久しぶりのマスメディア批評といこう。とは言っても芸術ジャーナリズムである。土曜日の「パルシファル」初日の批評がネットでは逸早く出回った。ローカルを中心に出揃った。恐らく早出しの人は水曜日の総稽古を見て準備していたのだろう。日曜日の夏時間への移行で一時間週末が短くなったのにも拘らずで、月曜日の朝刊に間に合わせる締め切りが決まっていたのだろう。バーデンバーデンのホテルではキーボードが盛んに響いていたと思う。
ローカルで目ぼしい記事は見つからないが、挙ってディーター・ドルン演出を貶し、その舞台、衣装、照明を貶すのに字数を使い、短くラトル指揮と歌手について報告している。歌手についての評価はこれほどバラバラなのは知らない。これはやはりオペラ劇場の土壌の貧しさだと思う。要するにミュンヘンの劇場とマンハイムやカールツルーヘのそれとの程度の違いがこうした地元の聴衆の質の差でもありそれがジャーナリズムにも表れている ― これはペトレンコを迎えるにあたって我々も尽力していかなければいけないと思っている。私でもミュンヘンに通うことになってやはり学んだことはあるのだ。
それからするとバイエルン放送協会の記事はそれなりにそこもつついていて、なぜラトル指揮では歌が上手く行かないかを皮肉交じりに表現していて、「どうもラトルは実際集中的に練習をしたのだろう、なぜならば本番初日で殆ど舞台を見上げなかったから」と「歌手陣はオートパイロットに切り替えた」とあり、これは私自身の観察と書いたこととほぼ同一だ。ミュンヘンでペトレンコのそれをいつも見ていれば誰でも気が付くことで、要するに舞台は生き物なのだがそれに対応するだけの修行も積んでおらず、その手兵の管弦楽団に対しても同じだったのがフィルハーモニカーに「ラトルの弱み」と言わせしめたところである。初日直後のクンドリーを歌ったドノーゼのインタヴューで「それどころか自由…」で消されているところでもある。
ラトルと音楽劇場に関しては語りつくされていることでもあり、今更繰り返す必要はないのだが、繰り返される。それでもそのように書く放送局自体が来年にはサイモン・ラトルに「ヴァルキューレ」を振らせるという市場があるということも事実なのである。
月曜日のFAZ朝刊にはバーデンバーデン入りしていたおばさんではなくて ― その横にはヴェルト紙の「ベルリンフィルの候補者はユダヤ人の巣窟」とティーレマン落選を嘆いたヘイトバカ親仁が居て、私が購読者なら下ろさせる ―、元ベルリナーモルゲンに書いていたブラッハマン氏が報告している。演出の意図を上手に報告している。要するに「楽匠の標榜した芸術を通しての救済などはもはや求めようがない」という演出だったという評価になる。恐らくこれは正しいのだろうが、細部に関しては中々読み込めない。二幕のクリングゾールの魔法の庭の背景のブロックを、皆ベルリンのあの記念碑の灰色のブロックと見たらしい。そして世界の現実は聴衆の皆が知っている通りだ。
音楽に関しても「管弦楽の音響のデリカテッセは、そのもの過繊細の程度にまで至った」として、「バーデンバーデンのピットは開いているのにも拘らず殆どバイロイトの蓋付きのように聞こえるとされる」と、「弦は柔らかく押さえられて響き、木管は遠くからの鳥の囀りの様で、金管はどこまでも深い空間からのように柔らかく響く」と絶賛している ― 今後を想い描いたこの言及にはとても共感を覚える。「ラトルは、印象深いエレガントな管弦楽の歌でとても過敏に反応した」と「これ以上に美しく歌われることは考え難い」と声楽陣も絶賛している。
高級紙FAZは音楽面においても演出面においても「批評」をしているが、老舗のノイエズルヒャーのそれは難しい言葉を使いながらももう一つ核心をついていないようでその両面においてもどかしい。FAZは金曜日にはティーレマンのインタヴューを載せていて、これは面白かった。要するに業界で音楽で競争するのは疲れた、もう他で振るとかと言うことよりもドレスデンで質を求めたいという今更ながらの敗北宣言をしている。どうもこの人はメディアに乗せられて、クラオタ同様に自身で超一流と錯覚していたみたいな節がある。マーラーを振るにあたっては「若い指揮者には難聴になるから気をつけよ」と自身のレパートリーの限界とともに語っている。まあ、ローカルで市場がある限り活躍すればよいのではないかと思うと同時に、二国がザルツブルクイースターと協調するということで、いずれは自己の市場がありそうな東京で活躍するのではないかと思われる。彼には彼の経験があり日本で十二分に重宝されると思う。
バイエルン放送局が伝えたエルプフィルハーモニーでのニューヨークへの壮行演奏会にメルケル首相が訪問したのはいい知らせである。なにが良いかと言うと、恐らく一先ず公職の任期を終える2020年にはキリル・ペトレンコには少なくともヤンソンスに出した外国人へのその勲章以上のものを出さないといけないからだ。出すのは大統領かも知れないが、連邦政府が選任する筈だ。バイエルン州の推薦は既に準備してあるに違いない。兎に角、キリル・ペトレンコには連邦共和国に留まって貰わないといけない。これは連邦政府の文化政策の少なくとも音楽分野においては重要な柱だと思う。何しろマエストロムーティがシカゴ饗を引き受けていなかったならペトレンコが受けていたらと思うとぞっとする。それもあって来年のマエストロの協演は楽しみだ。
参照:
Klingsors Zaubergarten trägt hier Betongrau, Jan Brachmann, FAZ vom 26.3.2108
Musik ist kein Weg, um vor sich selbst davonzurennen, Christian Thielemann, FAZ vom 23.3.2018
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
ローカルで目ぼしい記事は見つからないが、挙ってディーター・ドルン演出を貶し、その舞台、衣装、照明を貶すのに字数を使い、短くラトル指揮と歌手について報告している。歌手についての評価はこれほどバラバラなのは知らない。これはやはりオペラ劇場の土壌の貧しさだと思う。要するにミュンヘンの劇場とマンハイムやカールツルーヘのそれとの程度の違いがこうした地元の聴衆の質の差でもありそれがジャーナリズムにも表れている ― これはペトレンコを迎えるにあたって我々も尽力していかなければいけないと思っている。私でもミュンヘンに通うことになってやはり学んだことはあるのだ。
それからするとバイエルン放送協会の記事はそれなりにそこもつついていて、なぜラトル指揮では歌が上手く行かないかを皮肉交じりに表現していて、「どうもラトルは実際集中的に練習をしたのだろう、なぜならば本番初日で殆ど舞台を見上げなかったから」と「歌手陣はオートパイロットに切り替えた」とあり、これは私自身の観察と書いたこととほぼ同一だ。ミュンヘンでペトレンコのそれをいつも見ていれば誰でも気が付くことで、要するに舞台は生き物なのだがそれに対応するだけの修行も積んでおらず、その手兵の管弦楽団に対しても同じだったのがフィルハーモニカーに「ラトルの弱み」と言わせしめたところである。初日直後のクンドリーを歌ったドノーゼのインタヴューで「それどころか自由…」で消されているところでもある。
ラトルと音楽劇場に関しては語りつくされていることでもあり、今更繰り返す必要はないのだが、繰り返される。それでもそのように書く放送局自体が来年にはサイモン・ラトルに「ヴァルキューレ」を振らせるという市場があるということも事実なのである。
月曜日のFAZ朝刊にはバーデンバーデン入りしていたおばさんではなくて ― その横にはヴェルト紙の「ベルリンフィルの候補者はユダヤ人の巣窟」とティーレマン落選を嘆いたヘイトバカ親仁が居て、私が購読者なら下ろさせる ―、元ベルリナーモルゲンに書いていたブラッハマン氏が報告している。演出の意図を上手に報告している。要するに「楽匠の標榜した芸術を通しての救済などはもはや求めようがない」という演出だったという評価になる。恐らくこれは正しいのだろうが、細部に関しては中々読み込めない。二幕のクリングゾールの魔法の庭の背景のブロックを、皆ベルリンのあの記念碑の灰色のブロックと見たらしい。そして世界の現実は聴衆の皆が知っている通りだ。
音楽に関しても「管弦楽の音響のデリカテッセは、そのもの過繊細の程度にまで至った」として、「バーデンバーデンのピットは開いているのにも拘らず殆どバイロイトの蓋付きのように聞こえるとされる」と、「弦は柔らかく押さえられて響き、木管は遠くからの鳥の囀りの様で、金管はどこまでも深い空間からのように柔らかく響く」と絶賛している ― 今後を想い描いたこの言及にはとても共感を覚える。「ラトルは、印象深いエレガントな管弦楽の歌でとても過敏に反応した」と「これ以上に美しく歌われることは考え難い」と声楽陣も絶賛している。
高級紙FAZは音楽面においても演出面においても「批評」をしているが、老舗のノイエズルヒャーのそれは難しい言葉を使いながらももう一つ核心をついていないようでその両面においてもどかしい。FAZは金曜日にはティーレマンのインタヴューを載せていて、これは面白かった。要するに業界で音楽で競争するのは疲れた、もう他で振るとかと言うことよりもドレスデンで質を求めたいという今更ながらの敗北宣言をしている。どうもこの人はメディアに乗せられて、クラオタ同様に自身で超一流と錯覚していたみたいな節がある。マーラーを振るにあたっては「若い指揮者には難聴になるから気をつけよ」と自身のレパートリーの限界とともに語っている。まあ、ローカルで市場がある限り活躍すればよいのではないかと思うと同時に、二国がザルツブルクイースターと協調するということで、いずれは自己の市場がありそうな東京で活躍するのではないかと思われる。彼には彼の経験があり日本で十二分に重宝されると思う。
バイエルン放送局が伝えたエルプフィルハーモニーでのニューヨークへの壮行演奏会にメルケル首相が訪問したのはいい知らせである。なにが良いかと言うと、恐らく一先ず公職の任期を終える2020年にはキリル・ペトレンコには少なくともヤンソンスに出した外国人へのその勲章以上のものを出さないといけないからだ。出すのは大統領かも知れないが、連邦政府が選任する筈だ。バイエルン州の推薦は既に準備してあるに違いない。兎に角、キリル・ペトレンコには連邦共和国に留まって貰わないといけない。これは連邦政府の文化政策の少なくとも音楽分野においては重要な柱だと思う。何しろマエストロムーティがシカゴ饗を引き受けていなかったならペトレンコが受けていたらと思うとぞっとする。それもあって来年のマエストロの協演は楽しみだ。
参照:
Klingsors Zaubergarten trägt hier Betongrau, Jan Brachmann, FAZ vom 26.3.2108
Musik ist kein Weg, um vor sich selbst davonzurennen, Christian Thielemann, FAZ vom 23.3.2018
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評