Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

1970年代後半の東欧出身

2023-10-17 | 
金曜日のイザールフィルハーモニーからの生中継をラディオとストリーミングで鑑賞した。新曲もAIでのサウンド作りなど、ラトル指揮のBR交響楽団にはあまりやりどころがなく、この作曲家に委託したムジカヴィ―ヴァの責任であるが、新体制での音楽的な問題点も浮かんできた。

従来はこのシリーズは官邸の裏のヘラクレスザールで催されることが多く、その小さなホールでも売切れることがなく苦情されたが、今回は新しい大きなホールイザールフィルハーモニーで殆ど売り切れたとされている。新シェフのラトル様様で喜んでいられるのだろうか。

肝心なのは芸術的な出来なのだが、先ずは新曲委嘱の選定からして問題が多くて、その作曲法については目新たらしがあるとしても、何ら新たなメカニズムも何も感じさせることはなかった。後半のベリオ作曲「コーロ」は1976年にドナウエッシンゲンで初演されて、しかしこのシリーズで初めて取り上げられたらしい。

前者は、九月に同様にベルリンの音楽祭で初演された1976年生まれのミュラージーメンスとリームに習ったイレシュの曲と1979年生まれのジュライとは方法などは異なっても取り分け斬新な芸術アイデアがないということでは共通していた。後者はラトル指揮のシマノフスキ―全集録音に感動して曲を捧げようとしていたということだった。

そうなると異なるのは演奏である。双方とも大編成の交響楽団をパレットにしているということで、下手に演奏して大失敗ということは許されない。そして前者の演奏は、作曲家自身がレクチャーで語っていたように、初めて自分の創作の音を聴けたと語る様に到底通常では不可能な面倒な演奏とアンサムブルを求めている。

その意味からしてのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの献身的準備は結果に表れていた。抑々それだけの手間をかけて演奏するだけの創作かどうかが問われるほどなのだが、昔から練習曲というものが存在したように、大管弦楽団の可能性を試すような音化することに意味があるという作品もあるのである。
Márton Illés: Lég-szín-tér / Kirill Petrenko · Berliner Philharmoniker


するとラトル指揮のBRの交響楽団は少なくともこうした有名な新しい音楽のシリーズを持ちながらそれほど素晴らしい演奏が生まれていないようにラトルの指揮もそれ以上に魅力のあるものとはなっていなかった。

ラトルがここで目指しているものはやはりその語り口だと思われるのだが、やはりそれ相応の音を出していかなければいけないので、丁寧にはやっていたとしても、またまたのっぺりとしたことになっていた。音化するだけで精一杯でそれ以上にはグラデーションも着けられないという塩梅で、何か元の木阿弥のような演奏会となっていた。

百戦練磨の初演魔エンゲルの指揮に比較すると、なによりも欠けているのは、指揮者自身が総譜からざっくりと鷲掴みする全体の叙述法と構成感であり、それをどのように演奏にして内容を聴者にも明白にするかということでしかない。



参照:
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
透過性を上げる試み 2022-10-18 | 暦
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