Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

神聖劇の理想的な舞台

2018-03-03 | 
サイモン・ラトルがこの水曜日にバーデンバーデンで座談会を開いたようだ。そこで興味深いことを語っている。第一報で、「パルシファル」を最後の復活祭で振れる喜びを伝えていたが、それだけではなく、

「現代の管弦楽が目前で現出するような印象をもつ」のが「パルシファル」の音楽で、そのテムポに関して音楽が流れることを重視して、「私のキャリアーの最初の頃は、ゆっくりなのは音楽の深みと思っていたのだが、今はもう確信が無くなった」と語っている。これはいろいろな意味でとても貴重な発言と思う。

一つ目は、管弦楽法と大まかに言ってしまえば、もしくはドビュッシーに影響を与えたそれと単純化すればそれで終わるのだが、勿論その先を考えてしまう。それは、「指輪」の創作過程からその後の作品の和声的な進展だけでは終わらない音楽表現の変遷とも言える。「目前で現出」するのである。これはそのもの楽匠の創作過程をつぶさに観察すればするほど見えてくるのもなのだ。

余談ながら、今年はドビュッシー没後100年からもしかするとミュンヘンで暮れに「ペレアス」の新制作があるのではないかと思うようになった。それは、キリル・ペトレンコ指揮のフランス物は「牧神の午後」ぐらいしか実況録音が無かったのだが、先頃デュカも振っていて、「パルシファル」に続いて予想される「トリスタン」新制作とも相性が悪くないからだ。なるほどフランス語に関してもイタリア語以上に上手く行くかどうかは分からないが、いづれフランス国境のバーデンバーデンで振ることを考えたならばミュンヘンの方がハードルが低いかもしれない。「ジャンニスキッキ」であったようにしっかりしたフランス語の大物歌手さえ配置出来ればである。まあ、メリザンド役はバーバラ・ハーニンガンでも構わないだろう。またまた大胆予測である。

再び前任者ラトルの言葉に戻ると、テムピの設定に関しての言及として、「流れを重視」している。この曲をブーレ-ズ以降バイロイトではまともに振れる人がいなかったであろうことを思い出しても重要な指摘である ― 因みに2019年からはそこでの難しい曲はカラヤン二世のギリシャ人に任されるのだろう。しかしせかせかしたのでは意味をなさないので、その意味では先日のネゼセガンが一流の指揮をしていたことになる。勿論それが出来るかどうかはアーティキュレーションまでを見通した合理的なリズム打ちが欠かせない訳だが、さてラトルにどこまで自然な呼吸で振ることが出来るだろうか。兎に角、ディーター・ドルン演出で準備と稽古が進んでいるということのようだ。

ここでも後任者の影がちらちらするのだが、更にバーデンバーデンの音響に関して後任者が「歌手を身近に感じる奈落」としたことに対して、ラトルは「歌手は殆ど語ることが出来、全く力む必要が無いバーデンバーデンの祝祭劇場はパルシファル上演には理想的」とまで語っている。勿論ご当地サーヴィスもあるのだが、揃って二人にこうした賛辞を言わせたのはとても大きい。バーデンバーデンの体制も少しはそうしたコミュニケーション戦略を身に着けてきたことを示すのではなかろうか。とても頼もしい。

土曜日はメトからの「蝶々さん」の生放送があるが、批評はヤホ以外の歌手や指揮者にまでにかなり厳しく余計にタイトルロールが浮かび上がっているようだ。なかなか何もかも揃うことが難しいことを考えれば、ミュンヘンでの「アンジェリカ」が最高水準のプッチーニ上演であったことも分かるのだ。

週明けには、マーラーの第七交響曲の録音の放送一回目がある。そろそろ、「パルシファル」、「初期の七つの歌曲」、ラヴェルの「シェーラザード」、七番イ長調などを調べて行かないとまた間に合わなくなりそうだ。



参照:
バーデンバーデンへの想い 2018-02-19 | 文化一般
ミュンヘンのアラキー 2018-02-15 | 女

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 響く深い陰影を観る | トップ | 解きほぐす冷えたもの »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿