Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

白船をしっかり見極める

2018-03-05 | 文化一般
「パルシファル」の録音を楽譜を前に流した。METからの生放送をBGMとして聞いて感じたこととは変わらなかった。我乍ら正しく聞いているなと自画自賛していると思い出した。バイロイトでのヘンチュエン指揮のを楽譜を前に聞いていたのを忘れていた。やはりネゼ・セガンの指揮は一流指揮者のそれだった。楽譜がしっかりと読めている。感心した。しかしオペラ界で監督などはしていなかった筈だとプロフィールを初めてみた。すると子供の頃は少年合唱をしていたとかあるのでなるほどと思った。そしてカルロ・マリア・ジュリーニに可愛がってもらっていたようで、ピアノも上手いらしい。そして棒がしっかりしているのはラディオで聞いていても間違いなかった。但しまだまだ客演で指揮の通りに演奏出来ていないところがたくさんありそうで、傷も多く、ミュンヘンの精度には遠く及ばないことも分かった。但しこれは楽譜を見て聞いているからでBGM再生では判らなかった。合唱団までを含めて自分の意思が通る様になるとMETの上演は今後聞き逃せない様になると思う。コンサートのつまらないプログラムだけでその実力が充分に示せなかった天性のオペラ指揮者であるような感じだ。この程度のオペラを指揮する指揮者は世界に何人もいないと思う ― まさか来年バーデンバーデンで「オテロ」指揮ってことはないよね。流石に業界は間違いのない人選をする。

同時にグルネマンツを歌ったルネ・パーペへの不満も確認した。恐らく最も音符の多い役なので十八番にすればするほど力の抜き方を覚えてしまっているのだろうか。なによりもスラーもタイも掛かっていないところで言葉と共に掛けてしまうようで、なるほどその滑らかさが声の質に結びついているようなのだが、議論の余地なく修正するところが多々ある ― 絶対そのようにはならない管楽器奏者出身のクラウスフォークトの歌とととても対照的だ。自身の芸風と結びついているのだろうが、ミュンヘンではゲルハーハ―などの高度な技能が絡むのでどうしても修正していかないと行かなくなるであろう。

技能となると最近は指揮者の棒がラディオでも分かるようになってきた。同じMETからの「蝶々夫人」を聞いた。エレオノーラ・ヤホ以外には期待していなかった中継であるが、楽譜をDLして聞いていると、先月のそれと同じ管弦楽団かと思うほど冴えなかった。理由ははっきりしていて、棒の打点が曖昧なのかなと思った。要するに合わせ難そうで、蝶々とスズキのデュオすらも厳しそうだった。どのような位置関係で歌っているのだろう。若手イタリア人で、調べると何とミュンヘンでも振っている。要するに劇場の便利屋さん指揮者に違いないようだが、世界最高級の座付き管弦楽団でも二三流指揮者が振ればこの程度しか演奏出来ないのを実感して、ヴィーンでもどこでも如何に日常のその音楽程度が低いかを示していた。兎に角オペラなどは三流のそれをほとんど聞いたことが無いので、久しぶりのマンハイムの程度を思い出した ― マンハイムはそれでもドイツでは超のドレスデンやベルリンやミュンヘンやハムブルクのその下のA級給与体系の名門なのだがお話しにならない。侮辱するつもりはないのだが、一流とか二流とかいう等級付けもそうした公式なものに準拠していて、芸術に級などというなかれとは、あくまでも趣味人の感想でしかないのが現実である。要するに商業市場や競争原理とはまた異なる意味で自然淘汰されるということも事実である。公的資金つまり税金が使われる限りは享受する方も厳しく判断すべきであり、況してジャーナリズムと名乗る者はその公的資金の扱いに責任さえ担うものである。売れればよいだけならば税金など一切投入すべきではない。

「蝶々さん」は、合衆国では人気があって、日本では人気が無いだろう。その「日本趣味」への関心について、デュッセルドルフのある西部ドイツ放送局はラインオペラでドラマテュルギーの仕事をするプッチーニで博士号を取った専門家に話を聞いていた。これがヤホのインタヴューと並んで面白かった。端的に言うと、欧州のジャポニズムは最終的には政治事項になるということで、合衆国の「植民地日本」政策がそこにあって、まさにこのオペラの両国での人気の差異を物語っている。捕鯨のための中継地のための開港、黒船へとその植民地政策は軍事による支配を経て今日まで同じ一貫した流れの中で継承されているとしてみもはや賢明な日本人は誰も驚かないであろう。要するに芸術どころかそのもの政治であるということだ。先ごろ日本では「ローエングリーン」公演が大きな反響を得たというが、一体プッチーニ「蝶々さん」を本当に日本で上演できるときは訪れるのだろうか?要するに変な着物とか、着物の着付けとか所作とかの問題ではないのである、見てはいられないのは他のところに原因があるようなのだ。



参照:
神聖劇の理想的な舞台 2018-03-03 | 音
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女
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