金正恩が北京を訪問したようだと聞いて驚いた。今や世界の両大国を天秤に掛ける大外交を行う大指導者になってしまった。恐らく正式に訪問が発表されることはないのだろう。つまり、北朝鮮は中共とは新たな同盟関係を結ぶ必然などない。つまり共同の声明を出すことはないだろう。なによりも合衆国大統領と対等に会見することが肝心で、中共の子分になる必要もない。何時でも北京をミサイルの標的にすることが出来るのも基本外交姿勢である。
金正恩首次访问中国视频曝光
Is Kim Jong Un in China? Motorcade is filmed in Beijing
先日のアルミと鉄鋼の合衆国の関税は、EUや韓国などの所謂同盟国は除外されたと新聞に書いてあった。日本は今更安い特殊な?鉄鋼を合衆国に売っているのだろうか?いずれにしても安倍内閣はその外交政策だけでも総辞職は免れないだろう。即政権を譲らない限り北朝鮮との対話に乗り遅れることは間違いない。出来の悪い小者は責任を取って直ぐ去るべきだ。
二日続けてのバーデンバーデン往復は疲れた。毎日通ったこともあるのだが、五時間の舞台神聖劇の疲れはやはり違う。そこに一時間の時差が加わるものだから、英国へと飛行機で通っているようなものだ。週末に走れなかったので、峠を攻めた。パンツが脱げたので良かった。なによりも座る時間が長く食事の時刻も変わっていて調子が悪かったのだが、走ってスッキリした。直したGPS時計も曇らず快調で嬉しい。
今年のバーデンバーデンは残すところもう一日で、バーンスタインの「不安の時代」と七番イ長調である。後者の演奏歴史をYOUTUBEで聞いて、まともに楽譜通りに演奏しているのはやはりフルトヴェングラーがベルリンのフィルハーモニカーを振ったものしか見つからなかった。トスカニーニ指揮NBCもおかしな歌い込みや追い込みが掛かっていて不自然極まりない。期待したクレムペラー指揮もLPを持っているのだが、正しい譜読みをしていない。手元の楽譜は音楽之友社版なのだが、これが間違っていて「フルトヴェングラー版」かと思うほどだ。勿論メトロノームの数字は無視しているが、テムポ設定とそのリズムの自然さに感服するしかない。
戦時中の録音を先日聞いていたが、1953年のティタニアパラストでの実況があって、一楽章などは一寸枯れ過ぎているかなと思ったのだが、三楽章などはどうしてどうして立派なもので、寧ろ全体の構成が取れていて、楽譜の読み込みという点では戦後の方が出来が良い。そして放送録音らしきが最近のデジタル技術で、それを更にオーヴァーサムプリングで再生すると、全く以って生中継されている位の感じで聞ける。昨今のマルティマイクロフォンの録音とこうしたモノ録音との差は実況放送では殆ど差がないために、つまり残響成分を楽しめる限り全く違和感なく再生可能となっているのだ。つまり、他の実況録音どころか制作録音でもフルトヴェングラーの実況録音と太刀打ち出来るものは見つからない ― なるほど新たに録音する必要なんて無い筈だ。一番失望したのは老境に入って評判の良いハイティンクの指揮で、何処をどのように読んであのような演奏が出来るのか皆目わからなかった。一度生で聞いてみたいと思っていたが、あのような古典を聞かされるようでは無駄でしかない。要するに他の演奏は楽譜を読み込めていないかそれとも演奏が稚拙で話しにならないのである。ラトル指揮の録画は小さなセクエンツがあったが、基本的にはそれほど悪くはない。但しそれが実際にどのように鳴るかは聞いてみて批評しよう。
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (1/4)
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (2/4)
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (3/4)
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (4/4)
日曜日の演奏会については改めて録音録画などを見聞きしてから纏めたいが、再びシマンスキー氏のガイダンスでとても良いことを聞いた。彼はポーランド人であるが、やはりロシア文化も我々よりは分かっていて、その音楽構造を良く知っている。つまり「ペトローシュカ」のロシア民謡についての言及である。
先ず一つは、小さなフレーズの永遠の繰り返し可能なのがロシア民謡であり、そしてもう一つは拍子が同じ強さでとられることなどである。後者はここでも鐘の鳴るようとして何回も扱っていることであるが、ロシア人が手拍子を打つと同じ強さで拍がとられると具体的な言及はとても参考になった。勿論キリル・ペトレンコが弱拍でしっかりと音楽を刻めるのはまさにこれなのだが、彼の場合にはそれがおかしなアクセントとならないのはやはり完全に意識されているからなのだろう。ロシア人のドイツ語としてもかなり癖のない方である、またユダヤ人のドイツ語の要素もそれほどない ― もしかするとお母さんはその姓からしてもそのようなドイツ語が出来るのかもしれない。前者の繰り返しを認識することでストラヴィンスキーのバレー音楽が必ずしも単に繰り返されていないと理解出来る。
参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
音楽監督と至福の生物 2018-03-19 | 音
金正恩首次访问中国视频曝光
Is Kim Jong Un in China? Motorcade is filmed in Beijing
先日のアルミと鉄鋼の合衆国の関税は、EUや韓国などの所謂同盟国は除外されたと新聞に書いてあった。日本は今更安い特殊な?鉄鋼を合衆国に売っているのだろうか?いずれにしても安倍内閣はその外交政策だけでも総辞職は免れないだろう。即政権を譲らない限り北朝鮮との対話に乗り遅れることは間違いない。出来の悪い小者は責任を取って直ぐ去るべきだ。
二日続けてのバーデンバーデン往復は疲れた。毎日通ったこともあるのだが、五時間の舞台神聖劇の疲れはやはり違う。そこに一時間の時差が加わるものだから、英国へと飛行機で通っているようなものだ。週末に走れなかったので、峠を攻めた。パンツが脱げたので良かった。なによりも座る時間が長く食事の時刻も変わっていて調子が悪かったのだが、走ってスッキリした。直したGPS時計も曇らず快調で嬉しい。
今年のバーデンバーデンは残すところもう一日で、バーンスタインの「不安の時代」と七番イ長調である。後者の演奏歴史をYOUTUBEで聞いて、まともに楽譜通りに演奏しているのはやはりフルトヴェングラーがベルリンのフィルハーモニカーを振ったものしか見つからなかった。トスカニーニ指揮NBCもおかしな歌い込みや追い込みが掛かっていて不自然極まりない。期待したクレムペラー指揮もLPを持っているのだが、正しい譜読みをしていない。手元の楽譜は音楽之友社版なのだが、これが間違っていて「フルトヴェングラー版」かと思うほどだ。勿論メトロノームの数字は無視しているが、テムポ設定とそのリズムの自然さに感服するしかない。
戦時中の録音を先日聞いていたが、1953年のティタニアパラストでの実況があって、一楽章などは一寸枯れ過ぎているかなと思ったのだが、三楽章などはどうしてどうして立派なもので、寧ろ全体の構成が取れていて、楽譜の読み込みという点では戦後の方が出来が良い。そして放送録音らしきが最近のデジタル技術で、それを更にオーヴァーサムプリングで再生すると、全く以って生中継されている位の感じで聞ける。昨今のマルティマイクロフォンの録音とこうしたモノ録音との差は実況放送では殆ど差がないために、つまり残響成分を楽しめる限り全く違和感なく再生可能となっているのだ。つまり、他の実況録音どころか制作録音でもフルトヴェングラーの実況録音と太刀打ち出来るものは見つからない ― なるほど新たに録音する必要なんて無い筈だ。一番失望したのは老境に入って評判の良いハイティンクの指揮で、何処をどのように読んであのような演奏が出来るのか皆目わからなかった。一度生で聞いてみたいと思っていたが、あのような古典を聞かされるようでは無駄でしかない。要するに他の演奏は楽譜を読み込めていないかそれとも演奏が稚拙で話しにならないのである。ラトル指揮の録画は小さなセクエンツがあったが、基本的にはそれほど悪くはない。但しそれが実際にどのように鳴るかは聞いてみて批評しよう。
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (1/4)
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (2/4)
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (3/4)
Furtwaengler: Beethoven Symphony no. 7 (4/4)
日曜日の演奏会については改めて録音録画などを見聞きしてから纏めたいが、再びシマンスキー氏のガイダンスでとても良いことを聞いた。彼はポーランド人であるが、やはりロシア文化も我々よりは分かっていて、その音楽構造を良く知っている。つまり「ペトローシュカ」のロシア民謡についての言及である。
先ず一つは、小さなフレーズの永遠の繰り返し可能なのがロシア民謡であり、そしてもう一つは拍子が同じ強さでとられることなどである。後者はここでも鐘の鳴るようとして何回も扱っていることであるが、ロシア人が手拍子を打つと同じ強さで拍がとられると具体的な言及はとても参考になった。勿論キリル・ペトレンコが弱拍でしっかりと音楽を刻めるのはまさにこれなのだが、彼の場合にはそれがおかしなアクセントとならないのはやはり完全に意識されているからなのだろう。ロシア人のドイツ語としてもかなり癖のない方である、またユダヤ人のドイツ語の要素もそれほどない ― もしかするとお母さんはその姓からしてもそのようなドイツ語が出来るのかもしれない。前者の繰り返しを認識することでストラヴィンスキーのバレー音楽が必ずしも単に繰り返されていないと理解出来る。
参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
音楽監督と至福の生物 2018-03-19 | 音