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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

日隅一雄のジャーナリズム

2012-01-16 | SNS・BLOG研究
どれほど多くの人がBLOG「情報流通促進計画」を訪問したか知らない。ここ暫く所謂ペインコントロールの闘病生活が語られている。個人的に知己のない我々でも東電・統合記者会見での日隅氏の活躍を知らずには居られまい。そして、麻薬投与を始めてからのBLOGでの報告は、そうした既存の情報が少ないとしてプロフェッショナルなジャーナリズム的な決断で急遽行われている。

その飽く迄も理性と冷静さを失わない客観的な視点は、ややもするとそれまでの氏のBLOG訪問者にとっては鼻持ちならないような一種の唯物論的な視点と映ったに違いないのである。少なくとは個人的にはそのように感じていた。

しかしここに至ってのその現状報告は、痛みをこらえ、麻薬で薄らいだ意識などを全く感じさせないとても強い表現意志となっている。最新の報告には、「マスメディアを批判してきた私の渾身の一枚」として称して、癌によってやつれて肋骨が浮き、癌によって膨れた腹部の自画像が掲載されている。なんと意志に満ち溢れた強い表現だろう。

末期癌の本人のBLOGなどは少なくないが、正しく日隅氏が確信したように十分なこうした冷静な視点での情報は皆無に違いない。要するにそこにあるのはジャーナリストを超えての表現者の意志なのである ― そうした意志が個人の肉体が消滅した後も受け継がれることを我々は文化と呼ぶ。

一昨年に肺癌で死去した舞台映像表現家シュリンゲンジーフなども同年輩であり、最後まで自らの闘病を含めての生を表現の対象ともしたが、これほどまでにザッハリッヒであり何処までも冷静で客観的な表現は知らない。恐らく、そのこと自体が法学を学んだ日隅氏にとってのジャーナリズムの本質なのであろう。

なるほど受け手によっては、その内容の感じ取り方は異なるかもしれない。その写真を観て、皮肉にも殆ど逆説的に世紀の芸術家が渾身の力を振り絞って表現したまるでイエスキリストの受難のそれを思い浮かべるかもしれない。勿論、受ける人其々であるが、そうした表現の強い意志をそこに感じさせることだけで十分なのである。

自由報道協会は社団法人となり公共性を増すと共に、ジャーナリストへの賞を授けることになるようである。その賞は既に日隅氏の名を冠すると内定されているようである。こうした何処までも理性的で客観的でありながら意志に満ち溢れた表現の出来るジャーナリズムにその賞が授けられるとなれば、それはとても素晴らしい。

生物であるから万人に訪れる死であり、経験談すら聞けないために未だに最大の人類の未知でもあるが、哲学や宗教を含む芸術とか表現とかは ― どのような文化的な背景があろうとも ― その前提を無視しては一切表現できないのである。特に文学の一形態でもあるジャーナリズムが、そうした根源的な表現意志もないままにマスメディアを形成していては本当のジャーナリズムにはならないのである。

もう一度繰り返すが、この自画像を観て、受け手が何を読み取るか、何を感じるか、何を考えるかが大切なのである。



参照:
反社会的犯罪組織を解体せよ 2011-08-01 | マスメディア批評
セシウムも降り注ぐマイホーム 2012-01-07 | アウトドーア・環境
文学としてのジャーナリズム 2012-01-04 | マスメディア批評
最も同時代的な芸術家の死 2010-08-24 | 文化一般
甘酸っぱい野いちごの風味 2010-09-01 | 文化一般
希望という自己選択の自由 2009-06-19 | 文化一般
若き芸術家の癌病闘日記 2009-06-07 | 文化一般
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ハレルヤ!晴れるや?

2011-12-07 | SNS・BLOG研究
終日雨だった。この際積んであるまだ真新しい「ケプラーの月旅行」を読もうかと思ったが、なにやら音楽のことなどが気になって、LPなどを立て続けに流した。

思いがけずヘンデルのオラトリオ「メサイア」の推薦CDを、自ら合唱で歌われたBLOG「風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句」の風信子さんより尋ねられた。

最近の演奏実践のトレンドについてコメントを書き込んだからである。実は、自身これといった推薦盤を手元においている訳ではなく、これまた安売りで購入したライヴ録音のトン・コープマン指揮のCDなど以外には、やや昔風の演奏でマッケラス指揮のLPを隠し持っているのである。晩年大変評価が上がり、ブレンデルとのモーツァルトなど、まさしく先日扱ったネヴィル・マリナーとは違って、ドイツ語圏でもそのヤナーチェックのオペラ作品の演奏実践を超えて芸術的に受け入れられた音楽家の60年代の録音である。

要するに、一時は持て囃された軽薄軽佻なテムポやリズムをもったBGM的な音楽に比較すれば、重厚鈍重な印象さえ与える演奏形式が実はなかなか丁寧な表現で聞かせることに気がつくと、一概にそうした芸術が必ずしも保守的で古色蒼然としたものとは限らないことも分かるのである。しかし、古典派のモーツァルトとバロックのヘンデルの差は大きく、ヘンデルにおいての現代楽器奏法での表現の可能性は限られている。

また、同じところをライヴCD盤で聞くと、なるほど合唱の十六人の歌は言葉もニュアンスも優れているのだが、コープマン指揮のしらけ振りは徹底していて、第六曲合唱のアイロニー振りも悪くは無いが、やはり先ず聞き比べをしたい十二曲の"For unto us a Child is born"においても徹底してしらけ通すのである。全然ワンダフルじゃないのだ。

そこで、この第12曲から比較してみよう。先ずはガーディナー盤である。この楽団がパーセルなどで初期に成功したテムポ感を思い起こすが、少々雑な感じも免れない。

次にアーノンクールの旧盤を聞くと可也テムポも遅く、ソロイスツにオペラ歌手などの名前も見え、合唱もなにか歌い難そうである。さて新盤の方はシェーンベルク合唱団が歌っていて、基本的な解釈は変わらないようだが、言葉のアーティクレーションなど鮮やかで惚れ惚れとさせ、テンポの真価がここで始めて表現として聞こえる。しかし、その音響と技とらしい合間はライヴ録音の悪さで反復し難いあざとさとなる。

鈴木のテンポはガーディナーよりも速そうだが、印象はコープマンにも近く、まるで東京の地下鉄の会話の生意気な響きを聴いているようで、敢えてこのような表現を取っているのだろう。まるでテプコの慇懃無礼を聞いているような非常に険がある表現なのである。ユダヤ人の謀議風景のようだ。

ジョン・バット盤のテムポ感覚も似ているが合唱というか声楽パートの地声風というか安物の突っ張り調の発声と叩き付けたような弦楽が、どうしても粗雑な印象を受けていけない。受け狙いも良いが、これで全曲を演奏されては堪らないのである。

ホッグウッドも中庸な解決方法で、さらにボーイソプラノなどを入れると全くケムブリッジのチャーチなどのまさにローカルな雰囲気で、これも全曲となるとなかなか聞くに堪えないかもしれない。もちろんこうしたローカルな音楽文化があるのはたいしたものであるのだが、なにもそれにお付き合いする必要もないのである。

以下にそのリストの一覧を貼り付けたが、所謂有名演奏家のハーノンクールやガーディナー指揮などのCDを中心に日本でも入手できるだろうとする目的から挙げたが、それ以外にも面白そうな英語の上手そうな演奏団体のつまり英語で歌われるメサイアの録音を挙げたのである。

リストアップしてみて気がついたのは有り余るアマチュアなどの録音が溢れているのだが、所謂名学伯がプロフェッショナルな合唱団を指導しての最新制作録音は殆ど無い。世界で最も多く歌われるであろうバロックの曲であり、その録音の市場は大きくても、それ以上に一流の演奏家を使っての制作録音などは商売にならないことを物語っている。まさしく作曲家が経済を考えて作曲公演した作品であるからそれで正しいのかもしれない。

また古楽器を使った合唱を場合によってはソロパートにまで切り詰めたプロフェッショナルな演奏実践が、実際にダブリンで初演された何百人の合唱とは異なることも事実であり、そもそもオリジナルの響きなどは実は作曲家の脳みそを覗いてみても分らないものであるということで、初演の響きなどが「オリジナル」とはいえないのは芸術的に正しいのである。理想とした響きを初演で得られる作曲家や曲などは一体どれぐらいあるだろうか?その多くは失敗の積み重ねであるのだ。



参照:
Baroque Soloists, Gardiner,
Taverner Players & Choir, Parrott,
Nikolaus Harnoncourt,
Harnoncourt,
Bach Collegium Japan, Suzuki,
Dunedin Consort & Players, John Butt,
Christopher Hogwood (JPC)
オランダ・バッハ協会のロ短調ミサ (♯Credo)
「シトー派修道院の円蓋に響く聖歌」と題する11世紀から12世紀の聖歌を収録したCDを聴く (私的CD評)
小澤のマーラー9番(後)~思い出の名盤・44 (TARO'S CAFE)
デイヴィス指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団でハイドン作曲、交響曲第99番 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞とお天気写真)
微睡の楽園の響き 2005-02-22 | 文学・思想
ヘンデルの収支決算 2005-03-20 | 歴史・時事
コン・リピエーノの世界観 2005-12-15 | 音
旨味を増すBGM環境 2011-12-01 | 音
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自らの権利を自ら掴み取れ

2011-10-24 | SNS・BLOG研究
ネット散歩をしていると面白い。それも身近なつぶやき方ではなくて、しっかりとした考え方や姿勢が伝わる記事や映像は勉強になる。

回覧しているBLOG「モリモリキッズ」のキノコシリーズの記事は秀逸であった。放射能を受けた最も危険なキノコを研究しながら、それでも何を食して何を食さないかについて様々な判断をする。本来ならば「キノコは食さない」でそれで終わってしまうものかもしれないが、何処までも拘りを持って食せるキノコを捜し求めるのである。

本当に危険なことも知らないまま「大丈夫だろう」と横着な態度で、もしくは当てにもならない基準値とかそれ以下だからという理由で何でも口に入れてしまう強欲な人間が多い中で、一つ一つ吟味してその危険性を知りながらも食することを決断していく営みは全く異なることなのである。

そもそも自然の中だけでなく市場にも危険な食物などはあり溢れているのである。その前提に立って、それでも食べていなければ生きていけない。それが食であり、営みなのである。これほど単純なことを改めて思い起こさせてくれるのである。

全く同じように自主避難についても考えるべきで、その処置を巡っての公聴会の様子をネットで観る事が出来る。避難をした人、しなかった人に同じように弁償しなければいけないことが認識されたようだが、委員はそれでも事故当初の避難とそれ以降を別けようとする。その理由として都内からの脱出を挙げているが、それは理屈に合わない。

なぜならば各国の駐東京在外公館は避難勧告をしたが、都民や首都圏の住民に対しては日本政府は一言もそうした勧告を出しておらず、その後に一斉に戻ってきた後のホットポイントへの広報も初めて今なされている状態なのである。柏市からの今後の避難の権利を尊重するのかどうか?既にそれらの情報は政府やマスメディアとは関係ないところで信頼性の置ける情報として世界中に知れ渡っていたにも係わらず、未だに十分な情報の開示や処置がとられていない。そのような状況下において、適切な判断としての合理的な避難などはありえないのである。

最初のキノコの話題に戻れば、もはや日本国内において安全な食物同様安全な場所などはないのだが、それでも危険なホットスポットや東北、関東地方から少しでも安全な場所へと移住しようとする権利や動きに関しては積極的に保障をして、全て東電に支払いをさせるべきなのである。柏市をはじめとする千葉県や埼玉県の一部をもはや居住には適さない土地不動産としてしまったのは東電であり、福島県の殆どの土地やその近郊県の土地を含むその補償だけで東電が今後継続して企業活動出来る筈がない。時間の問題である。

それでも多くの日本人は日本国内で生きていくしかないのである。その国民に対しても何一つ補償しないと言うのであろうか?「仕方無い」ことなのか?日本国憲法に健康に暮らせる権利は保障されていなかったのか?

年間積算放射線量が一ミリを越える地域の住民は全て東電に善後策を要求して、避難などに要する請求書を送りつけるべきなのである。何人も人や行政などを頼ってはいけない、自らで自らの権利を掴み取るべきなのである。



参照:
【信州の里山】キノコの放射能汚染と除染について
野生キノコの汚染と除染について。(妻女山里山通信) (モリモリキッズ)
2011/10/20 原子力損害賠償紛争審査会ヒアリング(意見陳述)
2011/10/20 原子力損害賠償紛争審査会文科省前アピール (IWJ)
遅過ぎた自主避難などない 2011-10-04 | 雑感
自主避難の自主判断基準 2011-08-14 | マスメディア批評
共同体に警報が鳴り響くとき 2011-03-27 | アウトドーア・環境
点在する首都圏の熱いスポット 2011-10-13 | アウトドーア・環境
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お役目御免の福島汚染予想

2011-07-28 | SNS・BLOG研究
日本から最も参考にされていたドイツの気象台DWDの福島スピーディー情報公開が昨日限りで停止されたようだ  ― 昨日の記事のプレス発表で公表されたのだろう。理に適った対応と思われる。なるほど今も水蒸気を吐き出しているように、今だ水温が高く、操業停止ならびに罰則規定に相当するだけの放射性物質を吐き続けていることは分っている。しかし、テプコの説明通り、当初に散々拡散した量とは比較しようがない。

当初から気象台のサイトに明示されていたように発生源の放射能の質と量がパラメーターとしては考慮されていない概ねの予想図であったのだが、それでも当初数日間の情報は十分に参考になったに違いない。今でもテプコすら発生源のパラメーターを特定出来ずにいることから日本のSPEEDIEシステムが現在においても厳密に使えないことは、その開発当初から分かっていた筈である。しかしそれを理由に日本政府は公表を渋り、ドイツの気象台はそれでも参考になる情報として公開したのであった。そして少量の塵が計測限界内で都内まで届くような可能性が殆どなくなった今の時点で、無駄な公表を避けるのは当然であり、当初に示した汚染された気団のグラフィックこそが数え切れない日本人の被曝の状況を実際的に表していたことを尚更ながら強調するのである。

なるほど保安院や協会などは炉内温度を下げることで ― 炉の温度が高いということは全ての燃料の溶けた熱い固まりが炉外へ滑り落ちているとは考えられない ― 更なる揮発性の物質の拡散を抑えるようにテプコに要求しているのだが、このまま十年以上も吐き続けるとなると全く事情は異なるであろう。しかし、工程表によれば湯気を上げない程度の温度に下げることで、既に汚染された外部のバックグランドの線量よりも低く抑えることで、見かけ上検出出来ないぐらいにして、今後数年間の状況を見るつもりなのだろう。

テントを掛けて拡散を抑えることも、燃料体が既に全て水に陥没しているとすれば、もはやその必要もあまりなくなるに違いない。寧ろ、その核燃料を溶かした水の扱いこそが問題となるのであろう。

要するに、操業停止になるようなスカラー4に相当するような事故の今でも続く大気環境への放出などは無視できるほどに、既に東北関東圏は汚染されている。もはや何をしても味噌糞一緒なのである。その中でも既に三月十九日に書いたように、その時点で外部被曝をしていたか、どこかに逃げていたかの差異は今から考えると大きく、生涯の被曝量を左右する重要な分岐点となったであろう。あの時点では先は見れなかったので仕方がないのだが、あとから考えてももはや不可逆状態なのである。あとの祭りである。あの十日から二週間ほどを遠くで過ごせていたならば被曝量を激減できたに違いない ― ネットの映像では福島のお母さんが自らの無知ゆえの子供への被曝を嘆いていたが、災害時にはネットで情報を流しても限界があり、こうした悲劇はSPEEDIEの情報公開でこそ避けれたのだ。

外部被曝の量は、まだまだホットポインツなど発見されても、今後はある程度は管理された状態での被曝となるが、当初の吹き出しによる被曝は都内においても猛烈なものであったことは実証されている。なるほど細野大臣が語るように実際上限がないので、都内に関しては一切発言していない政府も「自主的な避難を推奨」していた訳で、実際に世界の国々は在日公館を通じて在東京の自国民を東京圏から離したのであった。

これからは内部被曝に注意することしかなくそれが肝要なのであるが、もはや政府の情報や流通機構などを信用する「被曝者」はいまい。ドイツ駐日大使が「日本旅行は汚染情報がはっきりしているのでミュンヘンより安全だ」と宣伝していたが、「一体何を食べればよいのだ」と私は毒づいた。ドイツから団子でも携えて日本旅行をしろというのか。

もしドイツの気象台が、そこに書いてあるように、必要ならば再開するような事態とは、何らかの状況で再び激しく放射線物質が大気中に飛び散る破局的な状況しかありえない。水蒸気爆発という最悪の状態が今まで起きていなかったことの方が奇跡であると言う意見は多い。寧ろそれよりも強い余震や津波で他の格納炉が破損するような事故の方が遥かにありえる再開のシナリオかもしれない。



参照:
☆ 【拡散】ドイツ気象庁へのお願いメールを出してください。 (風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句)
ふくいちライブカメラ (テプコ)
健康・環境被害とは風評なのか? 2011-03-19 | アウトドーア・環境
グリーンピース発表によると 2011-03-30 | アウトドーア・環境
情報の隠蔽も未必の故意 2011-07-01 | マスメディア批評
温暖化の中での冷夏の印象 2011-07-27 | 暦
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彼らの勇気と行動を讃えよう

2011-06-27 | SNS・BLOG研究
ライプチッヒ弦楽四重奏団が素晴らしい音楽を東北の被災地に響かせたようである。その現地からの報告がBLOGに載っているのだが、それを巡ってすねっからしのスト破り野郎としてこの四人を叩く同業者が絶えないことをFAZが伝えている。

要するに、芸大との繋がりもあり腕もありレパートリーもとても広いが、かなり芸術的には保守的なこのドイツ代表する、もはや練れて十分にベテランの四重奏団に対して、日本公演をなんとかキャンセルしたい仲間内からの嫉妬のようなものが爆発したらしい。バイエルンの歌劇団、ベルリンの交響楽団、ドレスデンのフィルハーモニーと秋から日本でスケジュールが入っている団体では、ユニオンなどが健康被害を考えて日本旅行を出来るだけ避けたいからなのである。

ベルリンのそれは既に仙台公演をキャンセルしたが、殆どの楽団や音楽家は福島どころか東北さえも訪れないのだが、彼のプリマドンナのように、かつての友人などの被曝の長い苦しみを理由として、日本行き拒否を強く宣誓したので、日本での外来は八割方がキャンセルしたといわれる。

そうした中で、五月には手筈が整わず叶わなかったが、被災地でのコンサートのために態々六月に再び出直したこの人たちはどうした人たちなのだろう?多くのものは売名行為やそのポーズで日本を訪れるが、郡山や南相馬町まで訪れるこの人たちには頭が下がる。そして彼らは、場所によればドイツの都市よりも放射能が少なかったところもあるぐらいだと、ドイツの過剰反応をヒステリーとして批判する。

なるほど、現在の空気中の放射線の強さはその程度だろうが、内部被曝も何も考えずに発言する彼らは、ちょうど今の日本人がおかれるようなところから出所した典型的な東ドイツ人なのだろうか?それは彼らの奏でる音楽の「現実の環境のない作り物」にも十分に表れているのではないだろうか?覚醒できていない芸術家など必要なのだろうか?放射能は、どんなに感覚の優れた芸術家でも感じることが出来ない現実の環境なのである。

芸術家としてはともかく、彼らが供出する最上質のミューズは、彼らのまことのヒューマニティーとともに、被災地の子供たちにも間違いなく伝わったと確信する。その芸術家としての主義主張はともかく、その連帯と行動に最大の賛辞を厭わないだろう。両親を失い何もかも失った少女が手元に残ったトラムペットに見出す希望とは、きっとそうした環境にあるのは間違いないのだ。

そして再び我々は、あの理不尽な原発事故に思いを馳せるしかないのである。少なくとも政府や東電が何もかも正直に国民に正しい情報を流すように開かれていたならば、「生き残り、逃げ遅れた被災者たち」にもこうした善意の連帯が今とは比較にならないほど示された筈だ。神戸の震災のときと比べてヴォランティアーも少ないという。その責任はこましゃくれた情報操作と管制にある。一度その情報に信用がなくなれば何も信用できなくなり、五里霧中に膨らみ解けない疑心暗鬼が放射線を浴びたガスのように漂い続ける。

エアバス社が今回の英断を援助して、東京の大使館が全面協力した。音楽家は、ハリボ社などによって用意されたお菓子や防止やバッチなどの子供たちへのお土産をいっぱい詰めたバスで福島へ、大船渡へ、渡町へ、仙台へと一路北に向かったのであった。

彼らによって、ベートヴェンの神への感謝やハイドン、そして日本で人気のドヴォルジャークの「アメリカ」などが演奏されたようだ。どんなにか素晴らしい音楽が奏でられたことだろうか。



参照:
Tag 5: Wataricho, Miyagi Prefecture,
Tag 4: Sendai, Miyagi Prefecture,
Tag 3: Kesennuma, Miyagi Prefecture,
Tag 2: Ofunato, Iwate Prefecture,
Tag 1: Kooriyama, Fukushima PrefectureLSQBlog
Musik in Trümmern, Christian Wildhagen, FAZ vom 27.6.2011
溶解したアンナのドタキャン 2011-06-04 | 女
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勝手に風呂敷を広げる面白さ

2011-03-09 | SNS・BLOG研究
BLOGは駄目だとか言われて久しい。なるほど新たな発見は少なくなってきているのかもしれないが、やはり興味深い話題が転がっていて、自らが考えていたこととリークするような記事が見つかることも少なくない。そのような記事を、ある程度の期間交流のあったような筆者のBLOGに発見すると、特に深く理解しているような気持ちになって拝読するのである。実際にその文章の主旨とか思索の深くまでは理解出来たかどうかは、こうしたテーマの定かでない散文形式のBLOGからは永遠に分からないものかもしれないが、それだからこそ、そこが面白いのである。これは実は後述することにも関わるのである。

先ずは、最近カムバックされた「かわうそ亭」さんから「自然が一番はウソなのか」の進行中の記事を読んだ。所謂、ブレインストーミング風に問題を提議されているのだが、どうしてもこちらは自らの興味に引かれてコメントを発してしまう。折角、「あんまり思索的に領域を広げすぎても収拾がとれなくなるので」と断り書きをされているのだが、呉服屋のおばさんのようにこちらは直ぐに大風呂敷を広げてしまうのである。

今週は丁度、環境政策や今後のその捉え方を合衆国の60年代の流れから再構築して行こうと目論んでいたので、改めて上の話題をネタに考察している。同時に、其処にも書き込んだように新たな情報が一般的な認識として受け入れられる過程が興味深い。特に情報化社会と呼ばれるような今日においても、コミュニケーションとして古典的な学術体系が受け継がれている。その歴史的な考察にはこれまた容易に触れられない。

しかしここ数日間で激しく議論されることとなったバイオ燃料エタノールをガソリンへ混入したE10基準とその実施についての大きな障害は、政治的、経済的、環境政策だけの問題ではなく、比較的複雑な全体像を把握することの困難性からの社会の認知力やコミュニケーション力の欠乏であることも分かる。

例えば連邦共和国の政治議論では、そのビオエタノール(ビオディーゼルでは既に経験済み)によって起きるかもしれない車両への被害に対応する経済的処置を伴う法的な規定や告知のあり方、また現在の経済相が自由党のビューダレ氏であることから、環境保護への取り組みと規制を取り払った自由主義経済原則の尊重が秤にかけられることになるのである。具体的には、環境相レットゲンの「反ガダフィーを支援するためのエコ燃料」発言や、穀物によるエネルギー補給であることからの食糧供給への不安や、自由市場原則無視への規制の強化など、環境政策へと強い関心を抱く社会においても必ずしも抵抗無く受け入れられる質の問題ではないことが明らかになっている。
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あれがヴヴゼラの響きか

2010-07-06 | SNS・BLOG研究
昨日の日曜日まで気がつかなかった。ヴヴゼラだったのだ。六月のワイン祭りの前から時々聞こえる喇叭の音があった。祭りの開催にワインプリンセスを迎えて、城の上で吹奏する練習かと思っていた。要するにちゃちな楽器の音出し練習と思っていたのだ。

それが厨房で洗いものをしているとまた同じような音がするので、そちらを覗くと五歳ぐらいの近所の女の子があれを手にもって振り回しているではないか。なるほどあれを吹いていたのである。思いがけず低い音が出ていたので全く想像もつかなかった。あんな単純な中国製のものであれだけの音が出るとは正直驚いた。

そう思っているとBLOG「あるホルン吹きによる音楽の部屋」でベルリンのコンツェルトハウス管弦楽団楽員の「演奏」が紹介されていた。
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陶酔の中で和声学を学ぶ

2010-06-13 | SNS・BLOG研究
新聞の文化欄は一人の音楽学者の死を伝えている。オペラ作曲家マンフレート・トローヤンのヴィーンでの先生でもあるディーテール・デラ・モッテ教授の死である。

記事によれば和声学の書物としてとても面白い読み物となっているようで、オルランド・ディ・ロッソーからメシアンへと、ヴィーンの古典派では通じても、なぜドュビシイーでは駄目なのか?基本和声からの緊張がカンデンツ構造としてモーツァルトで最も強く効果を発揮して、そうした音の関係は決して自然の掟ではなく、百二十年後にはその妥当性を失った理由を、音楽実践的に綴っているようだ。

そして、シューベルトの「粉引き小屋の少女」に捧げる、その喜びはどうしたものかと言えば、以下の節に表れるようなものらしい。ベッカーの小説の一部だろうか?

"Den Pfälzer Weinen, insbesondere dem Rhodter und Schweigener, in tiefer Ergebenheit"

つまり、泥酔のなかで、プフェルツァーヴァインに捧げるように、それもロートのそれやシュヴァイゲンのそれに捧げるようにである。ロートはランダウより北の南ワイン街道の小さな村で、フランスとの国境にあるシュヴァイゲンと言えば沈黙のことであるが、この文章の冒頭で、それでも献呈された家族はその執筆中に充分に気を使わなくてはいけなかっただろうことが触れられている。



参照:
Den Musen, Zum Tod des Musikologen Diether de la Motte, FAZ vom 10.6.2010
Für alle (madamedej)
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批判精神無しに何を語っても

2010-06-04 | SNS・BLOG研究
マルティン・ハイデカーは、1935年11月13日にフライブルクで翌年1月にはチューリッヒの大学で、「芸術作品の源泉」と題して、また「杣道」と題して1936年11月と12月にフランクフルトのゲーテハウスにて講演した導入に、次ぎのようなことを語っている。

芸術作品の源泉は、芸術家の行ないから生じるが、その芸術家はどうやって、どこからそれを導くか?その作品によって、芸術家は褒め称えられ、その作品によって芸術の親方として芸術が生じる。芸術家は作品の源泉であり、作品は芸術家の源泉である。そして、芸術によって芸術家と作品の不可分な存在が生じていることを述べている。

鶏が先か卵が先かの議論であるが、ここから多くの本質的な事柄が、存在論として論じられる。19世紀のドイツ理想主義とニッチェやキルケゴールの批判を通して、実存主義と新カント主義の勃興の中での哲学と説明される。

今週は共通の話題を扱っているBLOGも多く、流石に昨今流行りのツィッターでは述べきれない興味深い文章が多いので、久しぶりにBLOG研究を試みよう。先ずは、鳩山総理辞職を扱ったBLOG「雨をかわす踊り」から「No Progress」を読む。「相変わらず一億総批評家の国で、政治が変わるのは、政治家が変わることではないことが依然としてわからぬらしい。」と、「聞く耳を持たなくなった」とされる主体を批判する。

BLOG「妄想的音楽鑑賞とお天気写真」の「鳩山退陣に思う」には、「だから、なんであの時民主党に大勝をさせてしまったのか、私たちはよく反省をしないといけないのです。マスコミではないのです、マスコミのニュースをみてそういうところばかり喜ぶ私たちが反省すべきだと思うのです。」と明確に政治主体者の立場を批判して、「不気味なのが新聞もテレビも一斉に鳩山批判をしていると言うこと。これもおかしいでしょう。」とその商業ジャーナリズムの一面を容赦なく切り込む。

BLOG「アド ルノ的」の「ユキオ・ハトヤマの政権投げ出し」には、「欺瞞的な社民党のミズホ・フクシマ。ヒロインきどりでテレビ局をはしごして」と、その商業ジャーナリズムが喜ぶように振舞う政治家の姿と、それによって動かされる主体の危うさが語られる。

それとは反対に、一貫してその主体に「主権を渡すと日本が崩壊するという国家危機意識」が存在して、その第四の権力を標榜するマスメディアが本来なすべき「(エスタブリッシュ層である)パトロン自身を、倫理的・文化的・歴史的・論理的・客観的・実証的な意味での多様なレトリックの創意工夫とその駆使によって厳しく批判するとともに、彼らに<人間社会の真理の所在>を気づかせるように仕向けるのがジャーナリズムの役割」を果していないと、同じくエスタブリッシュ層である鳩山政権、特にまるでヒットラーの「我が闘争」を実践しているかのような小沢何某を「推定有罪」にしたと責めるのが、BLOG「toxandoriaの日記、アートと社会」の記事『推定有罪』で第一発見者・鳩山が退場宣告された『普天間移設に絡む』である。

これら様々な意見に共通しているのはジャーナリズムであり批判精神のあり方であろう。当然のことながらその批判精神の基礎となる前提である思考法が問題となっている。その欠如が、日本の二大政党制への信仰であり、それによって大衆低俗ジャーナリズムが経済的基礎を保とうとしたのであるが、それは同時にエスタブリッシュメント層を保持する理念の無い保守思想と理想主義がない混じりになった思考態度でしかないのである。

あまりに「主体思想」の話題のようになってしまったので目先を変えよう。先日から職人の技とその作品の成果として、ドイツのリースリングが大変に話題となった。まさにそこには、保守的な考え方である伝統と、その土台に立って何をなして行くべきか、もしくは何を批判していかなければいけないか、もしくはその審議眼と呼ばれるものが、本来あるべき玄人やジャーナリズムの本望であることが話題となった。

冒頭の哲学者の考察の取っ掛かりをそこに当てはめると、対象となるものは醸造されて出来上がったワインであり、そこに匠や親方がいて、出来上がったワインは只の嗜好品以上に殆ど芸術作品のように扱われて市場で評価されることもある。そして、そうした匠の技はやはり原料である自然の素材如何によってその真価を発揮することとなるのである。

そこには、素材があり、伝統という歴史があり、技がある。そして、遺伝子工学的に改良され、科学技術的に解析され、汎用技術化した工業生産の複製品が市場を駆逐している。しかし、本来は農業であり、工業化とは相容れない営みがあるからこそ、それだけの付加価値が伴うのである。

匠のなせる業は素材ゆえでもあり、素材ははじめて技によって価値を獲得する。それでは我々は何を対象とすれば良いのだろうか?こうした基礎的な考察無しに何を語っても始らない。それでもなにかを語るのはそこに商業があるからだけなのである。それを商業ジャーナリズムと呼ぶ。



参照:
高等文化のシンクタンク 2009-12-02 | 文学・思想
印象深い精神器質像 2009-11-20 | 雑感
退屈凌ぎに将来への新たな一歩 2010-05-31 | 試飲百景
閉塞のドイツワイン (モーゼルだより)
突っ込みどころ満載のヒネた1本
やはり経年変化の少ない酒質 (新・緑家のリースリング日記)
天才肌のワイン職人 (ドイツワインがいっぱいのブログ)
デュ ルクハイム (a diary of sociology)
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改訂コメンテーターリストIII

2010-01-31 | SNS・BLOG研究
承前)改訂コメンテーターリストII

2006年8月から2009年12月までの間(追加リスト)

ワイン大好き~ラブワインな日々~ ― 若いころはビールコップ一杯で赤くなっていた下戸ですが、今やとくにおいしいものならワインボトル一本あけるまで進化しました。ワインの秘密を探究していきたいです。


saarweineのワインに関してあれこれ ― このブログはドイツはモーゼル河の支流であるザール地域のワインをこよなく愛する男がワインに関して色々適当に書き込みします。


NEXT DREAM 記憶と記録 ― Ken Funahashi Blog


visionaer ― visionarの社長(柴犬・オス)とチーフたち(実務担当)の日常などをゆる~い感じで綴っています。肩の力を抜いてお楽しみ下さいませ。


あとりえ・チビッコ ― ★ ★ ★ 絵の中で遊ぼう、君はアーティスト ★ ★ ★      


Weiβwein Blog ― +++ テンカワのワイン日記 +++
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横流し商品は二度注文される?

2010-01-08 | SNS・BLOG研究
昨日の続きである。今日付けのネット情報に拠れば、ここに書いたことや独自で調査したことと同じこと以外に、倒産の場合31人の従業員が職を失うとある。ネットのフォールムには、既に解雇されたとあるが、常識的に考えて十二月最後の給料が支払えていたなら倒産しない筈である。

いずれにしても先払いで27日に注文したと言う人もぺイパルで支払いを戻したと言いい、個人会社のその社長は失踪しているらしい。

従業員だろうか信頼出来るインサイダー情報として、納入業者が押し寄せた時は既に倉庫は空っぽになっていたと伝えられている。これも未払い分の商品を債権者が強引に回収するのは通常のことなので信憑性がある。

恐らくその中の商品の二つを私が28日に注文して、一度は販売しようかと躊躇したような形跡がある。未支払い分の商品を販売して通常通り配達の手配をしなかったその理由は判らないが、様々な情報を総合すると次ぎのようになる。

クリマス前には信用の低下から消費者保護保険会社の認定が外された。ほぼ半年しかその保険に加盟していなかった事になるが、その直接の理由は納入業者との支払いなどの問題が顕著化して来たからだろう ― 消費者には今だに信用おける会社として惜しまれている。そして一月前まではネット販売での消費者保護を力説していたオーナーであると記されている。

そして、クリスマス前には潜在化していた従業員への給与の支払いや納入業者への支払いがクリスマス明けの28日月曜日に一挙に顕著化して来たに違いない。そして法人は当然の事ながら個人においても税金申告の関係から年末の駆け込み集金並びに需要があり、大晦日に掛けて深刻さが峻烈化して行ったのだろう。

そこでどのような躊躇があったかと想像すると、比較的良い売り上げの商品を信販で売ってもその代金はクレジットカード会社が支払う時点でもし口座が閉鎖されていると回収出来なることに気が付いた。そして、その時初めてその商品を同業者に横流しして現金化しようと考えたのではないか。たとえ小売値段の半額にしかならなくとも商品代未払いの商品を横流しして現金化出来れば、詐欺未遂で0セントよりも少なくとも逃走費用の足しになる。

そうこうしているうちに支払い不能が顕著化して、遅くとも年明けの四日には納入業者などが押し掛けたのだろう。そして、HPは閉鎖された。

本日偶々、どうもクリスマス明けに注文した商品が安く横流しされたようなオファーを見かけた。なるほど卸売り業者が未回収売上金の代わりに現物を倉庫から強引に回収したとすれば今度はその商品を他のディーラーに売るだけであるからそれほど安くはならない。しかし、業者間で叩き売りされて現金で格安に入荷したとしたら一般よりも安く放出されることもあるだろう。しかしそれも直ぐに引っ込められた様子から、債権者から未払いの商品として待ったが掛かったのかも知れない。

90年代から今日まで、最近はそれでも減ったが毎月のように東ドイツの新工場が倒産して、工業プラントから事務用品までの競売会のお知らせが送りつけられた。写真付きで見るそれらの生産機器は古びたものもあったが、まだまだ新品に近いものも良く目に付いた。

今回の会社は未だに倒産を申請していないが、事後の場合はよく見かけたが、取り付けや横流しなどの現場にネットを通じてとは言いながらもオンタイムで自ら体験出来るのは珍しい。
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不思議な言葉の文化的感覚

2009-12-01 | SNS・BLOG研究
言葉の不思議のようなものを感じることがある。それは文化体系が固有している記号論的な意味合いよりも、さらに具体的な生活感覚のようなものがそこに伴うからである。

Aufhoerenという動詞はやはり不思議なのだ。「止む」とか の意味で「始る」のAnfangenと対になる言葉である。ドイツ語の動詞は、幹となる動詞に接頭語がついて似通った動詞群を構成するが、この場合のHoerenの「聞く」の意味は止むの意味には一切関係ない筈である。WIKIにはそのものAufhorchenの「聞き耳を立てる」という言葉が挙げてあって、同じような危険な状況にあってぢちらかといえば消極的に耳を済まして環境を値踏みする行動である。それには、「じっとする」積極的な行為がその前に存在する。つまり止めるのである。

このようにみると如何にもゲルマン民族が狩猟民族で、自らの逸る鼓動を感じながら深い森で獲物の動きにじっと息を潜める雰囲気さえこの言葉が伝える。実際にそれがまたItなどの仮主語によって表現されるときに、使用言語がもつ文化的な意味に彩られるかもしれない。

そうような意味の相違は、モスクワで何十年振りかの「ヴォツェック」の新演出がドレスデンからの引っ越し公演とかで実現したというが、そもそもソヴィエトを代表する作曲家の一人シュスタコーヴィッチなどへの、その1927年のペテルスブルクにおけるこの作品のロシア初演が与えた影響が語られる時も、美学的な相違としてのそれが語られる。

作曲家アルバン・ベルクの弟子のアドルノが認めるように、ビュヒナーの創作自体が大変優れた十九世紀前半の自然科学者的な視線で描かれていると同時に、二十世紀前半を代表するオペラ作曲家ベルクのオペラ化でフロイト的な二十世紀の心理劇の光りが与えられた事は否定しようがない。なにも音楽の形式や調性の相対的な視座を持ち出すまでも無く、そこにおいて鋭く発声される台本の言葉の記号論的な意味につけられた音を受け取るだけで十分である。



参照:
雨がやみました (☆ ドイツに憧れて ~ in Japan ☆)
ヴォッツェック鑑賞 (ワイン大好き~ラブワインな日々~)
そのもののために輝く 2006-11-13 | 生活
瞳孔を開いて行間を読む 2006-10-22 | 音
印象の批判と表現の欠如 2006-03-11 | 文学・思想
意志に支配される形態 2006-01-05 | 音
ある靴職人の殺人事件 2006-01-04 | 文学・思想
コメント (3)
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RSSリーダーを新調する

2009-07-29 | SNS・BLOG研究
今まで使っていたRSSリーダーが壊れた。もともと日本語のブログをみるために最も古いヴァージョンを態々ダウンロードしてインストールしていたのだが、まともに機能した事など一度もなく、新しいヴァージョンになってからは日本語OSを使っていない限り字化けして全く使えない代物であった、

WEBにて使うGOOのものも何度試しても三百五十を越えるアドレスが一度も美味く登録されて動いた事はない。要するに使いものにならない。

さて今回も日本語の見出しなどが問題なく表示されるそれを探したが、ライヴドアのリーダーに落ち着いた。なによりも素晴らしいのは全く数を問題しないで登録できて尚且つ軽く作動することである。もちろん従来記憶していたそれをインポート出来るので何一つ苦労は要らない。そして見出しを新着順などで並び変えられる機能は、投稿された記事を見落とさないシステムとなっている。

そのように並び替えた場合、最も下に来るのは更新の止まっているブログであり、それまでは新旧の同一昨者のものが並べられていたのが、古いものと新しいものが何の関連もなくばらばらに並べ替えられる。中には見落としがちになっていたBLOGの更新に気がつく事もあってこれまた忘れていた旧友に遭うようでまた楽しい。

なによりも良いのが無料は当然の事ながら、情報漏れしても問題にならない登録内容だけでこれが使える事だろうか。現時点では煩わしい広告も殆ど気にならない。今まだBLOG専用のリーダーを使っていない人がいるならばこれは推奨できる。



参照:
鎖国ありえるデジタル界 2008-11-12 | 雑感
ウェッブ版RSSリーダー 2006-04-17 | BLOG研究
交通量増加と交通整理 2005-09-23 | アウトドーア・環境
更新リストとRSSリーダー 2005-07-22 | BLOG研究
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ヴェンチュル効果でぼこぼこ

2009-03-11 | SNS・BLOG研究
色々な人が色々な事を書いたり考えたりしているのは読むのは面白い。そこに営みがある。そしてそこに思いもしなかった事を遭遇するのが愉しい。

ワインの好みや嗜み方も人それぞれで、それだからこそ面白いのだ。BLOG「WEISS WEIN BLOG」にて、デキャンターの代わりに ぽ こ ぽ こ と瓶から注ぐ鴨の口状のものを使っていると言うワイン小話が語られる。

それを自分ではなぜか今まで使ったことがない。しかし、醸造所の試飲会ではなるほどそれが良く使われている。流体の力学に則ってくびれた部分で高速で流れ注がれて、急速な呼吸をすることでワインが開くと言うものである。所謂ヴェンチル効果を使っている。

それを見ていても今まで少しも気にならなかったのだが、なにも理論的に計算などしてみなくても、その条件にも依るだろうが十分に液体にストレスを与えることは直感的に理解出来る。

なにと比べるかと言えば、ワインの場合は瓶詰め作業におけるポンピングであろう。そこでどれぐらいの圧力が掛けられるかは知らないが、幾ら圧を落としても瓶詰めの後は数週間はワインシックになることは経験上知られている。

ワインを運送したりした場合も、あの位相がずれたステレオ効果のように発散・拡散してしまうのである。丁度人間が時差ぼけや長い移動で揺られた後に総ての感覚が焦点を結ばないあの感覚なのである。

さて、このワイン注ぎの長短は意外に語られていないようである。それはなぜなのか?一つには、試飲会で注がれるワインは新しいワインが多く、そうした短所があまり目立たないと言うことかも知れない。もう一つは、やはり家庭で熟れたワインにこれを常用している人は少ないのではないかということである。

私などは、試飲会ではけちけちしてあまり注がせないためにこれが使われていると未だに疑わない。実際鴨の嘴タイプでなく、細い上呂タイプもあるのだ。それなどは殆どさもしいとしか思わない。家で飲む時も同じで、手酌でごぼごぼと心置きなく注がなければ気がすまないのである。しかし、幾ら強靭なワインと言っても、やはり飲む前に出来るだけストレスを掛けたくないのが心情である。だからデキャンターと比べるどうしても抵抗がある。

しかしこんな事を愚だ愚だ述べるよりも、実証とまでは難しいことは言わないが、自ら瓶から直接に、またはデキャンタしてから、そしてぼこぼこと三種類を簡単に試してみて味見してみるのが最も正解である。全く差が出ないのか、それともワインによるのかなどなど、出来るだけ先入観無しに比較してみるのが良いだろう。



参照:
ふにゃふにゃしない加齢 2009-03-09 | ワイン
花園に包まれていたい 2008-03-04 | ワイン
月謝先払いする酔狂かな 2008-02-11 | ワイン
ワインの時の三位一体 2007-05-11 | 試飲百景
好みに主観は存在しない 2007-05-08 | 試飲百景
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真面目なスパムメール

2008-10-11 | SNS・BLOG研究
久々に真面目なスパムメールを受け取った。通常ならダウンロードする前に消去してしまうのだが、書き方からして本格的だから敢えて中身を見た。

予想通り、アタッチメントにおかしなデータが含まれていて、本文だけを速やかにコピーして消去した。

アドレスをみる以前に、見出しの「Security Update for OS Microsoft Windows」
自体が逆にスパムと分かるのだが、やはり引っかかる人はいるだろう。

Dear Microsoft Customer,

Please notice that Microsoft company has recently issued a Security Update for OS Microsoft Windows. The update applies to the following OS versions: Microsoft Windows 98, Microsoft Windows 2000, Microsoft Windows Millenium, Microsoft Windows XP, Microsoft Windows Vista.

Please notice, that present update applies to high-priority updates category. In order to help protect your computer against security threats and performance problems, we strongly recommend you to install this update.

Since public distribution of this Update through the official website http://www.microsoft.com would have result in efficient creation of a malicious software, we made a decision to issue an experimental private version of an update for all Microsoft Windows OS users.

As your computer is set to receive notifications when new updates are available, you have received this notice.

In order to start the update, please follow the step-by-step instruction:
1. Run the file, that you have received along with this message.
2. Carefully follow all the instructions you see on the screen.

If nothing changes after you have run the file, probably in the settings of your OS you have an indication to run all the updates at a background routine. In that case, at this point the upgrade of your OS will be finished.

We apologize for any inconvenience this back order may be causing you.


Thank you,

Steve Lipner
Director of Security Assurance
Microsoft Corp.


-----BEGIN PGP SIGNATURE-----
Version: PGP 7.1

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JUO0041537QNF8L0TLUMF20HHT8K4D6HZ0FWYV3T2XF8P5WZ51RA58FPTBOQSPW5C
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3PMWQAC3INOET2AMO98U9MSHXAZUZS3H34VILGCRL3YER7IO0X0NP2MXDQ53ZYS5T
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-----END PGP SIGNATURE-----

話は異なるが、-nifty.comでは以下のような表示が出て、「おまじない」を使っても、再び海外からはコメント出来なくなった。

コメントの検証、スパム・コメント防止のために、以下の画像の文字を入力してください。この防止機能は、スパムがおきやすい条件を、自動的に判断して表示しています。

逆にコメント保留している場合は検証が出ないので以前のようにコメントが出来ている。
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