Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

先の準備を整える

2018-03-16 | 生活
散髪に出かけた。前回は年始だったと思う。13日の「ラインの黄金」の前に出掛けた筈だ。新しい髪結いさんがやってくれて、横などを上手く処理して貰ったので、最後まで髪が重くならなかった。薄くなったのではないと思うが、森と同じで梳き方が違うのだろう。だから伸ばし放題伸ばしたが、襟首などが酷いことになっていて、彼女にも指摘された。やはり腕がある。週末の季節外れの雪にも合わせて綺麗に切ってくれた。来週は再び晴れて零下になるようだ。だからその前に処理しておくしか時間が無かった。

気の早い人は雪溶かしの塩の付いた車を洗車して、夏タイヤに取り換える準備をしていた。遅くても復活祭にはスキー場以外では冬タイヤは要らないからだ。そして季節外れの雪がワイン街道でも降るというから大慌てだろう。

2019年の復活祭の第一報が入った。それによると予想していた「千人の交響曲」ではなくて、チャイコフスキーの第五だった。それでも一日は下種なガイガリンとシェーンベルクが聞ける。これは素晴らしい。これは今年の様に練習でその前の三月辺りにイスラエル公演をするのかもしれない。もう一つはなんとランランとベートーヴェン三番となっている。これで恐らくランランの引退は決まっているとみる。まさかあれほどボロクソに貶した人と共演することは無いだろう。つまり来年もワンが弾くということで、ランランは人寄せパンダである。それも三番は既にフィルハーモニーでも振っているので、ワンならばプロコフィエフに変更になるのか。寧ろ興味あるのは、ミュンヘンで忙しくて、客演指揮のためにはシェーンベルク以外は新たなレパートリー開拓にまで時間が足りないということらしい。「トリスタン」公演がまたその前に来るのだろうか。「オテロ」の指揮はガッティーで、演出がウィルソンとなると態々出かける意欲が湧かない。その代わりムーティが「レクイエム」を振るのでこちらは行ってもよいかなと思う。

これで準備は整った。「パルシファル」初日までに、翌日の「ラトルのお好み演奏会」、そしてその翌々日のプログラムまで勉強しておかなければいけない。全七曲である。来週は冷えても陽が出るので、室内で陽射しにあたりながら時間が取れるかもしれないが、曲数が多すぎるので結構大変である。その「パルシファル」の三幕の録音を先日のメトの演奏から聞いた。予想通り一幕でだらだらと流していたルネ・パーペのグルネマンツの歌唱に熱が入ってきた。その一方、マッテイという人が歌ったアンフォルタスはどうしても六月のゲルハーハ―を思い浮かべると弱過ぎる。バーデンバーデンのフィンレーはどれぐらい歌えるのだろうか。なによりも弱かったのは合唱団で、客演というハンディーがあるとしてもミュンヘンのそれとは比較にならない。さて肝心の指揮者ナゼ・サガンであるが、リズムの特徴などは一幕と同じで、楽譜の読みもとても優れている。その反面アゴーギクの扱いがいつもぎこちない。一つにはオペラの歌手や合唱との距離感や対応力の経験の不足かもしれないが、一番問題なのは指揮の技術がありながら臨機応変に出来ない才能の限界と聞いた。三幕を通して同じようなぎこちなさがあるので、恐らくこの指揮者の最大の欠点ではないかと思う。

前任者のレヴァインの良さはそのバイロイトの「指輪」の奈落に入っていた奏者が語っていたことを思い出すが、そのテムポの安定感が特徴で、その変化については分からない。恐らく経験が長かったぐらいだから臨機応変に対応出来たものだと思う。オペラ指揮者の経験とそのテムポの変化対応などに関してはどちらがどちらか分かり難いところがあるのだが、キリル・ペトレンコのオペラ指揮を基準とすると、経験だけでは無く、正しいテムポを維持しつつ臨機応変に対応出来るのはやはり生来の才能でしか無いと確信する。サイモン・ラトルが正しいテムピを設定しながら破綻無く、歌手も十分に息をさせて歌わせるのがとても難しいのは当然のことなのである。



参照:
ミュンヘンのアラキー 2018-02-15 | 女
白船をしっかり見極める 2018-03-05 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンツ脱ぎ棄てお気楽

2018-03-15 | テクニック
天候が回復して森に出かける。閉鎖していた沢沿いの散歩道が開いていた。勇んで久しぶりにパンツを脱いで踏み込んだ。想定以上に切り込まれていて、道から谷への下る斜面の常緑樹は全て切られていた。全くの裸ではないが、緑が無いので光が全て通る。眩しく、これは新緑が茂るまでは明るく、このままでは夏は走られないと思った。きっと新緑で影を作ってくれると思う。それが楽しみだ。それ以上に足元が悪く、タイヤ跡以外はピステが掛かったように小石が上に転がっていて走り辛い。これも石が飛ぶまでは時間が掛かりそうだ。

足元が悪いものだから久しぶりの平坦な道であったが結構足が疲れた。油断すると足首を捻ってしまうので、それを堪えるだけでも足が疲れる。もう一度だけ日曜日を超えると、再びパン屋が日曜日に開くようになるだろう。GPS時計の充電池も届いたようなので、直ったら嬉しい。再び記録を狙えるような気持になってきた。

就寝前の二時間ほどタブレットを弄った。KorgのMicroKeyと名付けられたキーボードのブルーテュース接続を試みるためだ。IフォンやIパッドではMIDIラインが確保されているために何ら苦労することなくコードレスで使えるらしい。アンドロイドでの使用例はあまりネットに詳しくはない。ユーザーとしては面白い課題である。結論からすると、やはりここでもIで可能なことは少し試すとアンドロイドでも同じように可能だという傍証が一つ増えた。そこで好んで弄るのがアンドロイドユーザーである。

タブレットとのブルーテュース接続は全く問題が無い。それならばどのようなアプリケーションで呼び出すかによる。それに相当するものを探した。MIDIの世界は使い慣れていない者には分かり難い。なぜならばそれはシンセサイザーで音にしての出力だけではなく、鍵盤からの出力を楽譜化するような機能も所謂打ち込みとして重要であるからだ。更にスルーとなると、部外者には訳の分かり難いスタディオミュージシャンの世界となってしまう。

今回の鍵盤の使い方は、個人的な目的である楽譜にある音を確かめ、楽譜を見て分からない音の鳴りを鍵盤で押してみて確認したりすることなので、鍵盤を押してその和声が聞こえればよいのである。若しくは音を取るだけのことでしかない。それに必要なのは鍵盤で押したミディー情報を適当にシンセサイザーで音にして貰い、それをスピーカーから聞くというだけの機能である。

そのためのアプリは沢山あるのだが、その中でブルーテュースで鍵盤からの情報をそのまま音にするアプリを探した。先ず使えるのは二つ見つかった。一つはMIDI BLE Connectという比較的有名なアプリがある。これは使い方が複雑でヴァ―チュアルキーを押しては音が出るのだが、キーボードからの音が中々出なかった。その間に二つ目のFluidSynth MIDIというのを試してみた。これはメニューとしてブルーテュースがあるようにそこで同調して三種類の無料の音源から一つをダウンロードして遂に音が出た。これで想いが叶った。その後で前者も試して音出しに成功した。

前者は音源がピアノしか見つからなかったので、その音質は物足りないが、後者は数限りない楽器や音質を選択可能なのだが、音量が足りない。その分実際の楽器などでは不可能な弱音がタッチによって微妙に出る。鍵盤楽器ではありえないほどだがソフトシンセサイザーの程度は高い。前者の利点は鍵盤が無くても普通に音出しが可能性があることだろう。鍵盤が無い出先などでは使いやすい。あとは両者とも調整の可能性などの音作りの面の照査するだけである。更に使えるアプリケーションがあると思うので探してみたい。

タブレットでこうやって使えることが分かったので、早速ノートブックにある関連のソフトウェア―を消去した。完全、簡易に使えるものではなかったので頻繁に使えなかったからだ。これでPCの負担が少し軽減した。コードレスでのキーボード演奏、こんな気楽なものは無い。



参照:
ANDROIDでMIDIを使う 2018-03-14 | テクニック
蛇足を画策したのは誰 2018-02-21 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ANDROIDでMIDIを使う

2018-03-14 | テクニック
先日入手した小物のなかからいろいろと試している。幾つか想定していたようにまたはそれ以上に使えるものがあった。一つはマイクロUSBから出して通常にUSB2で受けるアダプターである。通常はタブレットからのデーター転送のためにOTGつまりOnTheGoとされるUSBから他の端末を繋ぐ機能である。通常は電源の蓄電のために使ったりしているがデーター転送に使う場合のケーブルである。先日同時に発注したのがアマゾンオリジナルのベーシックと呼ばれるケーブルで、これは以前のものが太さに特徴があったのだが今回は特に細くなっている。それでも充電速度がは早いと評価されているので、導電率が格段に上がっているようだ。

それとは異なって片方が態々メス受けになっているのを購入したのだ。そこに色々なUSBケーブルを差し込めるだけでなく、USB2端子として使えるからだ。そこに例えばUnifyingと称するLogitechのキーボードやマウスを接続するUSBプラグを差し込む。それでPCで使っているものがそのままタブレットで使えるようになる。これは助かる。なぜならばロジテックの商品は今まで様々使ってみて優れていて、タブレット用に本格的なキーボードを探す場合はその選択を外したくないからである。通常のブルーテュースの不安定さと中々コムパクトで小さな良いものが無いので、現在のところLENOVOのそれ以上の製品が見つかっていないからである。そのヨガ向きの英字キーボードの弱点は充電に専用のケーブルが必要なことで、汎用性が薄いからである。

そのUSBに昨年購入して未だに本格的に使いこなしていないKORGのキーボードのUSBを指してみた。同時にMIDIシンセサイザーのアプリケーションを試してみると、問題なくキーボードで弾けた。こうなると態々面倒なノートブックでのサムプルレート合わせなどする必要が無くなった。要するにケーブルで繋ぐだけで演奏可能で、タブレットでそれなりの音が出る。MIDI用としては決して悪くはない。そこまで行くと今度は無線で鍵盤を鳴らしたくなる。Iフォンなどの場合はMIDI入出力が準備されているようで何でもないのだが、アンドロイドでは少し研究してみないと分らない。

もう一つのアマゾンのUSB電源出力装置は予定していたように短くは無かったのだが、0.4A出力なので、そこから出力して上のアマゾンベーシックケーブルで接続すると、ラズベリーパイが普通に動くことが分かった。ラズベリー3の推奨は0.5Aなので常時使うかどうかは別にして、普通にネットに入るぐらいの仕事量は問題が無さそうである。ラズベリーパイ用に電源は他にも可能性があるが、それほど問題がないと感じた。

因みに新しいケーブルでヨガへの書き込みを試してみたが、やはり同じところで止まってしまった。eMMCが壊れている以外ではないようだ。




参照:
eMMCを完全初期化 2018-02-20 | テクニック
上半期に買って良かったもの! 2017-07-05 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初物スカンポケーキ

2018-03-13 | 
暖かくなってきた。雨がちだが、その湿気のお陰で空気が温まってきた。週末に今年初めてのスカンポのケーキを食べた。お初ものである。こうしたものを食すると季節感を感じる。先日のライヴラウンジで紅茶を飲んでいたので、飲みたくなった。

このところ絶食シーズンでもあり安物ビールで誤魔化すことが多かったが、久しぶりにリースリングを開けた。もう直ぐ二年を迎える2015年産である。なんといってもザールのリースリングのあたり年だ。

取って置きのファンフォルクセム醸造所のアルテレーベンである。全部で9本以上買ったと思うが残りは少なくなっている。最初はあまり評判が良くなかったが一年後ぐらいから開いて来て、そして今も開いている。熟成で一度はバランスが崩れ、若干ミネラルの鉱物臭さが若干表に出てきたようだが、旨味が満載で素晴らしい。アーモンドやヘーゼルナッツなどが果実よりも何よりも表に出て来るので下品にならずに高尚なままだ。これならば中華料理にも何にでもうまく合わせられる。それでいて決して分厚くならずにリースリングらしい繊細さも欠かない。

恐らく2015年産の世界の白ワインの中でこのフォルクセムの上位クラスは世界屈指の出来に仕上がったと思う。この醸造所の歴史の中でも秀逸で、現在のオーナーになってから初めてドイツのトップに浮き上がった年だと思う。GCやPCなどがまだ購入可能なら間違いなく買いである。

録音していたメトからのナゼサガン指揮「パルシファル」二幕を聞いた。先日、名盤のクナッパーツブッシュ指揮の歴史的演奏に失望したので、楽譜を前に音を流した。リズムも良くて流れも素晴らしく、音符をしっかりと読み込んで、バイロイト程度の演奏ではないなと聞いていた。それでもクンドリーと乙女たちの絡みの前後などで楽譜に指示の無いアゴーギクが掛かる。クレシェンドだけなのに速度も上げたりしているのに気が付く。歌っているのは、ここ数年脚光を浴びていて、本来ならばバーデンバーデンでも歌う予定だったエヴリン・ヘルツィウスである。バイロイトの二流指揮者の演奏では気が付かなかったが、こうして一流指揮者が振るとその歌の特徴が分る。基本的には昨今の一流の歌手がしっかり音符を臨機応変に歌えるのに対して、この歌手は自身のアーティキュレーションの独自の歌い方しか出来ないことが分かる。要するに二流の歌手なのだが無理をした発声をして稼げるときに稼いでやろういう方針なのでその声を無理して絞り出す。こちらはキャンセルして呉れて良かったなと思った。

それでも指揮者の読み込みも乙女たちのアンサムブルになると上手く行っていない。それでもここまで上手に振れる指揮者がと思って、更に聞いていくとおかしな感じが掴めてきた。肝心のリズムがスイング気味で難しいところになるとそれで振り切ってしまうようなところが気になってくる。なるほどと思った。あれだけの実力がありながら欧州では重要なポストにはとはならなかったのは、こういうことだったのかと分かった。ああした問題点は現場の管弦楽奏者には直ぐに違和感が感じられることで、こちら側で聞いているのとは違う肌感覚なのかもしれない。それでも合衆国やその他の国では全く問題にならないのだろう。評論家に言わせれば「どこか深みに足らない」とかの抽象的な表現になるのだろうが、そうした形而上の観察も全ては一つ一つの技術的な構築の演奏実践の結果でしかない。本当に一流の評論家ならばずばりと指摘した筈だ。但し恐らく意図してそうしたリズムを振っているのであっても、必要となれば上手に修正できるものかどうかは分らない。賢明に基本テムポを早めることで上手くやった心算であろうが、こうした難しい曲ではやはりそうは簡単に問屋が卸さない。益々サイモン・ラトルのテムピとリズムの扱いが楽しみになってきた。どこまでやれるだろうか。



参照:
プァルツの真の文化遺産 2008-01-13 | ワイン
ドイツはやっぱりアラカルト 2010-04-25 | 料理
We're going to Baden-Baden 2018-03-11 | 文化一般
裏蓋を開けて凝視する 2018-03-09 | テクニック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「モノを言う朝鮮人の女」

2018-03-12 | 
Asie
à Jeanne Hatto

« Asie, Asie, Asie,
Vieux pays merveilleux des contes de nourrice,
Où dort la fantaisie
Comme une impératrice
En sa forêt tout emplie de mystères,
Asie,
Je voudrais m'en aller avec ma goélette
Qui se berce ce soir dans le port,
Mystérieuse et solitaire,
Et qui déploie enfin ses voiles violettes
Comme un immense oiseau de nuit dans le ciel d'or.


Je voudrais m'en aller vers les îles de fleurs
En écoutant chanter la mer perverse
Sur un vieux rythme ensorceleur ;
Je voudrais voir Damas et les villes de Perse
Avec les minarets légers dans l'air ;
Je voudrais voir de beaux turbans de soie
Sur des visages noirs aux dents claires ;
Je voudrais voir des yeux sombres d'amour
Et des prunelles brillantes de joie
En des peaux jaunes comme des oranges ;
Je voudrais voir des vêtements de velours
Et des habits à longue franges ;
Je voudrais voir des calumets entre des bouches
Tout entourées de barbes blanches ;
Je voudrais voir d'âpres marchands aux regards louches,
Et des cadis et des vizirs
Qui du seul mouvement de leur doigt qui se penche
Accordent vie ou mort au gré de leur désir.


Je voudrais voir la Perse et l'Inde et puis la Chine,
Les mandarins ventrus sous les ombrelles,
Et les princesses aux mains fines
et les lettrés qui se querellent
sur la poésie et sur la beauté ;


Je voudrais m'attarder au palais enchanté
Et comme un voyageur étranger
Contempler à loisir des paysages peints
Sur des étoffes en des cadres de sapin
Avec un personnage au milieu d'un verger ;


Je voudrais voir des assassins souriant
Du bourreau qui coupe un cou d'innocent
Avec un grand sabre courbé d'Orient ;
Je voudrais voir des pauvres et des reines ;
Je voudrais voir des roses et du sang ;
Je voudrais voir mourir d'amour ou bien de haine,
Et puis, m'en revenir plus tard
Narrer mon aventure aux curieux de rêves,
En élevant comme Sinbad ma vieille tasse arabe
De temps en temps jusqu'à mes lèvres
Pour interrompre le conte avec art... »

La Flûte enchantée
à Mme René de Saint-Marceaux

« L'ombre est douce et mon maître dort,
Coiffé d'un bonnet conique de soie
Et son long nez jaune en sa barbe blanche.
Mais moi, je suis éveillée encore.
Et j'écoute au dehors
Une chanson de flûte où s'épanche,
Tour à tour la tristesse ou la joie,
Un air tour à tour langoureux ou frivole,
Que mon amoureux chéri joue,
Et quand je m'approche de la croisée,
Il me semble que chaque note s'envole
De la flûte vers ma joue
Comme un mystérieux baiser. »

L'Indifférent
à Mme Sigismond Bardac

« Tes yeux sont doux comme ceux d'une fille
Jeune étranger,
Et la courbe fine
De ton beau visage de duvet ombragé
Est plus séduisante encore de ligne.

Ta lèvre chante
Sur le pas de ma porte
Une langue inconnue et charmante
Comme une musique fausse ;
Entre ! et que mon vin te réconforte...

Mais non, tu passes
Et de mon seuil je te vois t'éloigner
Me faisant un dernier geste avec grâce
Et la hanche légèrement ployée
Par ta démarche féminine et lasse. »

Tristan Klingsor



それをゴキブリ呼ばわりするのが日本社会らしい。一種の政治的なアピールとは思うが、発言者の女史はドイツに引っ越しとあった。何らかの財団か何かの招聘なのだろう。詳しくは分からないが、女史の「乗り越えネット」も貴重なネット発信でありその活動も都知事選挙応援の辺りから注視している。そしてそのパフォーマンスを見ていると病んでいると思った。朝鮮の民俗芸能かパンソリの感覚かどうか知らないがとても病んでいる。きっとそれは日本社会の病なのだろう。

そしてまさしくこれが朝鮮文化であり日本文化だと思う。個人的に上のような「パンソリ劇」を見ていて不快感を抱くのは、その陰湿な文化を必ずしも客観的に見れないからかもしれない。そして多くの日本小市民だけでなく真っ当な朝鮮小市民も同じような気持ちを抱くのだろう。要するに日本にも朝鮮にも「ゴキブリのような輩」が沢山いて、社会の病巣を担っているに違いない。在日どころか日本に住む先住民である土人も外人も同じ穴の狢でしかない。

なるほど女史が日本での様に郵便桶を開けて怯えることは朝鮮人植民地のフランクフルトでも日本人植民地のデュセルドルフのどこでも無いかもしれないが、多くの連邦共和国市民は郵便桶を怯えて開ける。予期せぬ請求書が投函されていないか心配だからである。またそれだけ納税をしている例えばトルコ系市民などが第二市民であり続ける現行の国籍法は憲法に抵触するような根本的問題を抱えている連邦共和国社会を象徴している。であるから当然の権利として多重国籍が推奨されても不思議ではないのである。

やはりそうなると在日朝鮮人は二重国籍で日本の選挙権を被選挙権を行使するのがなによりもの解決策だと確信するに至る。日本社会はどうしても植民地政策のつけを払い続けなければいけないのは見習った諸外国などと変わらない。幾ら朴が岸と談合していても何も解決しなかった。少なくとも女史の鬱陶しいパフォーマンスはこのことを明白にしている。
BPO人権委員会決定について


週明けから忙しくなりそうだ。週末に時間を割いて、バーデンバーデン復活祭の準備をしている。あまり知らない曲が二曲もあるのは珍しく、ベルクの「初期の七つの歌曲」もアルテンブルク歌曲などとどうしても混同する。音源はエアーチェックのカセットテープがあったと思うが、それ以外にもと思い探した、安売りCDになっているクラウディオ・アバド指揮でフォンオッタ―が歌っているものがあった。所謂作品番号が付いていない作品集で、シェーンベルクに習う前の、後に成功作オペラにおける変奏形式の見本となったポール・デュカ作曲「青髭」やヴェーデキント「春の目覚め」に出合った1908年とされる。
Berg - Sieben frühe Lieder - Jessye Norman/Pierre Boulez

Diana Damrau; "Sieben frühe Lieder"; Alban Berg


余談ながらデュカの管弦楽は四月に後任者キリル・ペトレンコ指揮で演奏されるが、今回改めて気が付いたのは復活祭のこのプログラム一曲目の「ドンファン」はこれまた後任者の指揮で八月に第七交響曲イ長調の前に演奏される。少なくともペトレンコに指揮される二曲はバーデンバーデンで前任者によって指揮されて、その後恐らく「ペトロ―シユカ」などの客演指揮中にそれらの数曲も繰り返されるのだろう。前任者から後任者への引継ぎの時にこのことが話し合われたのではなかろうか?つまり、本来ならばこうした直接の弾き比べ聞き比べはお互いに避けたいところなのだが、両者ともそのように決断したのではなかろうか。楽員の各々のさらい方は楽器によっても異なるから一概に言えないのだろうが、やはり何回か本番を重ねると指揮者が違っても底上げが出来るということなのだろうか。後任にとっては昨年の初日のようなフィルハーモニカーらしからぬ演奏はさせられないと考えても効率化を考えるのは当然ではなかろうか。

もう一つの「シェーラザード」も序曲とされるものを混同しやすい。実際にその最初期の管弦楽と関連していて、またテキストの詩を書いた作者がトリスタン・クリグゾールという人で、勿論ヴァークナーに毒されたフランス人である。そこまで知ると、ほくそ笑むサイモン・ラトルがこちらを向いるているようで、遣られたと思った。ラトルの遊び心にこちらもお付き合いすることになるのである。またその一曲目「アジア」などの壊れもののような管弦楽法を差し引くと、どうしても二曲目「魔法の横笛」や三曲目「対等」などのそのクリングゾールの仏詩に心が奪われてしまう。とてもインタィームで面白い。
Ravel: Shéhérazade ∙ Christiane Karg ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Stanisław Skrowaczewski




参照:
バーデンバーデンへの想い 2018-02-19 | 文化一般
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

We're going to Baden-Baden

2018-03-11 | 文化一般
フィルハーモニカーのライヴラウンジを観た。来るバーデン・バーデンでの「パルシファル」の前宣として吟味した。そもそもチャットが軸になっていて、司会のホルニスティンも明らかにそうした広い若い聴衆を相手にしているようで所謂コアーな聴衆には向けられていない。世界中からのチャットがあるようなので、その意味では本来のデジタルコンサートの販促という意味合いが強いのだろう。広く浅くの市場を目的とするそれを見ると如何にもフィルハーモニカーの商売の難しさが感じられる。

それでも世界中からの質問には中々これはと思うものもあった。その一つが最後の質問であった。「バイロイトで指揮する依頼はありましたか?」というもので、流石に考えて話す様子が面白かった。この部分は所謂通や業界人が見ても楽しめただろう。「一寸問題があって、…幾つかの理由」がいろいろと推測されるところで、ここは司会の流し方も良かった。

最も好きな作曲家ハイドンの音楽や人柄について、バーンスタインの演奏の難しさ、同時に簡単に遣ってしまうフィルハーモニカ―への若干皮肉交じりの賞賛、何回も指揮することで容易になるのではなく馴染むだけだとか、プリントメディアではないのでその発言の雰囲気は確かに伝わりやすい。生で見ていてメモを取っていたが、YouTubeで観れる様に上がっている。

その他はミルクが先か、紅茶か、スコンかとなるともう殆ど刑事コロムボのようなブリティッシュな受け答えになっていたが、記者会見以外の内容はそれほど出てこなかった。それでも印象に残ったのは、背景のラヴェンダーとパルシファル二幕のイメージとか、黒沢映画への言及、最後にバーデン・バーデンからのグリーティングで出てきたグールド、フィンレイ以外のゼーリック、ドノーゼの主役陣の顔を見れたのが良かった、それどころか二人の花の娘を出したのも悪くは無かった。但し劇場の側でのその扱い方が不十分でまだまだ広報に力を入れる必要性を感じた。
Sir Simon Rattle on the Berliner Philharmoniker Live Lounge cf.49m19s


そこで祝祭劇場がパーソナルを公募している。9月からの完全就業でコミニュケ―ションなどを担当する人を募集している。新たなスタムパ体制で重要な意味を持つと思う。先日既に触れたことであり、適材適所にプロフェッショナルな人材を配置することはとても大切である。今回の配券やライヴラウンジの協調作業などを見てもこうした公募などを見てもとても新体制に期待が高まる。

車中のラディオでマンハイムの劇場のテューバニストがゲストで話していた。バイロイトに入る二人の奏者の一人で残りは控えの人がプールから入るだけだと言っていた。お呼ばれで参加するので、こちらから申し込むのではないと話していた。楽器によっても異なるのかもしれないがシーズンを通して入っているとは知らなかった。座付き管弦楽団の「ジークフリート」のファーフナーの出が流されたが、遅いテムポは構わなくてもあの間延び感は一体何をしようとしているのか全く理解不可だった。なによりもアンサムブルが甘いものだからその繋ぎで思わず笑って仕舞う。責任は指揮者にあるので恐らく先任の監督アダム・フィッシャーならば粗が目立たないようなテムポで誤魔化していただろうと思った。その劇場経験と呼ばれる誤魔化し方だけでもバイロイトの指揮者になるかどうかの実力の差なのだとも思った。それにしても座付き管弦楽団などはお笑い程度の演奏しかしていないのを改めて実感する。

2004年のブーレーズ指揮の「パルシファル」の三幕を聞いたが、会場にいた印象よりもやはりどうしても粗が見つかるだけでなくて、テムポのタメが無い分、逆にメリハリがない。会場では情報量の多いシュリンゲンジーフ映像などを含めて神経を働かす必要があったが、歌手の不出来はそもそも無視していたが、音だけを聞くとどうしても若干失望する。やはりメディア化されているデビュー時の公演指揮の方が良いのだろう。



参照:
神聖劇の理想的な舞台 2018-03-03 | 音
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般
バーデンバーデンへの想い 2018-02-19 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝負にならないもの

2018-03-10 | ワイン
ボーヌの南のジヴリーのピノである。コートシャロネーゼの赤でいつもリヨン方面に走るときは通る一角である。その見た目と同じで枯れた痩せた土壌でブルゴーニュワインに期待する旨味は無い。2015年であるから購入したのだが、それでも傾向は変わらなかった。この地域のピノノワールならばドイツのシュペートブルグンダーで超えているものはいろいろとある。特に2015年ならばこのフランス物程度では比較にならない。

価格の18ユーロ相当としても、勝負になるものは山ほどあるが、どちらかというとドイツのシュペートブルグンダーの方が高価になる。勿論手の掛け方も技術もフランスを超えているものが殆どだろう。結局、ブルゴーニュで話しになるのはボーニュ以北・以西となるのだろう。

発注したゲル電池が発送された。そこで週末にでも時間を作って半田ごてを握るかと思ったが、正直これだけ小さな正負極に銅線を半田付けする自信がない。周りも狭く取り外すと戻せなくなる可能性もある。外しても両極の距離がミリほどしかない。先ずは新たな半田ごてを注文した。ごく一般的なものであるが今使っているものよりは先が尖っている。アマゾンでの評判は良いようなので試してみよう。何回も遣り直しの効くものではないから8ユーロほどの投資ならば仕方がないか。どうしても半田仕事は電化製品修理では欠かせない。

同時に発注したのは、マイクロUSBとUSB2を繋ぐアマゾンべーシックである。これは以前使っていたYOGA充電用のものが傷んでいるのを発見したからで、新しいものが来たところでもう一度復旧作業をしてみてもよいかと思う。この間にモニターアームに固定配線などをしていて気が付いたのは、クロームキャストの電源がこのケーブルで配電されていたということで、余分にこのケーブルがあれば使えることが分かり、殆ど価格の変わらない二本組を発注した。二本で7ユーロしないので安いものだ。これで一番壊れやすいマイクロUSB部分を補うことが可能になる。

それに関連するものでは少々高価だったが、電源からUSB出力するアダプターをこれまたアマゾンベーシックのを発注した。これは通常の物は長く置き場所によっては使い難かったので短く小さめのものが欲しかったのである。許容量も2.4Aと大きめで、これもまた評判が良い。

その他切れた即効性接着剤と、HDMI延長アダプターなどを発注した。後者は以前購入したものと同じようにシナから直接届くのだろう。三つ組みで2ユーロしない。HDMIの場合モニターの後ろ側に出力があるのでいちいちケーブルの抜き差しが儘ならぬので、キャストやラズベリーやノートブックなどを簡単に抜き差しするのにとても重宝するのだ。HDMIの便利さは音声を含めた映像データの簡便な取り扱いのこうしたところにあると思う。

半年ぶり位でメインシステムで音出しをすると、違うなと思う。低音がしっかり出ているのは当然なのだが、シングルのアクティヴスピーカーには無い高音の細やかさもあって、出ているとか出ていないとかの次元とは違い、美しい濁りの無い実体のある響きが楽しめる。一度これを体験すると少々寒くても中々籠り部屋には戻れないのである。陽光と共になくてはならない気がする。



参照:
裏蓋を開けて凝視する 2018-03-09 | テクニック
不覚にも嗚咽が漏れる 2017-12-19 | ワイン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏蓋を開けて凝視する

2018-03-09 | テクニック
GPS時計の電池を弄った。最初に温めてしまったので直ぐに壊れた。正直リティウムポリマー電池を弄るのは初めてだ。一番よく使われているのは隠しカメラのような小さな軽く且つパワーの必要な充電池としてらしい。だからドローン用にカメラの充電池として販売されている。通常の腕時計なら必要ないのだろうが、GPSとなるとパワーのある充電式が必要となるのだろう。

写真にあるように、正負電極のある内側が赤、外側が黒の銅線でボードに接続されている。とても小さいのだが、通常の半田付けのようで、弄っているうちに外れた。コードも固くなっていた。入っていた電池は30x27x5ほどの電池で、3.7Vで280mAhである。充電池であるからポリマージェルの量が増えるほど充電能力が上がるが、大きさが嵩張ってくる。腕時計の裏蓋を開けた場所は厚さも厳しいが、大きさも少しでも大きければ収まらない。

ネットで調べると同じ大きさのものは米国にはあるようだが、欧州ではオファーが見つからなかった。同じ280でも長細くなったりで正方形に近いものは無かった。あったとしてもとても高価だった。そもそも時計自体が100ユーロほどのものだから、修理を試してみるのに投資する額の上限は押さえられる。そこで見つけたのは、240mAhで25x20x5で3.60ユーロで送料を入れて5.55ユーロの電池である。この大きさが正しければ収まる可能性は高い。これで上手く動いてくれれば、もう少し金を掛けてより大きめのものを取り寄せてもよいだろう。

280mAhでGPS12時間使用だったので、10時間17分使用可能となる。本当にそれだけ使えれば重さも若干軽くなるだろうから嬉しいのだが、さてどうなることか。先ずは細かな半田付けをするのが大変だ。導電性の接着剤というのもあるようなのでそれも調べてみたい。まあ、先ずは試してみよう。もう少し使い易そうな半田こてを買うか。

「パルシファル」第二幕をLP名盤で聞いた。ハンス・クナッパーツブッシュ指揮で1962年のバイロイトでの実況録音で、お決まりの名盤である。久しぶりにLPに、それもこの取って置きのフィリップス盤に針を下ろした。音は味のあるアナログトーンでいいのだが、その籠った音を聞いて、バイロイトの蓋付きの音響を思い出した。この作品はそこで演奏されるために創作されているのだが、本当にこのようなバランスを楽匠が考えていたのか?それはここ暫く考察してみたい。

それはさて措き、敢えてこの名盤でも印象の薄い二幕を楽譜を前に流したのだが、予想していた通り、リズムが悪い。これはいつものことで仕方ないが、その分曲を良く知っていて溶岩が固まって流れるような音楽運びの中でしっかりと核心を突いてくるのが、流石にこのクンドリーで学士論文を書いただこの指揮者の見識の高さである。

それでもこの指揮者の下での演奏が散々なことになっていて、この水準までには今やどんな指揮者が振ってもガタガタにはならない。その下手なアンサムブルに、歌手がまた適当にそれも言葉が全く聞き取れないようなよたよたの歌で乗ると、神聖劇ながら殆ど笑ってしまうようなところが頻出するのである。一般的に思われているように無為自然にツボを押さえた読譜と棒捌きというよりも、その見識ゆえかとても明白な強調の様に聞こえる部分は殆ど突然に目覚めた覚醒のようでいて、ある種の表現主義的な表現である。楽劇におけるテムポとリズムの端正さということでは全曲録音の存在しないフルトヴェングラー指揮の方が明らかに自然だったと思う。フルトヴェングラーのヴァークナー創作への一種の懐疑のようなものが客観性を確保させたのかもしれない。

確か、これよりも古い実況録音の方が良いとか悪いとか読んだことがあるような気もするが、聖金曜日の音楽などの核心部を除くとやはりこの指揮者も晩年でよれよれになっていたのかもしれない。なるほどテムポの遅さについては書かれていても、それではなくこのリズムのタメでは全く駄目だ。流していて楽譜を見乍らでも眠くなってどうしようもない。このような怠い演奏を聞いていて居眠りせずに感動している人がいるとすればそれはきっと精神を病んでいるに違いないとまで思った。



参照:
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
魂をえぐる天国的響きに 2016-06-13 | 雑感
社会的情念の暴力と公共 2016-06-01 | 音
「マイスタージンガー」の稽古 2016-05-17 | 音
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽劇場のあれこれ

2018-03-08 | 
州文化審議会の承認を受けて正式な発表となった。ベルリンでの政局が発表の時期を遅らせた。2021年秋からのミュンヘンの音楽劇場の人事である。人事内容は分かっていたのだが、来週月曜日の大臣直々の推挙お披露目の記者会見前に任命の日取りなども分かった。その他にも情報を合わせると見えることが幾つかある。

近々のことでは、この金曜日からの上演がペトレンコ指揮の最後の「ばらの騎士」になるかもしれないことである。成功し続けたオットー・シェンク演出も黴が生えたということで、新制作が次期音楽総監督ウラディミール・ユロウスキー客演で予定されているという情報である。来るシーズンかどうかは分からないが、そうなれば今回の棚卸が最後の上演シリーズになるということになる。初演指揮のカルロス・クライバーと共に過去のものになるということだ。

現音楽総監督キリル・ペトレンコは、2020年の夏に総監督の座を降りて、2021年のオペラフェストまでは客演指揮をするようだ。反対称的に来るシーズンを客演指揮者としてベルリンのフィルハーモニカー開幕公演で指揮する。正式就任は2019年シーズン開幕からなので、ミュンヘン専任監督としては来るシーズンが最後となる。つまり2019/2020年は間違いなくミュンヘンでの活動は少なくなり、多くても新制作二つぐらいではなかろうか。

セルジュ・ドルニー支配人に関しては、文化省の公式の発表においてもジェラルド・モルティエー博士監督の一員となっているが、氏の最後の書には名前は触れられていないようだ。そして、報道が伝えるようにザクセン州での不法解雇問題裁判などから、これで溜飲を下げたことになるとされている。我々モルティエー一派支持者からすると「バイロイトの敵をミュンヘンで討つ」となるのか?その意味から指揮技術的に前任者ペトレンコに勝るとも劣らずの後任者ユロウスキーがロンドンを引き払い仕事を絞って任にあたってくれれば、更なる積み重ねが期待可能となる。ノーノ作品の公演には出向かう心算だったが、たとえ「ばらの騎士」でも気になってきた。あとは「モーゼとアロン」をペトレンコが指揮するかどうかだけだ。それともバーデンバーデンで、若しくはドロニー体制下での方が良いだろうか?
Serge Dorny, directeur de l'Opéra de Lyon


朝、目が覚めるとまたまたヤホ女史からハートが飛んで来ていた。こうなるともはやSNS友ではないかと思う。彼女が「歌に生き」の歌姫であることは重々分かっており、インタヴューを幾つか聞くだけでもその歌唱だけでなく自己表現の可成り明白な女性であることも分かっている。その芸風を裏切らない強い個性である。その自己表現の反応にもとても関心を向けていて、時間があると細かくネットの声に耳を澄ましている。なぜ本人の余暇の楽しみになっているのを知っているかといえば、12月の初日期間中に投稿して引っ込めたその時にホテルでお勉強していた「タイース」の楽譜の写真からだ。流石に公演が続いている中で次の公演のお勉強をしていると思われると一晩の夢を求めてくる一般のオペラファンには不味いと思ったのだろう。その「タイース」はプラシード・ドミンゴと組んでシナ初演をした北京公演のためのお勉強だったのだ。そのことに関してもWDRのインタヴューで答えていた。
Plácido Domingo protagoniza la ópera "Thais" en Beijing


今回のハートは12月末に初日のFAZ評を引用したものだったが、その内容が気に食わなかったのか反応がないなと思っていたが、見つけられてしまった。対象となっている初日は音楽的にストリーム放送中継の三日目ほどには上手く行かなかったので、新聞は読んでいても引用の時期などを考慮していたのだった。メトなどでのアンサムブルを考えると、ご本人もミュンヘンでの「修道女アンジェリカ」の大成功を回想しているのではないかと思う。

昨今のオペラ世界は、三大テノール時代の一昔前とは異なって、指揮者のテムポとリズムで歌う技術を持っていない人はトップクラスには留まれなくなっていて、その意味からは器楽奏者出身でなくても音楽的な技量はとても高くなっている。その反面、万能の歌唱で声質や容姿以外での音楽的個性が益々薄くなっていて、取り換えの効く歌手となってしまっている。その中で、基本的な前提条件を満たしつつ、十八番としての「アンジェリカ」や「蝶々さん」で強烈な歌唱を披露する個性は、二十世紀後半には忘れられていた歌手の個性としての新たな在り方だろう。ある意味、この両面を発揮するのが現代の教育であり才能である。SNSでのインターアクテイヴ性を会場での直接の交感を補う形として操る歌姫としても彼女は天晴である。



参照:
国家大剧院邀媒体探班歌剧《泰伊思》 埃爾莫利拉·亞霍
エポックメーキングなこと 2017-12-02 | 文化一般
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

演奏会発券当日の様子

2018-03-07 | 雑感
週始めから結局暖房無しで過ごした。冷えが予想された夜間も穏やかに推移して、籠り部屋に退却することが無かった。それどころか籠り部屋にクロームキャストを移動させて試してみた。日常的にはまだまだだが、タブレットを組合すことで遠隔操作が問題なく出来る。問題のマウスを使う必要が無い。あとは文字の打ち込みが問題なく出来れば籠り部屋からも完全に遠隔で使いこなせることになる。

3月5日月曜日に残りシーズンのティケェット発売があった。今回初めて観察したのはベルリンのフィルハーモニカーのそれで、発売当初からの動きが興味深かった。感じられたのは組織的な活動があって、例えばパーヴォ・ヤルヴィ指揮とテューガン・ソキエフ指揮のそれがバンバン売れて行っていたようで、その定期公演分の数は分からなかったがとても不思議な感じがした。両者とも所謂玄人筋にはそれほどまでの評価がない指揮者であり、なるほど前者はジャニー・ジャンセンのソロがあり、後者もお得意のロシア物のプログラムとしても、そこまでの人気は無い出し物の筈だ。結局最終的には売れ残りが出ていたのだが、一種のマニプレーションをも疑わせた。

一方お別れのサイモン・ラトル指揮の演奏会の席が飛ぶように売れるのは納得で、アラン・ギルバート指揮やダニエル・ハーディング指揮の演奏会に人気が無いのも当然かもしれないが、キリル・ペトレンコ指揮のそれの売れ行きが思いの外悪かったのがとても興味深い。定期の入っていない最終日の演奏会こそは通には外せないのだが、その数は二桁とまりだろう。つまりミュンヘンでも同じようなものだが、ベルリンでは予想していたようにペトレンコ人気がミュンヘンほどではないと気が付いた。恐らくコーミッシェオパー時代のそれは現在の評価とはまた違っていたのだろう。

もう一つ興味深かったのはルツェルンでの発券状況で、今まではベルリンフィルハーモニカー公演といえば即完売の印象が強かったが、上記の公演と同じプログラムの二日目の売れ方に驚いた。やはりシュミットを後半に持ってきたプログラムの不人気さと、まだまだランランに比較できないワンの人気だと思った。ワンの人気は想像がつかないのだが、予想以上にあの半裸のような衣装が真面な市場では不人気を買っていると見た。イスラエルからの中継を観るまでは同じ印象を持っていたから間違いないだろう。要するに販促戦略上の狭間にいて、今年のフェスティヴァル週間が終わるまでに多かれ少なかれ解消される問題なのだろう。

因みに来るかどうかわからないランランの協奏曲の演奏会はピアノ側が綺麗に売れていて、その人気のほどが窺がわれる。要するにシャイ―の指揮する管弦楽などどうでもよいのである。まあ、もし登場するということになればそれはそれでフェスティヴァル前半の話題をさらってしまうだろうが、またもやキャンセルということならば殆ど引退発表になるのではなかろうか。残りのスケデュールにもよるが引退発表することが商業的にプラスなのかマイナスなのかが諮られることになるのだろう。

ルツェルンの方は特に券を確保していたことから自身のそれと初日の入券の可能性を比較することになった。結論からすると、上位クラスの売れ残りよりもよい席を配券して貰っていたことになる。可成りお得だった。もし初日、二日目をネットで購入していたならば高くついたと思う。両日とも安い席が残っていたのは驚きだった。それはミュンヘンでの発券状況を知っていると信じられない。やはりオペラはコンサートとは違い市場が大きいということでしかない。それでもミュンヘンの劇場での演奏会は即完売である。この差異はやはりペトレンコの広い市場での知名度の無さなのかもしれない。やはりサイモン・ラトルの方が有名だというのが我々初期からのファンからすると隔世の感があるが、その当時からラトルはやはり特別な存在であった。そのルツェルンでのセミナーやロンドン饗との演奏会も興味があったが、やはり三時間の道程は遠い。

話題のペトレンコ初日は、それでも最後の一枚が売れたのは月曜日の22時頃だった。思わず手を出しそうになるぐらい、イライラさせた一枚だが、一体誰が購入したのか。よほど癇性もちの、もしかするとフェルドキルヒあたりの親仁ではないかとも想像する ― 因みに水色の席は上から三ランク目の価格220CHFである。ペトレンコの地元であるフェルドキルヒからはザルツブルクよりもミュンヘンよりもルツェルンの方が遥かに近い。この公演はそのポピュラープログラムでスポンサー筋の専売だけでなく、玄人筋もベルリン初日からザルツブルクを回って最後まで同行する向きもいるだろうから、そのベートーヴェンの演奏実践で兎に角話題性が高い。個人的には近い席で聞いたアバド指揮の「エグモント」序曲を楽員の名妓性でもどこまで超えるかである。そこまでで本番を繰り返しているので言い訳は効かない。来るバーデンバーデンでも前日のゲネプロだけで、「パルシファル」の幕を開けてしまうという鼻持ちならない楽団だけに、七番イ長調はどうしてもスリリングでさえある。



参照:
良いこともある待降節 2017-12-15 | 暦
零下7.5度の寒さを超えた 2018-02-17 | アウトドーア・環境
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

残り少ない冬時間

2018-03-06 | 
急に春らしくなってきた。陽射しが強いのでこれで一気に開花するだろう。空気は乾燥していて冷えているので、寒の戻りなどがあって、暑くなるのはまだまだと思う。それでも気持ちの良い初夏へと進む気配があってとても嬉しい。先週入手したモニターが活躍する。こうなるとクロームキャストを籠り部屋へと付け替えるのも近いかもしれない。基準は夕食を暖房の無い部屋で出来るようになる気候だろうか。つまり暖房を殆ど使わない季節となる。あと三週間もすれば夏時間が始まるので、それまでにその時が訪れる。

夏時間採用に関してはEU内で健康障害などの否定的な見解が過半数に至ったことから、今回が最後の夏時間への移行となるかもしれない。個人的には夏至時期の夕方からの本格的なアウトドーアライフだけが価値があったが、それも早めに一日を始めれば同じことである。無いなら無いで構わない。

昼間は太陽が燦々と照れば数か月ぶりに窓を開け放つが、乾いているだけに夜間になると冷える筈だ。室内の材質が温まるまでは当分夜間の暖房は欠かせないと思う。つまり、どうしても籠り部屋に逃げ込む形になる。まだまだノートブックが籠り部屋に欠かせない。となるとクロームキャストだけでは用が足りない。年内に新たなノートブックを購入するとすれば今暫くの処置である。ノートブックが壊れないこともその前提条件となる。たとえHDDを新たにSSDに交換して音無しPCにしても動かなくなったら音楽再生用にも使えない。

気候は関係ないと思うが、再び歯茎が炎症してきた。どうも血圧やら血流が影響しているようで、物理的な影響だけではないことがハッキリしてきた。調子が良ければ春先に清掃の歯医者の予約を取ろうと思っていたが、これでは自信が無い。無理して触らない限りは酷くはならないので安心なのだが、違和感があるのはありがたくない。

先週辺りから311に合わせて車中のSWR文化波でも七年目のフクシマが朝のニュースになることがある。それによると日本政府の帰還政策に伴うグリンピースの危惧が伝えられていて、東京オリムピックのために無理な帰還を迫っているという批判が報じられる、この問題はグリンピースではないが30年を超えてしまうと百年単位でもあまり変化しないことから、容易には解決しない。先日見かけたネット情報によると定着したセシウムの時間を掛けた川下りが進んでいるようで、東京湾の河口の魚介類への途轍もない汚染が話題になるのもこれからの問題であろう。

ディーゼル車の都市部乗り入れ禁止の拡大が予想されている。自動車メーカーはE自動車へと徐々にシフトを移してきているが、近辺ではルートヴィヒスブルクなど都市別の窒素酸化物の値にも差があって、地域毎の差が当面は生じるかもしれない。

また朝のラディオでは、社会民主党の大連合への可決を見て、人事問題などが話題となっていたが、それ以上に興味深かったのは所謂移民ドイツ人へとシフトを移してくる政策を出したことで、緑の党と票の取り合いになるのだろうか。労働組合の弱体化からどうしても新たな票田が必要になったのだろうが、そのように舵取りするとその反対勢力であるAfDなど票田を大きくしないかと心配になる。それでなくても、政党支持率のアンケートでは第三党AfDとの差は2ポイントほどになっているので、もはや文字通りAfDが国民政党になるのではないかと危惧されるところだ。

キリル・ペトレンコ指揮フォアールベルク交響楽団マーラー作曲交響曲七番の演奏録音放送。昨年11月ブレゲンツでの演奏が3月5日と12日の二週に亘って放送される。其々21時からORFのRadioVoralbergにてストリーミングでも配信されて、四週間ほどオンデマンド配信となる。
追記:新聞情報が間違っていたようである。既に放送された様子が見つからないので、没になった可能性がある。新聞評では分からないが、演奏技術的に破綻があった可能性は否めない。



参照:
ふらふらする冬時間始まり 2017-10-29 | 暦
漸く時差ボケから解放される 2017-04-08 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白船をしっかり見極める

2018-03-05 | 文化一般
「パルシファル」の録音を楽譜を前に流した。METからの生放送をBGMとして聞いて感じたこととは変わらなかった。我乍ら正しく聞いているなと自画自賛していると思い出した。バイロイトでのヘンチュエン指揮のを楽譜を前に聞いていたのを忘れていた。やはりネゼ・セガンの指揮は一流指揮者のそれだった。楽譜がしっかりと読めている。感心した。しかしオペラ界で監督などはしていなかった筈だとプロフィールを初めてみた。すると子供の頃は少年合唱をしていたとかあるのでなるほどと思った。そしてカルロ・マリア・ジュリーニに可愛がってもらっていたようで、ピアノも上手いらしい。そして棒がしっかりしているのはラディオで聞いていても間違いなかった。但しまだまだ客演で指揮の通りに演奏出来ていないところがたくさんありそうで、傷も多く、ミュンヘンの精度には遠く及ばないことも分かった。但しこれは楽譜を見て聞いているからでBGM再生では判らなかった。合唱団までを含めて自分の意思が通る様になるとMETの上演は今後聞き逃せない様になると思う。コンサートのつまらないプログラムだけでその実力が充分に示せなかった天性のオペラ指揮者であるような感じだ。この程度のオペラを指揮する指揮者は世界に何人もいないと思う ― まさか来年バーデンバーデンで「オテロ」指揮ってことはないよね。流石に業界は間違いのない人選をする。

同時にグルネマンツを歌ったルネ・パーペへの不満も確認した。恐らく最も音符の多い役なので十八番にすればするほど力の抜き方を覚えてしまっているのだろうか。なによりもスラーもタイも掛かっていないところで言葉と共に掛けてしまうようで、なるほどその滑らかさが声の質に結びついているようなのだが、議論の余地なく修正するところが多々ある ― 絶対そのようにはならない管楽器奏者出身のクラウスフォークトの歌とととても対照的だ。自身の芸風と結びついているのだろうが、ミュンヘンではゲルハーハ―などの高度な技能が絡むのでどうしても修正していかないと行かなくなるであろう。

技能となると最近は指揮者の棒がラディオでも分かるようになってきた。同じMETからの「蝶々夫人」を聞いた。エレオノーラ・ヤホ以外には期待していなかった中継であるが、楽譜をDLして聞いていると、先月のそれと同じ管弦楽団かと思うほど冴えなかった。理由ははっきりしていて、棒の打点が曖昧なのかなと思った。要するに合わせ難そうで、蝶々とスズキのデュオすらも厳しそうだった。どのような位置関係で歌っているのだろう。若手イタリア人で、調べると何とミュンヘンでも振っている。要するに劇場の便利屋さん指揮者に違いないようだが、世界最高級の座付き管弦楽団でも二三流指揮者が振ればこの程度しか演奏出来ないのを実感して、ヴィーンでもどこでも如何に日常のその音楽程度が低いかを示していた。兎に角オペラなどは三流のそれをほとんど聞いたことが無いので、久しぶりのマンハイムの程度を思い出した ― マンハイムはそれでもドイツでは超のドレスデンやベルリンやミュンヘンやハムブルクのその下のA級給与体系の名門なのだがお話しにならない。侮辱するつもりはないのだが、一流とか二流とかいう等級付けもそうした公式なものに準拠していて、芸術に級などというなかれとは、あくまでも趣味人の感想でしかないのが現実である。要するに商業市場や競争原理とはまた異なる意味で自然淘汰されるということも事実である。公的資金つまり税金が使われる限りは享受する方も厳しく判断すべきであり、況してジャーナリズムと名乗る者はその公的資金の扱いに責任さえ担うものである。売れればよいだけならば税金など一切投入すべきではない。

「蝶々さん」は、合衆国では人気があって、日本では人気が無いだろう。その「日本趣味」への関心について、デュッセルドルフのある西部ドイツ放送局はラインオペラでドラマテュルギーの仕事をするプッチーニで博士号を取った専門家に話を聞いていた。これがヤホのインタヴューと並んで面白かった。端的に言うと、欧州のジャポニズムは最終的には政治事項になるということで、合衆国の「植民地日本」政策がそこにあって、まさにこのオペラの両国での人気の差異を物語っている。捕鯨のための中継地のための開港、黒船へとその植民地政策は軍事による支配を経て今日まで同じ一貫した流れの中で継承されているとしてみもはや賢明な日本人は誰も驚かないであろう。要するに芸術どころかそのもの政治であるということだ。先ごろ日本では「ローエングリーン」公演が大きな反響を得たというが、一体プッチーニ「蝶々さん」を本当に日本で上演できるときは訪れるのだろうか?要するに変な着物とか、着物の着付けとか所作とかの問題ではないのである、見てはいられないのは他のところに原因があるようなのだ。



参照:
神聖劇の理想的な舞台 2018-03-03 | 音
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解きほぐす冷えたもの

2018-03-04 | 生活
寒さの峠を越えた。ラディオでも夜中の冷えはエクストリームと伝えていたが、暖房を入れておいても冷えた。特に感じるのはベットに入るときで、籠り部屋の暖房が入っていてもベットは冷えていた。そこで温まるまでの時間が掛かる。まるで日本の北国にいるようだ。中世の欧州の生活の図を見ていると使用人が先にベットの中に火を通して温めてくれているようだが、あれは室内暖房が効いていなかったからだと思う。勿論暖炉などはあったからその意味では今と変わらない。さぞかし小氷河期は寒かったのだろう。

ベットに入っても暫くは温まらないので新しいタブレットを見るにしても布団に潜り込んで見る。こんなことはこちらに住むようになってから初めてだ。ワイン街道では雪のうっすらと積もった時に零下13度を経験した。あの時はブランケットを掛けたかもしれない。考えられる違いは低温が長めに続いていて室内でも日向と日陰の物質の温度が異なることだろう。

そこで氷を登ってから初めてパン屋に出かけて一っ走りしてきた。陽射しの無い朝は放射冷却でなくても寒い。準備体操をして走り出しても寒いのでどうしても足取りが速くなる。残っていた日陰以外は雪は殆どなくなり、驚くことに山道がからからに乾いている。これも珍しい。また近所で火事でも起こらなければよいと心配になる。

寒さのお陰で台所の流しが詰まった。こちらで詰まらせたのは初めてだ。考えてみればこの数か月は流れが悪かった。だから薬品を投入していたが、高価な薬品なのでけちけちとしか使っていなかった。そこに寒さが来て昨夜のフランスで買ってきた烏賊を使ってのスパゲティのオイルとみそが穴を閉じてしまったようだ。こうなると薬を後付けで撒いても、幾ら水量を増やしての水圧を掛けても、ゴムのポコポコのまねをして瓶で圧を掛けても駄目だ。完全に止まっている。薬とポコポコを購入することを考えながら、何時か水漏れで締め直したことのあるネズミ返しの手前部分を外してみることにした。なぜならば、注入したお湯でネズミ返しの部分は熱くなっていなかったからだ。つまり詰まっているのはその手前であることが明らかだ。

そこでその前に貯めこんだお湯を除去しなければいけない。これには以前購入してあまり出番の無いゴムの吸入装置が役に立った。流石に便器ならば使いたくないが流しならば問題ない。これを使うと一気に吸い込むので小気味が良い。バケツ二杯分を直ぐに処理した。それでも吸い込み口から下の水は吸い込めないので、そのバケツを下において肝心のパイプの接合部を緩めた。水が少し出て来るが処理に困るほどではなかった。流石にヘドロ状のものがフェルトの様になっているが、洗濯機よりもマシな雰囲気で、それほど酷い仕事にはならなかった。事務仕事の片手間でやれるぐらいだ。その先も外して、その先には最後のネズミ返しがあるだけなので、これで通る筈だ。

そもそもネズミ返し自体が、手が届く範囲で詰めてしまう事で工事の必要なところで詰まらないようにする目的もあって、そこでシカネーンが形成されている。つまり詰まる所が設定されていて、今回確認すると高さもそのコントロールのための弁も用意されていた。そこが流れていれば良しとなっている。つまりその部分まで水が溜まっているので薬剤を効果させるのはそこから先のネズミ返しの後までになる。これが充分でなかった。来週にでも新たに薬剤を購入してけちらずに洗浄したい。仕事をしながら様子を見ながら二時間ほど時間を要した。

ネットを見ているとミュンヘンの夏のオペラフェストの配券がまだ終わっていないらしい。二年ほど前に「南極」の初演の入場券がなかなか決まらないので電話した時「今オペラフェストの配券でてんてこ舞いだから」との言い訳を聞いて、結局上部の端の最前列を都合してくれたのを思い出す。可成り尽力しているようだが、配券だけでも大変だろうが更に全世界に直接発送するとなると大変なんだろう。そこまでしてもやる大きな価値があるらしい。その状況を垣間見ると一日並ぶことぐらいは仕方ないと改めて思う。なによりも遠方から出かけるとなると旅行の段取りだけでも大変だ。私の様にお勉強に時間と手間を掛ける人は少ないとは思うのだが、飛行機や宿までを考えると時間に余裕が無いと厳しいだろうなと思う。



参照:
活用した吸い口の付いたホース 2017-06-18 | テクニック
英国製の高価な買い物 2016-10-03 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神聖劇の理想的な舞台

2018-03-03 | 
サイモン・ラトルがこの水曜日にバーデンバーデンで座談会を開いたようだ。そこで興味深いことを語っている。第一報で、「パルシファル」を最後の復活祭で振れる喜びを伝えていたが、それだけではなく、

「現代の管弦楽が目前で現出するような印象をもつ」のが「パルシファル」の音楽で、そのテムポに関して音楽が流れることを重視して、「私のキャリアーの最初の頃は、ゆっくりなのは音楽の深みと思っていたのだが、今はもう確信が無くなった」と語っている。これはいろいろな意味でとても貴重な発言と思う。

一つ目は、管弦楽法と大まかに言ってしまえば、もしくはドビュッシーに影響を与えたそれと単純化すればそれで終わるのだが、勿論その先を考えてしまう。それは、「指輪」の創作過程からその後の作品の和声的な進展だけでは終わらない音楽表現の変遷とも言える。「目前で現出」するのである。これはそのもの楽匠の創作過程をつぶさに観察すればするほど見えてくるのもなのだ。

余談ながら、今年はドビュッシー没後100年からもしかするとミュンヘンで暮れに「ペレアス」の新制作があるのではないかと思うようになった。それは、キリル・ペトレンコ指揮のフランス物は「牧神の午後」ぐらいしか実況録音が無かったのだが、先頃デュカも振っていて、「パルシファル」に続いて予想される「トリスタン」新制作とも相性が悪くないからだ。なるほどフランス語に関してもイタリア語以上に上手く行くかどうかは分からないが、いづれフランス国境のバーデンバーデンで振ることを考えたならばミュンヘンの方がハードルが低いかもしれない。「ジャンニスキッキ」であったようにしっかりしたフランス語の大物歌手さえ配置出来ればである。まあ、メリザンド役はバーバラ・ハーニンガンでも構わないだろう。またまた大胆予測である。

再び前任者ラトルの言葉に戻ると、テムピの設定に関しての言及として、「流れを重視」している。この曲をブーレ-ズ以降バイロイトではまともに振れる人がいなかったであろうことを思い出しても重要な指摘である ― 因みに2019年からはそこでの難しい曲はカラヤン二世のギリシャ人に任されるのだろう。しかしせかせかしたのでは意味をなさないので、その意味では先日のネゼセガンが一流の指揮をしていたことになる。勿論それが出来るかどうかはアーティキュレーションまでを見通した合理的なリズム打ちが欠かせない訳だが、さてラトルにどこまで自然な呼吸で振ることが出来るだろうか。兎に角、ディーター・ドルン演出で準備と稽古が進んでいるということのようだ。

ここでも後任者の影がちらちらするのだが、更にバーデンバーデンの音響に関して後任者が「歌手を身近に感じる奈落」としたことに対して、ラトルは「歌手は殆ど語ることが出来、全く力む必要が無いバーデンバーデンの祝祭劇場はパルシファル上演には理想的」とまで語っている。勿論ご当地サーヴィスもあるのだが、揃って二人にこうした賛辞を言わせたのはとても大きい。バーデンバーデンの体制も少しはそうしたコミュニケーション戦略を身に着けてきたことを示すのではなかろうか。とても頼もしい。

土曜日はメトからの「蝶々さん」の生放送があるが、批評はヤホ以外の歌手や指揮者にまでにかなり厳しく余計にタイトルロールが浮かび上がっているようだ。なかなか何もかも揃うことが難しいことを考えれば、ミュンヘンでの「アンジェリカ」が最高水準のプッチーニ上演であったことも分かるのだ。

週明けには、マーラーの第七交響曲の録音の放送一回目がある。そろそろ、「パルシファル」、「初期の七つの歌曲」、ラヴェルの「シェーラザード」、七番イ長調などを調べて行かないとまた間に合わなくなりそうだ。



参照:
バーデンバーデンへの想い 2018-02-19 | 文化一般
ミュンヘンのアラキー 2018-02-15 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

響く深い陰影を観る

2018-03-02 | 雑感
ディスプレーを入手した。2016年夏に購入したBenQの上級機である。幾らか価格も高く、設置場所の大きさが分からなかったので前回は一つ小型の22インチのを109ユーロで購入した。今まで使っていて大変満足したので、安かろう悪かろうではないと思って購入を決定した。一つ新しいモデルが出ていたので選択を迷ったか、新しい方はなんとエコマークBで古いもののAよりも後退している。理由は自動的に画面を調整することから、よりエネルギーが必要になったのようだ。枠組みなどは全く同じで、性能も変わらないのだがセンサーが付いて自動調整するらしい。デスクはバルコンに背を向けていることから、陽射しの影響を受けやすく、あまり容易なセンサーでは誤操作に泣かされることも考えた。太陽光の問題はとても影響が大きい。

陽射しのあるのを利用して、籠り部屋を出て暖房の無い部屋でこれを書いている。受け取ってまず気が付いたのが大きさの割の軽さであり、薄さだった。設置してからも定規で測り直したぐらいで、枠が薄くなっていてエレガントさでごつさを感じない。だから目の錯覚で小さく見えるようだ。

期待した画質の向上は調整前とは言っても少々がっかりした。理由は暈けた感じに見えたからである。明るさも若干暗めなので余計に冴えない。しかし壁紙にしている写真を見ていて気が付いた。宣伝通り色調が深い。つまり色調の段階が暗くなってもまだ続いている。それを見る前は「暗さが冴える」とは白黒フランス映画の暗い場面の深さぐらいにしか考えていなかったが、とんでもないと気が付いた。

最初に足りなかったように感じたコントラストがハッキリして輪郭が浮かび上がることがデジタル技術の勝利だと思っていたが、大きな間違いであることに気が付いた。そもそも色調のグラデーションとか言っても実はそこをあまり意識していなかった。正反対に輪郭を浮かび上がらせると言ったら最終的にはアニメになるので、本当の輪郭はそのような線で切られている訳ではないのはなにも数学的な概念まで持ち出すまでの必要も無くて分かっていることだ ― だから私は子供の時からスケッチが苦手だった。輪郭とはフラクタルであることを認識していたからである。

それなら聴覚はどうなのかと考えると、もしかすると本当に大丈夫なのかと心配になる。つまり上の例で考えると、深いグラデーションに相当する響きをしっかりと聞き取れているかという問いかけである。上のデジタルの例を器楽演奏に当て嵌めるとやはりピアノ演奏と言うことになるだろうか。創作ではどのようなものになるだろうか。

兎に角、単純に感じる鮮烈さ分かり易さと、本当の質というのは異なると言うのがこのようなデジタル技術を通しででさえ確認されるのである。単純明快なものは万人に一目瞭然なのだが、それを良しとすることで人々の審美眼どころか、五感さえ鈍らせていくことになる。そこにはもはや芸術などは必要ない。そもそも芸事や工芸品などは、あくまでの優れた技によってなされたものであり、それ以上でもそれ以下でもないことを考えると、そうした違いを吟味しないことにははじまらない。まさしく五感を研ぎ澄ますことと相似関係にあるのだ。

なにはともあれ、台湾企業の中華産の工業製品でそこまでの違いを感じさせて呉れるのはやはり素晴らしいと思う。同時に幾つか買い求めたコムパクトカメラが予想以上に高品質になっていたことにも驚いた。デジタルカメラの良し悪しはそれなりのモニターが無いことには判定不可能なことが今更ながら分かった。Iフォンは使っていないが、音声も画像も真面な装置で比較しないことには判断なんかできる筈がない。その携帯電話などでの再生の出来で判断していては話しにならないだろう。



参照:
フリッカーフリーの実感 2016-08-24 | テクニック
驚愕ラズベリーパイ3 2016-10-22 | テクニック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする