Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

檻に吹きこむ隙間風

2006-10-23 | 歴史・時事
先日、十歳のころ強制収容所に収監されていた方の話しを聞いた。日系アメリカ人二世である。第二次世界大戦中に米国で収監された日系人である。

親戚に日系人が居り、その一世は戦時中はやはり収監されていたことを聞き及んでいるので、非常に興味深かった。現在その二世も高齢ながら健在である。本人は、態々旧制中学から戦前の日本の教育を受けたので、収監の経験が無い所謂「帰米」日系人である。

そのような訳で、目の前に収監された日系人がいたのは不思議であった。その実態や歴史的事実に付いては膨大なネット内の資料に譲るが、貴重な肉声だけを記録する。

氏の父親は、日系一世で牧師であったと云う。そして、日本の支配下にあった満州で布教活動していた。故に本人も満州生まれと云う。日本軍の侵攻で戦況が厳しくなってきた時にロスァンジェルスに帰米した。そのとき既に子供ながら、「なんか、嫌な感じ」の周りの白い目を感じたと云う。そうした、市内のユダヤ人などの、現在はラテン系人が、多く住む地区での生活であった。強制収容所に収監されるようになるのは、1942年6月のミッドウェー海戦の大日本帝国海軍の敗戦と云う。

これによって自暴自棄のテロ破壊工作が予期されたとする。しかし、実際に決死隊と称してカミカゼが登場するのはまだ先のことであるようだ。

氏は、十歳の少年であったので、その時の体験を克明に覚えているようだ。思いのほか情動的な記憶であるのを見て驚いた。それでも、「檻の中にいて、下の隙間から風が吹き込んできて…、…外で遊ぶ同じ年頃の子供達を見て、羨ましかった。」という証言だけで、それ以上何を聞く必要があるだろうか。

近年になって初めてなされた合衆国による謝罪による保障を訊ねると、「一人、二万ダラーの保証など、家族揃って投げ返してやった。」と怒りを表していた。

確かに財産の没収などまで含めるととてもではなく、額が合わない。前述した親戚の一世も没収の憂き目にもあったようだが、戦後直ぐに復帰で来たように伝え聞いた覚えがある。その二世の兄弟の弟はそのまま日本に残り退官後も医学畠で生涯を終え、兄の方は医師として戦後直ぐに帰米する。帰米の司法手続きや医師免許の書き換えなどと色々と苦労もあったようだ。現在高齢ながら南カリフォルニアで悠々自適の生活を送っている。2001年9月11日、末息子の嫁の故郷であるコルマーを訪れた際、シュヴァルツヴァルトへと案内した。

日系人の強制収監は、イエローペルと呼ばれる人種問題として扱われることも多いが、それに視点を合わせるとより重要な様相が視界から消えてしまう。上述の証人が以前話していた米442部隊の活躍などは、現在でも同様にイラク・アフガニスタン等で進行形で行われている米軍の行為であって、そこに特異性は見出せない。そしてこの証人は、ベルリン閉鎖の折り、米軍救援隊の軍属として渡欧してドイツに住みつく事になった。氏の云うように米442部隊が第二次世界大戦の末期にヴァイマールのブッヘンヴァルト収容所を解放したことは歴史の奇異な巡り合わせである。



参照:
苔生した貴腐葡萄の苦汁 [ 試飲百景 ] / 2006-10-21
ヒロシマの生き残り [ 暦 ] / 2005-08-06
在京ポーランド系ユダヤ [ 雑感 ] / 2006-10-08
美しい国は何処に? [ 雑感 ] / 2006-10-01

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