日々・from an architect

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<時代をリードした建築>モダニズム建築の多様性を撮る

2010-10-20 16:44:04 | 建築・風景

JIA(日本建築家協会)関東甲信越支部のイベント「アーキテクツ・ガーデン」で、「時代をリードした建築」と題する`建築家写真倶楽部`の写真展を行います。
日時は11月1日(月)~5日(金)、場所はINAX銀座7階。地下鉄銀座線「京橋」駅のすぐ近くです。部会長を担っていますので、会場に展示する解説のような一文を書きました。ちょっと長くなりましたがお読みください。
-写真が文章に負けていないか、それが問題! 是非お立ち寄りくださいー


「時代をリードした建築」があり、それをつくった建築家がいる。建築家が時代の一翼を担い、時代が建築家を生んだ。その建築を「建築家写真倶楽部」の面々が撮った。日本橋高島屋からスタートして主要なモダニズム建築、そして青山のプラダに至ったその一端を見ていただきたい。

1920年代、ヨーロッパにバウハウスが誕生し、コルビュジエが活躍を始め、日本では堀口捨巳、山田守や石本喜久治等によって分離派宣言がなされた。
産業形態が変わって安価で良質な建材が大量生産され、それまでの国の威信や企業のステータスのための建築ではなく、市民に目を向け、技術の革新を受け入れて装飾を排して抽象的な美意識に支えられた建築が生み出されるようになった。世がモダニズムに向ったのである。

1919年、帝国ホテルを建てるライトの弟子として来日したアントニン・レーモンドは、1921年に東京女子大学のキャンパス計画を行い、24年より校舎群を建てた。故郷チェコのキュビズムやライトの影響がまだ残っていて魅せられるが、同じく24年にコンクリート(RC)打ち放しの自邸を建てる。モダニズムへのトライである。その相克がチャペルのRC打ち放しによる円柱に見て取れる。

第2次大戦がおきた。日本の多くの都市が破壊され時代が変わった。コルビュジエに学び、パリ万博の日本館で建築部門のグランプリを得た坂倉準三は、戦後間もない1951年、インターナショナルスタイルの典型、白い箱といわれる神奈川県立近代美術館を鎌倉に建てた。
だが人はこの建築のどこかに日本建築の伝統を感じるのである。日本のモダニズム建築独自の魅力を見ることができるのだ。

高度成長期の50年代、レーモンドに師事した前川國男や吉村順三が建築を世に問い、丹下健三が広島ピースセンターを建てる。村野藤吾がいて白井晟一がいた。菊竹清訓がスカイハウスで住宅の多様性を世に示し、東京オリンピックを迎えた。1964年だ。このオリンピックの一連の建築で多彩な日本の建築を世界に伝えることになった。
ラージファーム(組織事務所)が都市構成に力を注ぎ、パレスサイドビルをつくった林昌二が活躍する。

同時期にメタポリズムの思潮が生じる。そしてチャールス・ジェンクスの著書「ポスト・モダニズムの建築言語」によって明快になった建築の変遷。その兆しは1970年の大阪万博にあった。日本の建築界の転機となった。
だが、槇文彦は「私はモダニストです」と述べ、代官山ヒルサイドテラスをつくり続け、アガ・カーンの建築にトライし世界の建築界を率いる。

モダニズムの潮流の中でつくってきたのではないと述べる建築家もいる。モダニズムの捉え方は多様なのだ。母の家「反住器」を建てた毛綱毅曠がいた。毅曠は亡くなったが母は毅曠の姉に支えられて反住器で生活している。
27歳で幻庵をつくった石山修武は、三十数年を経てブノンペンに建てた「ひろしまハウス」で、幻庵に追いつき越え得たかもしれないと言う。建築に生涯をかける建築家の軌跡を感じ取れるコメントだ。

青山にプラダが生まれ、時代が拡がる。
建築には様々な物語があるが、さて我々はその多様な物語の一端を撮り得ているだろうか!

<写真、広島ピースセンター>、


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2 コメント

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楽しみですね! (moro)
2010-10-21 11:38:18
と言いつつ、大学院での御講義を無理やりお願いしてしまい、申し訳ございません。オープニングが見れないのですね。(汗っ!)
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ぬくぬくと札幌へ! (penkou)
2010-10-25 19:46:24
morosan
実は会場展示設定が11月1日の午前中になりました。結構設置作業が大変なのですよ。皆に申し訳ないのですが僕はぬくぬくと札幌へ!
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