Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

絵に画いた牡丹餅

2007-03-18 | SNS・BLOG研究
cocolog-nifty.comにて日本国以外からのコメントが禁止されたようなので、BLOG研究として二つの記事を読んでコメントとする。

先ずは、一度ここに批判したように日本食認定制度が頓挫した記事を扱った「ザ大衆食つまみぐい」さんの ― 硬直した官僚主義の末路「正しい日本食」 ― と題した文章である。「悪いジョーダンと受け流すわけにはいかないとおもうよ」が、私もここで書きたいことである。産業振興を文化振興として建前を繕ったところが悪質であり、「正しい文化」とされると批判せずにはいられない。それに対して、こうした切り口で調理出来ないジャーナリズムが存在するとすれば、そのようなものは無用である。不味いばかりか、一向に役に立たない。

さて、投稿記事でも多文化主義と正統性の問題としても捉えられているが、まさにこれはここ数年移民法との絡みでドイツ連邦共和国を揺るがした、各党が真剣に取り組む、大政治問題の一つなのである。行政を執り行うためには、先ずその正統性が点検されなければいけないが、尚のことそれが「正しい」文化を定義するのは至難の業である。十年以上経っても、正しい「ドイツ文化」の回答は生まれていなければ、必要ならば今後もこれは繰り返し問い返される。

驚いたことに、上の報道記事を読むと「評価にあたる民間組織は現地の料理研究家などで構成」などと執拗に発言している。産業振興ならばそのロビー活動をする業界が資金を持ち寄って普及活動して、尚且つもし必要ならば産業育成の公的援助をすれば良いのである。先ずは、なんら答申の必要が生じようか。

食文化の普及活動とするならば、判りやすく親切な 正 し い レシピーと写真等をデーターベース化してホームページで ― 既に海外向け広報誌には小まめに紹介されている ― 普及に務めるのが先決であろう。もともと、それに近いものを食していなければイメージなどは湧かないから、問題があるとされる点から片付ければ良い。

しかし、それを未だにミシュランの星制度の紛いものとして、文化振興として公的に議論されるのは、明らかに自由主義経済精神に反する。そうした認証システムが、商売になるか、それとも親会社の広告となるかの問題だけなのである。

蛇足ながら、こうした星制度を悪用して、調査と称する無銭飲食詐欺やマフィアが所場代を脅す手口も伝統的である。もちろん、誰も関心の無い星には、誰も一銭も出さないのであるけれど。

さて、もう少し文化行政に拘って、「文化芸術暴論」さんの「音楽と政治」と題した記事を読む。ここでは、「山田耕筰の音楽を通してのプロパガンダ」に、文化と行政の関係を考えている。まさにこれは、文化・音楽ジャーナリズムが為していないことをここに問うている。すなわち、「経済と文化は車の両輪のように作用し合う」とする経済論理に対して、永続性を正統性と主張する文化政策部会の見解報告があり、それに疑問を投げ掛けて、尚且つ文化政策の根本とされる「市場原理だけに委ねることが出来ない文化振興」のための助成金のあり方に ― 既に定まっているかに見える文化的価値観に ―、違和感を表明している。

記事のこのあたりを少しでも読むと気が付くのだが、文化行政が、全く文化受容者にとって異質なものどころか、評論家によってすらマスメディアで議論がされていないことが知らされる。そしていよいよ、助成しなければいけない文化とは何かの議論となってくるが、「商業的にも価値がなく伝統ともなっていない文化が西洋文化である」と定義されると、あまりにもそのお粗末な百年以上に及ぶ歴史のある文化行政に驚愕するしかない。一体、膨大な公共資金を使って、つまらないお遊びに投資していることか?何処が経済と両輪となっているのだろう?

ここにおいても文化行政を具体例を以って考えてきたが、繰り返すが、専門家であろうが学者であろうが容易に解答が出せる問題で無いからこそ、平素から議論を繰り返して下から上へと合意されて行くようなものでなければいけない。それを民主主義と呼ぶのである。商業マスメディアが、不要な三面記事を止めて「文化」を記事に出来るように、それらに助成しなければいけないと言うのだろうか?

最後に、正統的な本物の芸術の価値は何処にあるかとするヴァルター・ベンヤミンの有名な問いかけは、産業化された文化市場には複製品が大量供給されると言う意味合いからは存在しないことになる。なぜならば近くて遠く、遠くて近いものにこそオーラがあるからだ。ブランド化されて、大量消費されるものに価値を認めるのは容易くない、手の届く任意の近さにあるからだ。

要するに本物は、伝統的に継承された手技で以って拵えられなければいけないとなるが、一体全体そうしたものが、仮に存在したとしても、想像されるファーストフード紛いの日本食に存在する訳がなくて、権威を持った正統性はそもそもこうした産業振興策とは端から相容れないのである。

再び、文芸一般にこれを当てはめると、批判出来ない権威がどこかに存在しているとすると、これを伝統として積み重ね、そこから学んでいくことすら不可能である。そうしたものに与えられた ― まるで広告で生じた様な ― 仮想の権威は、極東で売買され、先ほども中共政府によって品質不良品として廃棄された、極東向きに大量 複 製 された 本 物 の 欧州ブランド商品と変わらないのである。

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