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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

市民を犠牲にやってみた

2008-09-01 | SNS・BLOG研究
「創造力など存在しない」とする一節をBLOGで見かけた。定期観覧している場所であったが、何処であったか分からなくなった。その前後からみると、既にそうして創造される知的創造物は宇宙のどこかに存在していて、ただそれが認知されるという考え方と理解した。そうとなれば、やはり世界観の問題であり、予定調和的に表れるのではなくて、歴史の中で偶々あらわれるというものなのであろう。

自然科学や実証的にまたは理論的に議論される分野においては、歴史の中での継続した判断基準となる土台の上で、 個 人 的 な創造力の集積として新たな歴史が築かれる。さもなくば永遠の停滞があるか、そこにはゾンビ社会が存在するのみとなる。

政治学では、これをして*「プティングの味は食べて見なければ分からない」という革命的状況における「賭け」の要素が一つ一つの判断につきまとい、「やってみた」瞬間にもはや行為は状況の中に編入されて、「やってみる」前の状況、つまり「理論的」分析の対象となった状況とは変わっていることを指す。

ここ数週間に起こった事件をみれば、グルジアにおけるロシア軍の侵攻やアフガニスタンの治安悪化に、こうした**「自己の責任における賭け」の帰結がある。要するに***「人格的決断は常に一般的=普遍的なものに還元されるから、それだけ政治的責任の意識は退行するし、状況を自己の責任において捜査する可能性も見失われてしまう」となる。

軍事行動もしくは解決法は、常に軍事行為自体の目的化の中に本来の機能を失うものであるから、政治的に「やってみる」決断したあとの状況判断がより重要となるのは周知である。

ドイツ国防軍における職業軍人への志望者数が半減している状況があるようだ。昨年度は、増えていたので余計に、アフガニスタンなどでの殉職の影響がとやかく取り沙汰される。

安定した生活基盤が職業軍人のもっとも重要な側面であるから、海外派兵での危険な任務は国防軍の本来の使命からすると甚だ異なるのは当然である。因みにアフガニスタン派遣の日当は、82ユーロであるから、現在の派遣先の状況からすると合わない。

たとえオバマ候補が、ドイツ連邦政府に国際貢献を求めても、こうした危険な任務への志願は金銭的な興味以外に、なんら普遍的なイデオロギーに囚われてはいけない。今や良識をもった世界市民は、如何なる善意から生じた行動であろうが、その行動によって生じた反応を注視して新たな決断を迫られる必要を認知している。

我々は、イスラム教徒の性差別や中共の中華思想などを改めさせるだけの意志をもってはいるが、それを普遍的なイデオロギーとして振りかざすつもりはない。だから、市民を犠牲にするような、派遣された人員を犠牲にするような行動は中止すべきで、さもなければそれはタリバン同様にイデオロギー化した蛮行に他ならなく、政治的責任への意識も自己の責任も希薄となっているに違いない。


*, **, *** 丸山真男「日本の思想」― 近代日本の思想と文学



参照:
安全保障に反する支援 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-10
神をも恐れぬ決断の数々 [ マスメディア批評 ] / 2006-11-22
失敗がつきものの判断 [ 歴史・時事 ] / 2005-12-13
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
麻薬である信仰-2008? [ マスメディア批評 ] / 2008-03-18
檻に吹きこむ隙間風 [ 歴史・時事 ] / 2006-10-23
髑髏が疎ましい白昼 [ 暦 ] / 2006-10-30
ブルコギ鍋のおじや [ 料理 ] / 2005-12-16
精神錯乱狂想の神の座 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-10-25
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勲章撫で回す自慰行為

2008-07-26 | SNS・BLOG研究
「吉田秀和 季刊『音楽展望』 ブレンデルの引退」と題した記事をBLOG「日々雑録 または 魔法の竪琴」で拝読する。この高名な文筆家には特別な想いがある。「今年も元気に渡欧されたときの模様」が掲載されていると知って、先ずは驚きと共になにも良い格好する訳ではないが、お元気なのを何よりと思う。

そうした素直な心情とは別に、やはりそうかと批判的にコメントするしかない。ヴィルトーゾピアニスト・ポリーニの演奏から何を聞くか?これは別なお話とは思うが、もし私が同じように高齢で態々遠くまで旅して何を聞きたいか?と考えると、容易に答えが浮かばない。

枕下にある若き吉田の「主題と変奏」というエッセイ集を読んで、そこに氏の全てが凝縮されていると考える。例えばベートヴェンの捉え方もベッティナ・フォン・ブレンターノなどを引用して「音楽は精神生活を感覚的に表現する」と語らせたり、ショーペンハウワーを下敷きに綴っている。

そうした生活は既に存在しないのか、それとも元々存在しなかったのか、それを諮るために伝達されるメッセージとして、氏はあくまでも古典的に対象物の「効果」に拘る。そして、その全身全霊に偽らず自己に与える効果を科学的に解析しようと語る。

そのように氏は、芸術作品の創造の過程から創造活動の創作者の知的活動やそれに纏わる再創造の営みやそれに対する社会の様相などよりも、自己に与える効果をなによりも重視する。そして、小林秀雄の心情をより唯物的に実証的に捉える立場を採る。そう、思い出そう小林の名言を:


「一切が疑はしい。さういう時になっても、何故疑へば疑へる様な概念の端くれや、イデオロギーのぼろ屑を信ずる様な信じない様な顔をしているのであろうか。疑はしいものは一切疑つて見よ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだろう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心というものが見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。」(神風といふ言葉について)昭和十四年*


ここで気がつくだろう。一つの事象に対して、どのように己が興奮したかを分析する。そして、それに他者の共感を感じて、より興奮する。これは、5W1Hの表現でしかない痴漢を激励する似非ジャーナリズムの卑猥な自己満足の終わり無きルーティンのポルノ表現でしかありえない。

被害者を哀れみて涙するのと、無差別殺人に喚起されて模倣するのと幾ばかりの差異もない。誰もが共鳴するものとは、いとも容易に同じ程の共感を持って反感を引き起こす。そこには、討議の方法としてのディベートによって即物的で複雑な問題の縺れを糸を解すように明確化して行く場合や、高度な政治問題を分かり安く大衆に問う二大政党制における二項対立による構造的な視野がある。

生殖でも何でもない行為とは、まさに大衆に向って投げ掛けられた娯楽と呼ばれる同情・哀れむ行為ではないだろうか。

同情とは、そもそも自己の感覚の中に、情報を自らのフィルターを通して変換して、疑似体験して勝手に思い込む行為でしかない。つまり、そこからは新たな知覚は生じないのである。それほど無駄な活動はないからこそ、これを大衆娯楽と呼ぶ。そうした疑似体験は、視覚でも、触覚でも、臭覚でも、味覚でも、聴覚でもそれは変わらない。

さて、上の今年限りの引退を表明したピアニストの件に戻れば、このピアニストのリサイタルが一体何を意味したかは、ここにて何度も綴っており、最後のフランクフルトの演奏会をも報告する事になっている。

しかし、今回の記事との関連で一言だけコメントしてみよう。想像するに吉田氏がタイトルをつけたらしい「明暗の世界が生む深み 律儀な演奏に境地を見る」事などは、どうでもよいのだ。それがベートーヴェンのものであれ、解釈者のものあれ、文化勲章受章者のものであれ、他者の疑似体験など気持ち悪くて仕方がない。

もし氏が一流のジャーナリストであったなら、もし日本に本当のジャーナリズムがあったなら、少なくとも伝えようとするだろう。なんら自らの感覚や心情では判らない、主義主張や世界観が理解できないところでの営みを:


「そして己の性慾以上に、疑えない他者のエゴイズム即ち反照が見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを平常時という。」(2008年)


共感などが生まれないからこそ、その対象の思考や行動を備に観察して、想像しなければいけないのである。その差異にこそ、創造の可能性が介在している。ステレオタイプな思考や観察には、創造力の飛躍する間隙など初めから存在しない。

そもそも、他者の行動を解釈して共感できる方がおかしいのではないか?効果に己が感じる結果よりも、行為者の思考や過程を尊重するのは何故なのか?そこにこそ精神の営みがあるからこそ、我々は時間を前に進む事が出来るからではないのか。

知的好奇心とは一体何なのか?



参照:
人為的ではない理想像 [ ワイン ] / 2008-06-20
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
自己確立無き利己主義 [ 歴史・時事 ] / 2008-04-28
女子供文化の先祖帰り [ 文化一般 ] / 2008-04-20
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
形而上の音を奏でる文化 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-21
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
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ロリータな感覚の体験

2008-06-09 | SNS・BLOG研究
ここ暫らく「思春期」と言う言葉をよく耳にした。男性によって使われたのは、「若いワイン」との比較、また女性によっては「自己の体験」として語られた。

何故そうした発想が集中したかは分からないが、やはり今年の春から夏の環境に関係があったのだろうか?

週末同行した19人のメンバーの中に一人のローティーンエイジャーの娘が居た。年齢は聞いていないが、参加者一人の娘のような若い奥さんの継ぎ子である。誰もが少し年の離れた姉妹としか見ないほど服装派当然のこと、体つきまで雰囲気が似ていた。

平均年齢が五十に近いグループの中では異色な存在であったので、そのなかなかロリータな雰囲気と自分を含めた周りの様子を観察していた。

特に気がついたのは母親世代以上の女性が、こうした若い娘に接する雰囲気で、予想すると母親が祖母のような接し方になるかと遠くから見ていると、意外にも若い娘に肩を並べる彼女らの方がどこか思春期の娘のような雰囲気を醸し出してくるのである。

つまり、どちらかと言えば大人の方がなんらかの影響を受ける割合が多いのである。その時点では親子関係などよりも、大人の方に時間を遡らせるような効果が認められる。

ハイロマン趣味の絵の描かれた壁やワインのクラッシックな絵のエチケットの瓶を話題にしていたら、道中の畑の中に幾多のステンレスの骨で丸く人間型の案山子が設置されていて、上記の娘がそれを叩いてみたい衝動に駆られていたことが継ぎ母から語られた。なるほど、現代芸術の価値にはそうしたインターアクティヴな面が付け加わっていることを明示しても構わない。

運動性を持った殻を破る好奇心に溢れ経験や知識に囚われないからこそ時代は進む。

それで自らはと言うと、丁度ローレライを上から望む対岸で、この娘をローレライにし立てて写真を撮影した。リュックサックに体をねじって懸ける手元が、魔法の竪琴を奏でるかのように自然に仕草を作って呉れた。こちらの意図を余すことなく感づいて対応できる機敏さが、こちらの如何にも古ぼけたアイデア以上にこの一葉の写真に新鮮さを齎してくれている。



参照:『ロリータ LOLITA』 (クララの森・少女愛惜)
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蝸牛が殻に篭るように

2008-05-17 | SNS・BLOG研究
幾つかの興味深いディアローグがあった。対立する意見の並置あり、さらに止揚されるべきテーゼあり、視差に事の本質を垣間見せるたりありで様々である。

その内容に関しては、どれもここで比較的よく扱っているような話題なので、繰り返しになるような自らの私見はここでは述べない。しかし、掻い摘んでその要点だけを指し示しておく。

一つ目*は、日本社会における個人と社会の関係で、我々からすれば自己犠牲とされるものも個人の自由として、― おそらく生甲斐やライフスタイルとして ― 考えるべきだとする意見である。もちろん、そこには無制限の自由はないという自明があるのだが、その甚大なる価値を社会の各々がどのように扱い議論して行けるかが要点であるように思われる。

二つ目**は、上の件にも関わっているが、己の食生活までをも社会の規範の中で位置付けようとするかのような「解放されていない社会」の存在である。そこでは適当な市場を形成して、仮想社会を経済と言う現実社会に見せ懸ける事が可能なのである。明らかにボトムアップの決定と志向がそこにはなく、トップダウン式の封建社会が未だにそこに存在している証拠であろう。その目的のために日本では歴史的に稲作が為政者により利用されているのは周知ではないか。

三つ目***は、最も複雑な話題なのであり、容易に争点を纏めることはできないが、重要な点である自己と外界との関係とその提示に関する。つまり、認知不可能なもしくは制御不可能な現象に接するとカタツムリが殻に篭るように外界から仮想の自己を遮断するのである。その仮想自己の世界が心情となる。

自己と環境の関係は、システムの把握方法に他ならなく、それを認知するものが世界観と言えるのだろう。



参照:
日本人の働く目的は* (クラシックおっかけ日記)
VDP新酒試飲会 in マインツ** (モーゼルたより)
蜉蝣のような心情文化*** (Wein, Weib und Gesang)
「『ロハス』ということ」 (関係性)
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
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調査と云う似非文化問題

2008-03-10 | SNS・BLOG研究
鯨などにはあまり興味がない。それでも日本のネット情報からみるに、かなり熱い議論となっているようだ。過去二十年間の捕鯨に関する推移はよく知らない。だから、日本政府が調査捕鯨と称して、過去二十年間に七千頭近くの鯨を捕獲して、それを市場に流すことで、従来の捕鯨産業を保護している様子はただ驚きでしかない。

南極海での阻止活動もあの手の狂信的な自然保護団体の常套手段ではあるが、今後とも粘り強く妨害が続けられるのは充分に予想される。広範な世論から集められる寄付金で潤沢な資金が確保されればされるほど、遠く南極の海での調査と称する捕鯨活動には勝算はないであろう。恐らく、現在のような妨害を掻い潜っての捕鯨では、商業的には採算が合わないに違いない。それともそれほど商業的に面白い産業なのであろうか?

初めて、水産庁捕鯨班HPを覗いてみて、予想以上のいかがわしさが知れた。結局、調査捕鯨の建前に、科学やら統計やら文化やらの御託が並べられて、誤字脱字が示すようなこじつけた下手な独善的な文章で主張されているのは、広範な商業捕鯨とその貿易による従来の水産産業の復活でしかない事が一目瞭然なのである。

逐一、その滑稽さに触れる気もしないが、公海での商業捕鯨のみならば、IWCを 脱  退 することで即可能に違いないが、それを日本の国内市場で捌くのみならず、否応無しに収穫を輸出することを旨としていることから、脱退をも是とせずに、調査という「科学」を持ち出してきている。まさにG8の一つの政府の其処の偽りこそが現在国際世論の批判の的となっている。そのゴリ押しの論理は、ブッシュ政権によるイラク侵攻にもどことなく似ている。

そればかりか、伝統文化・食文化というような高尚な概念を持ち出しているのが大変場違いである。それに対して少数民族保護の立場からの譲歩しているにも拘らず、表向きは「人種差別に繋がるので反対」とする詭弁を用いている。本来ならば伝統文化としての食文化や既に廃れつつある捕鯨文化を、文化として保護すれば良いのであるが、其処で割り当てられる予想される二桁台の捕獲割り当てでは、日本政府が意図している水産業保護の目的には至らないのであろう。そもそも重金属で汚染された沿岸捕鯨などでは産業にならないのだろう。

その一方、日本の新聞の社説やネットでの議論は、食文化と民族主義的な主張がその隠された意図以上に「日本民族の被害妄想意識」を刺激する世論形成のために強調されているようにしか思われない。その論調はエルドガン政権のトルコの状況をさえ想起させる。現在、鯨を日常的に食用とするのは世界でもまた日本でも少数派であることから、少数派保護には相違ないと思われるが、否応にも南極まで船団を連ね其処で捕獲した鯨を国内市場で大々的に捌き、あの不味く今でも思い出すだけで吐き気を催させる鯨肉給食を復活させ、希少価値をもった鯨を海外へと高く売る叩こうとする魂胆はどうにも隠しようがない。

日本国内での様々な情報操作とは一線を隔して、現在の熱を帯びる日本の捕鯨報道を客観的に見るとこうなる。犬を食することに対するのと同じで、鯨を食することを止めろと活動する者が存在することと、大規模の商業捕鯨を禁止することとは意味が異なる。だからこそ調査捕鯨という隠れ蓑を着込み、大規模の捕鯨を展開して、国内市場のみの流通では飽き足らず、それを大々的に貿易しようとするのは、全く解せない。

水産庁の主張を裏読みするとこうなるのだが、日本国内での一致した論拠は「民族主義的な文化問題」と政治的に故意に擦りかえられているところが大変危なっかしいように思える。捕鯨の問題は、あくまでも米問題に深く関わる食糧自給率問題と同じように国内産業保護政策なのだろう。



参照:
消化不良 (雨をかわす踊り)
環境テロリスト (夕暮れのフクロウ)
シー・シェパードの暴力行為 捕鯨問題 (JUNSKYblog2008)
二枚舌のパタゴニア日本支社公式見解を嗤う (月山で2時間もたない...)
若者の保守化とは何か? (モンゴルから見えるアジア)
物言わぬ国民性 (私の勝手な主張!!)
シー・シェパード (ヤマシログ)
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松陰の記憶のカーペット

2008-02-17 | SNS・BLOG研究
大学の町マールブルクは古い町並みが保存されている。その家並みは太陽熱発電が義務付けられて、改築には最低5000ユーロの費用が必要になるという。条例に反して太陽発電を設置しなければ8000ユーロの罰金が処せられるようになるようだ。

幾つか情報が偶然に重なってある人のことを思い出した。あまりここでは個人的な思い出などは、興味をもって読む人も居まいと、書かないのだが、あまりにもネットの検索で引っかからないので、少しだけ触れておこう。思い出したが吉日である。

亡くなって三十年ほど経つのだろうか?有名なレコード屋のご主人であった増田豊太郎さんの思い出である。戦前戦後のこともよく語っておられたが、最後まで店を出されていた三宮駅北側の対面販売の狭いマスダ名曲堂のカウンターに腰掛けて聞いた色々な話を少しづつ思い起すと無性に懐かしい。

数少ないネットでの言及のみならず氏の描いた絵をみる事が出来て、記憶の片隅にあった情報を結び付けたりしている。帝展については良く聞いていたので、ご本人が応募したような話としてしか覚えていなかったが、ネットで見ると師匠の鈴木清一が「何回も入賞していた」ことについて語っていたようだった。

その長男鈴木藍作がブライスガウのフライブルクに近い国境の町ブライザッハ在住の陶芸家と知って驚く。あの国境の町に最後に出かけたのは確か2001年9月11日だったと思う。記憶の中に多くのことが沈んでいる。

増田豊太郎の絵を見て思い出した。「僕はな、手入れされている庭よりもな、雑草の生えた自然が好きなんや」と妙なことを言うと強く同意は出来ずに思っていたが、この絵を見て当時見せて貰った絵を微かに思い出して、その気持ちが幾らかは分かるような気がする。

絵は戦前の須磨の月見山周辺の赤松林の下の緑のカーペットのようだが、確かにああいう光景は、戦後の神戸では作者が確か移り住まれた鈴蘭台方面など限られた新興市街地域にしか見られなくなったかもしれない。空き地などの余地が都市部では殆どなくなり、埋立によって海岸の松林は無くなって行った。



参照:
マスダ名曲堂の思い出(スーさんの熱血うなとろ日記)
いのちの曲(ニコニコ堂)
マスダ名曲堂(宝塚の風日記)
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引き出しのグラフ配列

2008-02-03 | SNS・BLOG研究
BLOG「4文字33行」にて「CD整理」と題してその方法が語られていた。面白いと思ったので、自らの場合を、第三者的に解析紹介してみよう。

先ずは、子供時分からのLP盤の収集もあるので、その今後は増殖させないでおこうと考えているLP盤の分類について触れておく。EP盤やSP盤は身近に幾らかあったが収集することはなかった。

各々が作曲エポック順に並べられた所謂ジャンル別になっていて、交響楽(バロック組曲を含む)・管弦楽(声楽つき二十世紀音楽を含む)・電子音楽(実音変調を含む)・鍵盤楽曲(オルガン・ハープシコード・ピアノ・シンセサイザー)・室内楽(弦楽四重奏・三重奏・各種)・ソロ楽器を伴う協奏的楽曲・箱物(バロック・交響曲・室内楽・ピアノ・全集類・オペラ・ルネッサンス声楽・バロック宗教曲)・声楽付きオルガンを除く教会音楽・声楽曲・ポップス・ジャズとなっている。

ざっとみると、やはり古典派ロマン派・近現代音楽中心の分類方法であり、この中ではルネッサンス以前や二十世紀後半の音楽は少数派に過ぎない。

さて、CDの分類は、増殖・発展性があるので、出来るだけ適当にしているのだが、やはりこのLPの分類とは大分異なってきている。

先ず、コーナー別に見ていくと、ゴシック音楽・ルネッサンス音楽・バロックオペラ・バロック声楽が作曲のエポック毎に並んでいる。どうしても量的にルネッサンスではブルゴーニュ・フランドル楽派の並びが中心になっているのは否めない。

その横には今度は、二十世紀前半から中盤にかけて作曲された所謂二十世紀の古典が、その名称の如く器楽曲・弦楽四重奏曲・管弦楽曲が作曲家別に区分けされている。謂わば、上の古典的な音楽のジャンル別への繋がりを幾らか示した折衷的な分類であるが、作曲家が優先される傾向がある。そしてこうした群の扱いは作曲家の作曲の意図であることは言うまでもない。

次にオペラコーナーが別にあり二枚のDVDやCD-ROMが付いたHYBRID-CDが横に並んでいる。もう一つは、企画物など管弦楽団を使った録音類で、バロックから前古典派などからショスタコーヴィッチまでが並べられている。

もう一つのコーナーは、ピアノを中心とする器楽曲や室内楽に、二十世紀後半の音楽やサンプルやアーカイヴが並んでいる。下の方には幾つかのジャズやポップス類も納められている。相対的に見て、基本的にはLPを資料的に補う形となっているので、18世紀から20世紀への音楽作品を除くものが収集の中心となっている。

これに比べると書籍は遥かに複雑だ。アーカイヴや資料的な価値のあるもの棚に並べて取り易いように並べている他は、殆ど比喩ではなしに積んである。嘗ては、本棚に仕舞っておくのが好きであったが、積読が増えるに従い、分類があまり出来なくなってきている。

整理分類の基準はどうしてもヒエラルシーの活用でしかなく、上の例では18世紀から19世紀音楽に顕著に表れたカテゴリー別けに踏襲して、一方そうしたヒエラルシーを逸脱するパラメーターの多項化に伴ってポリヒエラルシーな分類方法が必要になってくる。

音楽の芸術的評価を齎す美学がこうした分類の差異を必要としているのに比べると、尚更書籍においては初めからそのような評価基準が成立しない。そのような事を合わせみて、その実際はその人の関心どころや視点を示すようで我ながら面白い。
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批判的に叙述する記録?

2008-01-26 | SNS・BLOG研究
BLOGを巡っていて、中級ドイツ語文法問題に行き当たった。参考になったかどうかは怪しいが、書き込みさせて頂いた。例文が誤っていたり、大変な誤解が生じかねないとみるとどうしても口を突っ込んでしまう性分なのである。「よく犯人に刺された人を振り返って、そう言えば子供の頃から正義感の人一倍強い子だったから」というようなやっかいな性分である。

内容は未だに定かではないが、文法的に接続法の現在と過去が話題となっている。前者は、直接話法から間接話法に変えると英語では時制の一致があるので複文内では現在とは往々にしてならないが、ドイツ語の場合は時制の一致がないので現在形がとられる。後者の場合は、現在の状況からみて、起らなかったことなどを仮定して因果律などを考えて利用される。

つまり後者は、英語で言えばIFを使ったり使わなかったりする動詞の過去形をあてがう仮定法過去である。つまり、一般的には過去に起っていないことを接続法にする場合が一般的である。しかしここに来て、実はそのIFによる仮定法ではなく、直接話法から間接話法に言い換える、つまりここでは記録者としての第三者のジャーナリスティックな視点が強調される文例の前者の問題と気がついた。

しかし、その部分的に引用された今回の例題は、過去に起った記録を接続法過去に書き換えてあるのでおかしいと思った。その例文である。

― 彼らは、各々に指示した。「一本づつワインを持ってくるように」
― Sie baten jeden Gast, „Bring bitte eine Flasche mit!“

それは、第三者的な批判的な様相を帯びる叙述である接続法を用いて以下のように書き換えられている:

― 彼らは、各々に一本づつワインを持ってくるように指示していただろう。
― Sie hätten jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitbringen.

この二つは、前者が起った事象を叙述しているのに対して、後者は起っていない事象をなんらかの条件が揃っていたならば事象が起っていた可能性を仮定しているので、事実関係としては正反対の過去の二つの事象を説明している。

一般的にこうした書き換えはありえないので、先ずは前の例題のbatenがウムラウトによってbätenとなる接続法過去形となる印字間違いと疑った。それとは違うと言うことで勝手に書き換えの後の文章を否定した。

― 彼らは、各々に一本づつワインを持ってくるように指示していなかっただろう。
― Sie hätten jeden Gast nicht gebeten, er solle eine Flasche Wein mitbringen.

これならば、如何なる文節においても二つの文章は同じ事象を異なった視点から叙述することになる。更に後半の文章は、原因となり得るIF文が除かれているので、次のように勝手にIF文章を補った。

― もし、このようなことになるならば。

そう、各々が安物ワインを持ち寄ったから乱闘騒ぎになって、警察が駆けつけてこう呟いたのである。

しかし、どうも例文には前後があって接続法過去で肯定つまり事象を否定しているようだ。また例題の文章は、友人が語ったことを記録者が綴ったもののようだ。

例えば記録者は、現場にいた友人から聞いた内容をここに綴っているとすれば、その友人は上の持ち寄りの指示を聞いてその事実を語ったようだが、記録者はその信憑性に不審を持っているかもしくは批判的に第三者としてその事象を伝える必要が生じる。その場合、友人の証言を自らの言葉として記録する方法は、新聞記事のように間接話法で接続法現在を使用するが、接続法現在が接続法過去によって取り替えられる場合も考えられる。

次のようにな直接話法の場合である。

― 友人は、「彼らは、各々に指示した。『一本づつワインを持ってくるように』」と語った。
― Der Freund sagte: Sie baten jeden Gast, „Bring bitte eine Flasche mit!.“

これを間接話法に纏めると次のようになる。

― 友人は、「彼らは一本づつのワインを持ちよる指示を与えた」と語った。

― Der Freund sagte, sie haben jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitnehmen.

しかし、これでは英語のように時制の一致がないので、通常の叙述と変わらなくなるから、ここで接続法過去を使うと言うことがこの例題の焦点のようだ。結論:

Der Freund sagte, sie hätten jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitnehmen.

しかし、これを部分的に初めのように比較すると全く異なる意味にしか聞こえない。このような、現実の叙述と記録もしくはジャーナリズムの手法が全く異なる事象を叙述するのはただの偶然なのだろうか?それともドイツ語特有の問題なのか、分からない。
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医者・薬要らずの信念

2008-01-11 | SNS・BLOG研究
BLOG「雑に」のヒサダさんは、痛み止めの薬の商品名からドイツ語の原語を思い起した。

鎮痛剤でアンティ・シュメルツと考えた。その真相は判らないが、この言葉はその接尾に語を付け加えることで、一般的に通じる接頭にアンティを付けた複合語であろう。因みにデューデンとヴァーリックの事典をみると各々ANTIが付く選び抜かれた言葉を取り上げている。

その中で非常に日常的なのは、抗生物質を一般的に指すアンティ・ビオティクムで、薬を飲むかどうかは別にして年一度もこの言葉無しで過ごす人は余程皆近辺が健康に違いない。報道では、アンティ・セミティズム(反ユダヤ人種主義)を年に一度も聞かない人はドイツには住んでいない。アンティ・ファシズムは、それに反してあまり最近は聞かないだろう。女性なら、アンティ・ベビーが付くピルなどの用語を良く使うのかもしれない。難しいことを言う男性ならば、アンティ・テーゼなどは、ギリシャ語やラテン語のそれらの言葉に交えて頻繁に使わないとは限らない。

これ以外で自身が最近使った言葉では、年中休みを取らないイタリア料理店を指してアンティ・クリストである。薬は未だ嘗て目薬以外購入したことはないが、誰かがおいて行った古いアンティ・ビオティカ*などは熱が出たり痛みがあると試し試し投与して、効きが掴めたら思いきって増量気味に投与する。一週間以内には必ず効果が表れる。塩加減と同じで、誰よりも自らが最もその効用を実感出来なければ投与の意味がない。

実は私自身も、数年前の心臓周辺の胸の痛みが、最近は肋骨の下部へと移動して来ている。あまり気分が良くないのであるが、決まって心理的なストレスと共に表れるので、神経性のものかと考えている。先ずありえない突然の心臓の疾患の痛みよりも、大腸等を含めて内臓疾患の可能性はない事もないのだが、これだけ巧い具合に痛みの位置が変わってくるとなると、やはり臓器にはあまり係わりがなさそうである。

明らかな運動不足から血液検査をすると決して良くはないことは充分承知している。検査や医者などに行くと心理的に病気になる事が判っていると言うか、調子が悪くなればどうしても医者に掛からずには居られないのが病気なのである。検査も、内科の診断を基に、ある程度自身で検査対象を選定出来ないようなものは見落とされることが多い筈である。先ずは、自身で観察**するのが重要であるとの信念を持っている。

そう言えば、英国ではそのような運動が政府主導で始まっているとか目にしたが、適正な検査で最終的な医療費を押さえる国民教育以上に、先ずは保険制度などの改正が効果的であろう。


* 古い薬品は、効果があるのか、化学変化で全く異なる毒薬になっているのか、それは調べて見ないと分からない。そもそも早期に効果が表れない薬品投与は、誤りではなかろうか。
** 自己観察している内に、早期発見を見逃して手遅れになるのか、もしくは早期に治療しても価値があるのかなどを考慮しなければいけないだろう。
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絵に画いた牡丹餅

2007-03-18 | SNS・BLOG研究
cocolog-nifty.comにて日本国以外からのコメントが禁止されたようなので、BLOG研究として二つの記事を読んでコメントとする。

先ずは、一度ここに批判したように日本食認定制度が頓挫した記事を扱った「ザ大衆食つまみぐい」さんの ― 硬直した官僚主義の末路「正しい日本食」 ― と題した文章である。「悪いジョーダンと受け流すわけにはいかないとおもうよ」が、私もここで書きたいことである。産業振興を文化振興として建前を繕ったところが悪質であり、「正しい文化」とされると批判せずにはいられない。それに対して、こうした切り口で調理出来ないジャーナリズムが存在するとすれば、そのようなものは無用である。不味いばかりか、一向に役に立たない。

さて、投稿記事でも多文化主義と正統性の問題としても捉えられているが、まさにこれはここ数年移民法との絡みでドイツ連邦共和国を揺るがした、各党が真剣に取り組む、大政治問題の一つなのである。行政を執り行うためには、先ずその正統性が点検されなければいけないが、尚のことそれが「正しい」文化を定義するのは至難の業である。十年以上経っても、正しい「ドイツ文化」の回答は生まれていなければ、必要ならば今後もこれは繰り返し問い返される。

驚いたことに、上の報道記事を読むと「評価にあたる民間組織は現地の料理研究家などで構成」などと執拗に発言している。産業振興ならばそのロビー活動をする業界が資金を持ち寄って普及活動して、尚且つもし必要ならば産業育成の公的援助をすれば良いのである。先ずは、なんら答申の必要が生じようか。

食文化の普及活動とするならば、判りやすく親切な 正 し い レシピーと写真等をデーターベース化してホームページで ― 既に海外向け広報誌には小まめに紹介されている ― 普及に務めるのが先決であろう。もともと、それに近いものを食していなければイメージなどは湧かないから、問題があるとされる点から片付ければ良い。

しかし、それを未だにミシュランの星制度の紛いものとして、文化振興として公的に議論されるのは、明らかに自由主義経済精神に反する。そうした認証システムが、商売になるか、それとも親会社の広告となるかの問題だけなのである。

蛇足ながら、こうした星制度を悪用して、調査と称する無銭飲食詐欺やマフィアが所場代を脅す手口も伝統的である。もちろん、誰も関心の無い星には、誰も一銭も出さないのであるけれど。

さて、もう少し文化行政に拘って、「文化芸術暴論」さんの「音楽と政治」と題した記事を読む。ここでは、「山田耕筰の音楽を通してのプロパガンダ」に、文化と行政の関係を考えている。まさにこれは、文化・音楽ジャーナリズムが為していないことをここに問うている。すなわち、「経済と文化は車の両輪のように作用し合う」とする経済論理に対して、永続性を正統性と主張する文化政策部会の見解報告があり、それに疑問を投げ掛けて、尚且つ文化政策の根本とされる「市場原理だけに委ねることが出来ない文化振興」のための助成金のあり方に ― 既に定まっているかに見える文化的価値観に ―、違和感を表明している。

記事のこのあたりを少しでも読むと気が付くのだが、文化行政が、全く文化受容者にとって異質なものどころか、評論家によってすらマスメディアで議論がされていないことが知らされる。そしていよいよ、助成しなければいけない文化とは何かの議論となってくるが、「商業的にも価値がなく伝統ともなっていない文化が西洋文化である」と定義されると、あまりにもそのお粗末な百年以上に及ぶ歴史のある文化行政に驚愕するしかない。一体、膨大な公共資金を使って、つまらないお遊びに投資していることか?何処が経済と両輪となっているのだろう?

ここにおいても文化行政を具体例を以って考えてきたが、繰り返すが、専門家であろうが学者であろうが容易に解答が出せる問題で無いからこそ、平素から議論を繰り返して下から上へと合意されて行くようなものでなければいけない。それを民主主義と呼ぶのである。商業マスメディアが、不要な三面記事を止めて「文化」を記事に出来るように、それらに助成しなければいけないと言うのだろうか?

最後に、正統的な本物の芸術の価値は何処にあるかとするヴァルター・ベンヤミンの有名な問いかけは、産業化された文化市場には複製品が大量供給されると言う意味合いからは存在しないことになる。なぜならば近くて遠く、遠くて近いものにこそオーラがあるからだ。ブランド化されて、大量消費されるものに価値を認めるのは容易くない、手の届く任意の近さにあるからだ。

要するに本物は、伝統的に継承された手技で以って拵えられなければいけないとなるが、一体全体そうしたものが、仮に存在したとしても、想像されるファーストフード紛いの日本食に存在する訳がなくて、権威を持った正統性はそもそもこうした産業振興策とは端から相容れないのである。

再び、文芸一般にこれを当てはめると、批判出来ない権威がどこかに存在しているとすると、これを伝統として積み重ね、そこから学んでいくことすら不可能である。そうしたものに与えられた ― まるで広告で生じた様な ― 仮想の権威は、極東で売買され、先ほども中共政府によって品質不良品として廃棄された、極東向きに大量 複 製 された 本 物 の 欧州ブランド商品と変わらないのである。
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雪山をナメてませんか!?

2007-01-24 | SNS・BLOG研究
本日は初めて冷えた。乾燥しているからか、霜は下りていない。早朝の床屋でも、温暖化の話と米国の変化、アルプスの対応が話題となった。

そして新聞を見ると、アルペンスキー界で最も権威のあるハーネンカムの滑降レースが雪不足で中止となり、なんとか町のイメージを守るためにスラロームの試合をするべく、最高峰グロースグロックナーの雪をヘリ運搬してピステを作ったらしい。

シュラドミンゴのスキー場などはミリオンユーロをかけてトラックでも大輸送作戦を履行して、スキーリフトを動かしていると言う。一部には、そうした活動自体が温暖化を招くとの批判があるが、アルプスの小国の国民総生産の30%をツーリズムで賄う実状から止むを得ないだろう。因みにオーストリアでは、氷点以上での「バクテリアを使った人口降雪」は禁止されている。

しかし、誰もが本年だけの事と願っているが、こうした暖冬が100年という単位の中でなく、来年も繰り返されれば、その経済的被害は食い止めようがない。保険や国家補償も検討されるが、そうなれば原因を改めようとしない外国政府に民事賠償請求をしていく事も可能なのではないだろうか?

我が地方では初雪はこれからであるが、雪山の話題として、「(日本の)冬山登山は、他の季節よりも安全である」と言う逆転の発想をした主張がBLOGで話題となっていた。その正論は引用のみを知るのみで、因ってその吃驚内容は判らないが、それに対する反論は「登山の安全広報として、不適切で大変具合の悪い危険な意見である」との旨の批判であった。

しかし、この反論をされている方の登山経験や判断力はそのBLOG記事から承知しており、概ね次のような趣旨をコメントした。

「(吃驚正論の)筆者は、余程驚くべき滑落停止技術と類稀な天候判断力をお持ちのようだが、このように傲慢な 登 山 家 が珍しく存在するものだ」

そしてその後、その 正 論 を述べたジャーナリスト兼小説家兼登山家兼ランナーと称する論者が、自らに不都合な無断引用を理由に、『日本文藝家協会』の著作権保護を圧力としてその反論記事の削除を求めた。その該当記事は。コメント共に削除された。

未知の登山家の意見など本当はどうでも良いのだが、問題はジャーナリストと名乗る限りは論を尽すべきではなかったかと言う大疑問である。少なくとも引用に誤りがあれば自己の立場を明白にすべきであった。公開されている自らの記事への批判に対して、著作権を圧力に反撃を加えるのは物書きとして恥ずべき行為である。引用の無い文藝など記号論からすると存在しない様である。

その削除された記事が正当な反論であったからこそ、こうした議論抜きの削除依頼はネットにおける自由な言論を侵すものとしてここに強く警告したい。ナメてはいけない。

インターネットの商業的利用は、こうした一方的な情報発信行為を助長させる。卑しくもBLOGなりで何かを発信する者は、こうした圧力に敏感でなければいけない。同じ理由から、コメントやトラックバックを受け付けない一方的な情報発信BLOGは出来る限り相手にしない方が良い。これは、ネットの匿名性よりも問題とすべきかもしれない。

公にもの言うことは、それが匿名であろうが通称名であろうが、責任を伴う。だから、誤りを修正する事は、正しさらしきを主張するよりも大切である。そうした批判を受けつけない、もしくは責任をとらない、誤りを認めない、3四半世紀間マスメディアを牛耳、一方的に情報を発信し続けるジャーナリズムに、そもそも存在理由などあるのだろうか?

上の件は事情が充分に分かっている訳ではない、しかし一方的に情報を発信するメディアは情報の高位に立つ訳で、大いに批判されるべき権力である。


追伸:キャッシュで問題の反論とコメントを全文を再読して、未読の本論をも参照する。それを読むと、完璧な雪上技術指導を予定していたようだが、雪不足で富士山頂上を目指し突風のため断念とある。生憎、お得意の天気予報が外れたようだ。避けれると豪語する雪崩のルートも外れないでと願わずにはいられない。そして、我々の様に雪壁に少々覚えがある者には、これは、「冬の富士山などは優れたシュタイクアイゼン技術と信頼出来る滑落停止技術があれば突風など恐れるに足らない」と十分に思わせてくれる。いつか、そこでスキー滑降を楽しみたいと思っている。
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改訂コメンテーターリストII

2007-01-01 | SNS・BLOG研究
(承前)改訂コメンテーターリストI

2007年1月から2007年6月までの間(追加リスト)

toxandoriaの日記

妄想的音楽鑑賞とお天気写真

月山で2時間もたない男とはつきあうな!-山形県に住む山岳ガイドの日記。

satominの普通の話。- 相手のあるちょっと長めの、ひとりごと

作雨作晴 - 日々の記憶

夕暮れ時の空の色 - 人の生活は、つまらない些事の積み重ね。でも、そんなものでもつぎはぎに張り合わせていくと、夕暮れ時の空が刻一刻と変化するときに見せる一瞬一瞬のきらめきの様な、儚い美しさが現せるかもしれない。

新・緑家のリースリング日記 - ドイツのリースリングを中心に、日々飲んだワインの(非常に偏った)感想を綴っていきます。



改訂コメンテーターリストIIIに続く
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虚業に群がるスパム

2006-12-15 | SNS・BLOG研究
ろくでもないスパムトラックバック対策で、認可後の公開とした。トラックバックを消去する作業は同じ仕事量で、必ずしも気持ち良く一網打尽とはならない。

それ以外のトラックバックだけを選べるようになっているのならば、スパムメールを放置しておいても良いのだが、何れ掃除しないと必要なトラックバックを見落としてしまう。明らかなスパムアドレスにも拘らずフィルターをかけずに対策をせずにサーヴァーに負担をかけるのは愚の骨頂である。

電子メールには、有料のフィルター機構があるがそれを使わずに自分でフィルターをかけている。しかし、これも限がないので、ホームページの公開アドレスの@マークをようやく文字に書き変えた。これで何れはスパムメールも減少すると期待している。

それにしても、ひと目見るからにスパムと分かるようなトラックバックやメールはなんらかの価値があるのだろうか。それも保留として公開される事が一度もないとすれば、ただの迷惑な嫌がらせと云うほかない。

こうした現状を見るとネットビジネス自体が、只の虚業でしかない事が知れる。
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リストの更新と保存

2006-10-27 | SNS・BLOG研究
久し振りに常連コメンテーターリストを改定。四件を新たにリストアップする。一軒を除いて該当期間以前からお付き合いが多少なりともあったサイトである。初対面では、今一つサイトや作者のキャラクターが分からなくとも、時間が経つ内になんとなく親しみが湧いてくるような場合がある。こうしたケースはヴァーチァル世界で無くとも、現実の人付き合いでもあるので決して珍しくない。

対面の第一印象が大切だと外交官などは言うが、隣近所の住人とは良かろうが悪かろうが継続的に付きあって行くので、必ずしも急いで評価してしてしまう必要はない。そうした、ネット上でのお付き合いも面白い。無理をしないお付き合いが良い。

新規の中の一件は、BLOG世界のお付き合いでただ一人現実世界でもお会いしている方なので、これもレアルとヴァーチャルの世界間でギャップなどがあるのか、ないのかなどと文章を読んで楽しんでいる。

今回は、空席が三件出来た。一件はサイト閉鎖で、一件は無期限の休止、一件は時限つきの休止である。もう一件は、順調な更新をしていてまたこちらからも楽しみに訪問していて決して疎遠ではないが、お暇な時にでもまたコメント等をお待ちしたい。

今回の更新でその期間、リストアップに相当するコメントを頂いたサイトはリストアップした以外にあと四件あった。しかし、今回は上に書いたように知己の期間の長さから測るサイト運営の安定度や更新頻度を加味して、それらを次回送りとした。年内にでももう一度更新が出来たら良いと思う。

いつもの如く、完全リストとリンクは過去リストに全て保存されている。
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エレヴェーターに乗るな

2006-06-08 | SNS・BLOG研究
シンドラーというスイスの有名なエレベーター(AUFZUG)が東京で事故を起こしたようである。回転ドアの件も何時か話題になったが、東京は問題が起こりやすいらしい。シンドラー社のエレヴェーターはマーケットシェアーが高いので頻繁に利用する。スイスで最後に乗った時に思い出すのは、ボタンの反応速度が大変遅く調整してあったことで、速度を早くすると事故が起こりやすい構造になっているのであろう。二重三重の安全装置が入っていないのには驚くが、大抵の使用者は安全装置を働かす事態などはあまり考えていない。

その速度といい使い勝手といい高層建築以外ではエレヴェーターをあまり使おうとは思わない。六階建てぐらいが分岐点だろうか。エレヴェーターは、歴史的に見ても柵ぐらいしかついていなくて危険な乗り物であることぐらいは知っておくべきだろう。致命的な滑落の危険性は、ロッククライミングの時ほど高いのではないか。

火災時(IM BRANDFALL)の利用(BENUTZUNG)を禁止するのが、AUFZUG IM BRANDFALL NICHT BENUTZEN(火災時にエレヴェーターを利用するな)の標識である。大抵のホテルの廊下に見られる。それならばどうしたらよいかは、避難経路図を確認して書いてある通りに移動するべきである。

不幸にもそうした火災(FEUER)が発生して消火活動に当たる消防隊(FEUERWEHR)のために場所を確保しておかなければいけない。救急車や医師のための駐停車標識もある。これらの場所に不法に駐車すると通常の違反ではないことは確かであろう。(ピクトグラフィックな旅行ドイツ語V-ワールドカップドイツ大会2006年協賛)

参照:寿司ボンバーの二丁 [ 暦 ] / 2006-05-31
接頭語等:AUF 上へ、FALL 場合、NICHT 打ち消し、IN の時に、NUR 限る、FÜR ために
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