日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

小さな旅でも天草を!

2013-09-15 15:01:11 | 小、中、高、大という時

2月に娘を連れて沖縄に行き、聖クララ教会でのコンサートを鑑賞、神父さんとともに簡単な挨拶をしたりした。沖縄の建築巡りをした後、建築家真喜志好一さんと国場幸房さんにヒヤリング。
5月の連休に房総半島・水郷の里に一泊、6月には3泊4日で北海道、倉本龍彦さんにニセコの「ばあちゃんち」を案内してもらって小樽に泊まった。翌朝札幌市大で院生に授業を、7月は名古屋の愛知芸大の委員会のあと大阪で一泊、竹原義二さんに会う。
その一週間後に、福岡―長崎―天草に出かけて、鮎川透さんと中村享一さんに面談、天草・下田では小学生時代の友人たちと一献傾けた。そして9月の3日の愛知芸大新音楽棟の落成式典に参加、名古屋に一泊して帰京と言った按配で、今年の9ヶ月間を過ごしてきた。

この旅のどれもが2013年の僕の痕跡として書き留め置きたくなるが、ことに天草市天草町下田北となった嘗て村だったときの「下田北小学校」がこの3月に閉校されたことにショックを受けた。過疎化である。

同級生山崎一視君の妹がやっている旅館で寝転んでぼんやりと嘗ての村のさまなど考えていたが、呼び出されて宴会席にゆく。
この前の下田行きは、5年前の5月だったので、久し振りとはいえなんだか馴染みの連中。でも中村健人は入院、吉田豊子も体調いまいちの様子で欠席、野口は法事で福岡に行っていてちょっと寂しいが、富岡港まで迎えに来てくれた吉田和正が釣ったという大きなイサキの刺身がでんと卓上にあり、ホウ!と思わず唸ってしまった。挨拶は一視。「皆様ようこそお集まり下さいまして」などと格式ばった言い方をするので思わずニヤリとしてしまう。

そして乾杯したビールを飲みながら、母国の廃校を聞いたのだ。<8月4日の記述と重なるが書いておきたい>

この地域の5校が閉鎖、隣村だった高浜に新校舎をつくりそこへ統合されたという。僕は昭和21年(1946年)の暮れにこの小学校に転校したが、過疎とはいえ200人を超える生徒がいたのだ。半農半漁という産業形態、唯一天草で温泉が出る下田北なのだが、ここでは生活ができないのかもしれない。

床屋をやっている末吉君から、雪江さん(雪江と数十年思っていたら、幸枝だった)きた葉書を見せてもらった。8月の半ばに皆に会いたいので下田に行く、と言うものだ。なんと千葉県(房総方面)に住んでいる。幸枝さんは3年生か4年生になった頃に転校していった丸顔の可愛い頭のいい子だった。どうだった?と和正君に電話をしたら、普通のオバチャン。思わず笑ってしまったが、わが身を思いまあそうだろうと和正と合意。だが、様々な地域活動をしているようだ。それもそうだろうと記憶にある数十年前を想い起こしている。

TVでは、海外の村やまちを巡り、地に根付いて生活する人たちを紹介するドキュメントが大流行だが、下田での僕の友人たちの生活を考えると、ささやかな年金を貰いながら欲張りもせずに生活を楽しんでいることに気がついた。和正君と一視君は、苓北町にある苓洋高等学校(水産学校)に入学し、卒業後、世界を股にして活躍したこともあるのだ。シドニーに行き、ウヲッツンのオペラハウスも見てきたと言われると唸るしかない。さて俺は!と考えるのである。



<写真下段 和正君と一視君の母校の舟>