、これは逆修供養者の名前なのだろう。
こんな山中の寒村に在っても戦国戦禍の影響が色濃く、農民たちの暮らしもさぞかし大変で、逆修供養をしなければならないほど追いつめられていたのかと思うと心が傷みます。
今は一見長閑に見える山里にも辛い歴史は秘められている様です。
撮影2009.7.11