Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

永遠朝七時の目覚まし

2024-06-11 | 
石を首に下げていた。それだけでは会場に入れなかった。しかし積極的な聴衆であることは確認されただろう。あるおばさんは、「これはまたエレガントな―」とスイス語で仰った。そもそも服装からして危ないのだが、やっぱりストーンズとは違う。どこがとなる。

今回の演奏会はそのタイトルの通り女性の新しい作品を並べて聴いて貰うというものだった。それだけで価値があって意義のある催しだったと言うのは、18時15分から始まったレクチュアーでの指揮者エンゲルの話しでも婉曲的に主張されていた。つまり世界で24%だかはベートーヴェンの楽曲が演奏されるところで、女性の作品は全体の1.9%にしか満たないこと、つまり希少価値である証拠が挙げられた。追々、そこでは新しい音楽が多くとなる。

最初に演奏された曲の作曲家ムンドリーはチュッリッヒで作曲家教授らしいが、その中では上の世代で、舞台での鼎談で自作のことを語っていた。エンゲルとは2005年のルンデル指揮での初演の際にアシスタントとして出会ったようで、今回も2019年初演の「終わりなき地層」という三部構成の作品が演奏された。彼女自身が作品を見せて作曲家の先生に魅せた時も女性の作品にはフォームがないと言われたとその創作は何だったのだと笑っていたが、その概念はこの会の一寸した導きとなった。

多層性とグレゴリアンチャントからの積み重ねのような様相を見せていたのだが、若干そこにその視点のあり方が問われるような結果となっていた。なるほど音響の作り方とか神の擦れる音とかあの感覚的な官能とは別に、プログラムから変更になって前半三曲目から二曲目に置き換えられたルンドベルガーの「ダウン」という曲までは稀薄ではないのだが、そこに主観が強く反映しての聴かせて初めて反響をみるという構図が弱い。古今名曲というのはやはりその視点を替えて視座を動かしての演奏行為という変換にも晒されることで演奏されるべき作品となる。何も美しいとかの掛け声を聴いても美しくはないのである。

その意味からすれば休憩を挟んで後半の最初の曲は2021年にそこバーゼルからそれほど遠くはないドナウエッシンゲンの音楽祭で初演されたトロンボーンのマヤ・ラトケの協奏曲でもある「イカルスを思って」はそのソロの名人技と大管弦楽団ということから、そのソロの創造的可能性が上手に「イカルスの可能性」として構築されている。偶々今回呟きにハートを貰ったのでフォローしておいた。ある意味手堅いやり方ではあり、多作家ではないようだが、ジャズを含めて旧主的な枠にも嵌まっている。
ドナウエッシンゲンでの初演中継録画、24分40秒から
Konzert mit dem SWR Symphonieorchester | SWR Donaueschinger Musiktage 2021


しかし、ここでそのプログラムにも大きく取り扱われていて、当日のパフォーマーとしても活躍する事から前半の最後の曲として演奏されたバロセロナ出身のジェムラゲスプホールの作品は最も今日的なものであった。その作品自体は一種のシアターピースともなっていて、本人が出て来て楽団の前に腰かける。上体が何か透けたような衣装で、後で考えるとネグリジェをも表すのかとも気が付いた。

そこで何を英語で演じたか?目覚めると目覚ましが7時だというのが何回も繰り返されるのだ。ゴロ―を待つではない、なにを待っていたのか。(続く)



参照:
隈も何もない浅墓さ 2024-05-25 | SNS・BLOG研究
時代の耳への観想 2024-04-20 | 音

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