Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

変わった指揮と座付き楽団

2023-10-14 | 
承前)前音楽監督キリル・ペトレンコは第一回アカデミーコンサートの客演指揮者として何を為したか。2021年の「トリスタンとイゾルテ」以来の客演であったが、ペトレンコの指揮も変わり、そして何よりも500周年の管弦楽団も変わっていた。奈落の中と舞台の上では尤も異なるのだが、その間現音楽監督ユロウスキーの2021年の「鼻」、昨年の「ルーダンの悪魔」、本年の「戦争と平和」を聴いて来ればこの変化は明白だった。

的確な指揮やその懇切丁寧なキュー出しなどは変わらないのだが、よりアンサムブルをさせるような方向にあって、特に舞台上ではとことんまでやっていた姿勢よりも、現在の座付き楽団の状態に満足しているような指揮ぶりであった。恐らくユロウスキーの手に渡ることで、楽団の方も自己防衛のようなアンサムブルを壊さない努力もあり、当初は新監督下でぎくしゃくしていた感じもあったのだが、本年のプロコフィエフ演奏でのそれが評価されて最高の楽団とされたのは偶然ではない。

独伝統的楽器配置で左右に広がったそのヴァイオリン群の掛け合いや受け渡し、木管、金管への繋がりや重ね方は当然のことながら歌へのそれと同じようによりしなやかになり、場面によっては多くの音色旋律的な表情を作っていた ― 大絶賛の交響曲七番の録音よりも一層洗練されている。特に四度音程がどのように落ちていくのか、それとも上がっていくのかは、重要な表現であって、一部の合唱フーガのみならず、全てが二部へと連なる動機の扱いとして揺るがせない。

この点においてブレゲンツでの録音は往路の車中でヘッドフォーンでより纏まった音響として聴けたのだが、やはりそのアンサムブルが全く異なり過ぎて、特に第一部の小さな音では歌手の後ろに沈んで仕舞っていた。上手な楽団程小さな音での表現力が秀逸となるのだが、それが見事なダイナミックスを為していた。その分、ブレゲンツでのような女声陣の表現力がなくても、座付き楽団がそれに余りある表情を作る。

プログラム冊子にクラスティング氏がドルニー支配人の手腕で2020年に予定されていた歌手陣を略揃えというのは敢えて異なったことを書き記していると思う。しかしその中でもマリアヌス博士を歌ったブルンスは、特にその二部での表現は大変重要な音楽的な扱いとなっていた。ある程度の声量も期待されるので、もしかするとベルリンでも起用されるかもしれない。

ここで音楽史的な興味から、現在のミュンヒナーフィルハーモニカーの前身カイム管弦楽団が現在のドイツェスムージアムの乗り物館で初演した時の名簿からヴェーベルンとツェムリンスキー、そしてシュトラウスとレーガー、日本で活躍したプリングスハイム、その義理の兄弟トーマス・マン夫妻に、ブルックナーの交響曲で有名なシャルク、そして娘婿のヴィーナーフィルハーモニカーのコンツェルトマイスターローゼ、メンゲルベルク、ストコフスキー、そしてコルンゴールトなどの音楽的に興味のある名前を挙げておこう。

そして、この座付き楽団ではヴィーンとの対抗意識もあって疎遠で、その分フィルハーモニカーの方は1901年四番、1910年八番を初演、その他1900年二番、1906年六番、1907年七番、1904年三番、1905年一番、19010年五番と殆どマーラーの管弦楽団となっていた。そして座付き楽団が八番を演奏するのも今回が初めてであった。(続く)



参照:
500周年記念の一望 2023-10-10 | 文化一般
3D的感覚の認識 2023-10-05 | 文化一般
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