Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

上目使いにそっと天を仰ぐ

2007-05-01 | 文学・思想
承前)一方、そこには水没の象徴があるのだ。その背後には、消滅して破壊する高潮の死の象徴があるのだ。大海は、古の思考に、世界を地球を絶えず脅かし、太古の潮は全ての命を呑み込む。―

ヨゼフ・ラッツィンガーは、こうしたイメージを用いて、ヨルダン川の辺で洗礼者ヨハネスによって30歳になるイエスになされる洗礼の意味を説明して行く。

― そのころ、イエススはガリラヤのナザレトから来て、ヨルダン川でヨハネスから洗礼を受けた。(マルコスによる福音1章9)

そして、流れは何よりも生命を象徴する。生命に過去の汚れを科し、生命を醜く歪める汚れを解き放ち、浄化するのである。

― イエススは言った。「お前たちは、自分が何を願っているのかわかっていない。この私が飲まねばならない杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか」。(マルコスによる福音10章38)

― しかし、私には受けなければいけない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろう。(ルカスによる福音12章50)

洗礼者ヨハネスとイエスの間に交わされる会話におけるイエスの不思議な受け応えは、容易に解くことは出来ないとしてして、「ARTI」と「今は(まだ)」と言う原語の意味に注目する。

― しかし、イエススは答えた。「今は、止めないでください。御心にかなうことをすべて実行するのは、我々にふさわしいことなのだから」。そこで、ヨハネスは承諾した。(マタイオスによる福音3章15)

これをして、トラー(תּוֹרָה)の支配する世界におけるキリスト教の洗礼の意味が理解出来るが、東方教会におけるイコンやエピファニーに行われる洗礼などの関連を示す事で、より深くこの意味合いを考えて行く。そこでは、水の流れる堀のような暗い洞窟が描かれて、彼の黄泉の国や地底や洞穴が具象されている。

その情景には、ルカスによる福音11章22「…、もっと強いものが襲ってきて…」にもあるように「水を潜ることで強いものと結ばれる」と、ヒロニムスの弟子チリル・エルサレムの言葉を引用する。

要するに、洗礼は人類の罪のための死の受容であり、新約聖書にあるように、復活のときの如く、天の声が「お前はわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である…」(ルカスによる福音3章22)と響き渡るのである。

またここで、これらの歴史を総合して、他の者の罪に立ち入り、地獄へと落ちて行く事は、ただダンテの神曲のような傍観者ではなくて、同情し、共感し、変容して、洗礼の戸を叩くことでもあるとしている。そして、人々を束縛する悪の家へと押し入り、強きと共に戦う。

人々を束縛する権力は、匿名となって世論を操作している。だからこそ、世界の歴史に屈服しない強さは、すべての罪を担う神と同等にあらゆる罪を受け止め、それを乗り越えて、朽ちた者たちのアイデンティティーへと降りて行って、何一つと放り措かないのである。

つまり、その圏内において、その存在を新たにする存在へと立ち戻り、新たな天を、新たな地上を準備するのである。これが、変遷する世界における秘蹟なのであると述べると直ぐに、「こうしたイエスの洗礼の解釈とそれを自家薬籠中のものとする教会の教義は、聖書から離れ過ぎてはいないかな?」と、上目使いに人の顔色を伺うのである。読者は、この瞬間、前任者のその死のためのミサを司どり、参列者を見るラッツィンガー枢機卿の顔を、もしくはモハメッド批判騒動の後、陳謝したこの教皇の顔を想い浮かべるかもしれない。

そうして、復活祭に食される子羊を、「タリア」と称される「召使」を示すヘブライ語を基に、その意味するものの歴史を見るが、それは同時にイエスが属した社会を説明することになり、福音書にあるイエスの素性の説明にも繋がっている。その文脈において、イエスの家系図の示し方の福音書による相違にも触れながら、ヨハネスによる福音の記載を史実として確定をみて、さらに戦後に見つかったクムラン遺跡での史実と関連付ける。

こうして「歴史」と「神話」との相違を際立たせておきながら、作曲家リヒャルト・シュトラウスで歌劇化されているオスカー・ワイルドのサロメやシェクスピアーなどには一切触れずに、そこはかとなく想起させるのはなかなか巧い。

最後に子羊の解釈から洗礼の意味合いを各々の福音書のテキストにみて、水の上を鳩のように飛遊する聖霊に注目すると、それを創世記(1章2)へと遡りつつ、そこに特長付けられた情景を挙げる。

それは、打ち破られた天蓋であり、イエスの頭上に開く天であり、意志を同じくする父との正義に満たされた空である。これをして、愛される子のその 行 為 でなしにその 存 在 が告知されていると強調される。このことは、著者が前口上で、「歴史的事実は交換可能な象徴的な記号ではなく、根本的な土台なのである」と強調して、「Et incarnatus est  ― この言葉を以って実際の神の歴史への現出を信じて奉ずる」と、信仰告白をしていることに相当する。

本題であるイエスの正体を扱う第一章「イエスの洗礼」を読み終えた。述べたように、特別な主張がここで展開される訳ではないが、ある文脈を以ってパズルの如くモザイクが積み重ねられて行くとき、またその筆運びを吟味するとき、読者はこうした宗教者が何をどのように考察して、どのようなイメージをもって、それを伝えようとしているのか、備に観察することが出来るのである。

引き続き、これを読んで行くが、これで判るように、大きな人類文明の重要な核がここに示されており、特に科学的な考察を要する文化に欠かせない基礎の一部がここに存在しているのを知ることが可能となる。

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 索引 2007年04月 | トップ | 近代物理教の使徒の死 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
30歳・・・・ (はっちー&ハリー)
2007-05-01 01:03:22
後から来る方「私はその方の靴紐を解く値打ちも無い」とヨハネ・・・・。新約聖書を初めて読んだ時その映像が観えた・・・使徒の手紙中心の新約は信徒が容易く共鳴出来る様になってる?ゴスペルと言うだけに・・・。

『ナザレのイエス』ラッツィンガーの「イエス」

久々に聖書を手にしました・・・眠れぬ夜は聖書!
返信する
ラッツィンガーの「イエス」 (pfaelzerwein)
2007-05-01 03:43:18
なかなか良い副タイトルです。

論理的に積み重ねた上で、最終的にはあるイメージが完成すると思います。それがたとえ形而上といっても、映像的なものなのか、音響的なのか、言語的なものなのか。

この本を読んで、内容を確認して、そのイメージや思考の背景をあれやこれや考えていると、うつらうつらしてしまうのです。
返信する
本を買いました (モモリーネ)
2007-05-19 07:46:27
いつも読んでは感動しています。私も、いよいよこの本を買いましたので、遅ればせながらコメントさせてください。
私も、洗礼の章を読み終えたところです。Cyrillにも詳しいですが、洗礼の本来の形は、ヨルダン川以降も暗い洞窟のような堀が設けられて使用されていたようですね。いまさらながら、本来の洗礼の意味を考えてみると、イエスが人類の罪を背負って悪へと潜っていく姿、そして悪と闘い再生して水から出てくるという行為から始まり、後にパシャ祭の日に犠牲の子羊のシンボルとして磔刑となるところに、キリスト教の基本を改めて実感させられました。

「歴史的事実は交換可能な象徴的な記号ではなく、根本的な土台なのである」
という節に、やはりカトリック的なものを非常に意識してしまう私ですが、現在はKuengも含めて、科学と共にキリスト教を捉え、その宗教の根拠を証明していくという試みが非常に社会から求められてるという気もします。
「特に科学的な考察を要する文化に欠かせない基礎の一部がここに存在しているのを知ることが可能となる。」という行は、私にとって非常に重要でした。そうしてみると、日記でも後日取り上げられているOhligの批判というのは、この本の趣旨に関しては、無意味であるということが理解できます。今、キリスト教はいろいろな意味で、すべての学術を包括するべき意義を与えることができずに混迷していますが、この本はやはりそういう社会にとって非常に重要な意味を投げかけるのではないでしょうか。今後読み進められた御感想も、日記にて楽しみにしております。
返信する
やはり有り難い (pfaelzerwein)
2007-05-20 15:14:19
こちらこそいつもありがとうございます。

自然科学との問題を考えると、その実証性や形而上の問題を扱うまでも無く、バイオテクノロジーや医学・生物畑以外でも、なんらかの倫理基準に照らし合わせる必要がありますね。そうした場合に、どうしても包括すべき思考手順が重要になります。

この点からすると、キリスト教と言うのはやはり有り難く、欠かせない。また、南米やアフリカ・アジアでの人道的活動は、プロテスタントも含めて大きな意味をもっていますから、その意味から政治的であるのは当然でしょうか。

特にヴァチカンの場合は、前任者からの活動の一貫性として、理論の今日化・強化がどうしても重要なのですね。専門の批評家が、大変意欲的な活動と瞠目しているのはこの辺りにあるのでしょう。様々な意味での危機感があるのですね。

同じ本を読まれていることですし、勘違いや不審な点があれば、忌憚無くご批判ください。私は何れにせよ、まだまだこの書籍の内容を愉しんでいます。
返信する

コメントを投稿