日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

未完の夢 僕のアンビルト「蓼科の家」

2010-03-13 13:57:12 | 建築・風景

建築家は誰しも、心残りなアンビルト建築(建たなかった建築)をもっている。
コンペ落選案もあるし、社会状況の急変やクライアントの意向によって中止になったり、例えば姉歯事件によって法体制が変わり、建てにくくなって中断せざるを得なくなったのもある。

また建築や都市思潮を表明するためにアンビルト(建てない)を前提として描いた提案があった。丹下健三の東京計画1960、菊竹清訓の塔状都市や海上都市、黒川紀章の農村都市計画。これらの多くは1960年前後から70年代、時代が動きメタボリズム運動が登場した時代だ。
世界の建築界を動かしたあの`ル・コルビジュエ`にもソビエトパレス(1931年)のコンペ落選案があり、建築展を開催したときに好奇心を刺激された企画者が、CGでその建築案を画像化させて評判になった。

都庁のコンペに参加した建築家磯崎新は、DOCOMOMO100選展のシンポジウムで、アンビルトこそ、つまりその提案こそその建築家の真髄を捉えることができる、建っている建築を選定するだけではなく、アンビルト建築に目を向けなくては社会に建築の存在を伝える意味がないと、磯崎流の刺激的な言葉を吐いた。都庁コンペ時に磯崎の師、丹下健三を意識してコンペ要綱に反した低層案をだした磯崎らしい言い方だ。それも建築界の軌跡だし、確かにその時代の一面を現している。

建てようとした僕の「蓼科の家」は、一建築家である僕の建築家人生の一齣でしかないのだが、現在(いま)では到底通えなくなっただろうと思い、建てなくてよかったと思う半面、その図面を見ると建ててみたかったとも思うのである。

時代は例のバブル期の末期だった。別荘ブーム的な世相があり蓼科に別荘を持っている仲のいい建築家からは、蓼科は冬だ、あの凍てつくような寒さ、地面が凍ってカチカチになる冬を味わうのは得もいえない面白さだと云われて夢を見た。
所員を車に載せて高低測量に行った。下草を掻き分けながらレベルを採り、テープを引っ張りながら多少の高低のある唐松林の中にどう建築を配置するかと思いを膨らませるのは楽しかった。

計画案に暗室があるのは写真にこだわっていたからだ。アナログの時代、モノクロで人を撮っていた。ささやかなギャラリーを設けたのは僕の写真だけではなく、親しい写真家の作品展示もしたかったのだ。
この建築は、多分僕たち家族だけで使うのではなく、妻君の兄弟の家族や自然が好きな沢山の友人たちが楽しんで使うだろうと思った。小さかった娘を自然に触れさせたい。そしてこれからの時代は、ネット社会になって東京にいなくてもPCをここにおいて仕事のやり取りが出来ることになるという風説(今にして思えば)があって、それも新しい時代のあり方だと思った。

ところが時を経てもそうはならなかった。人と人との面と向かうコミュニケーシュンなくては、人間社会での信頼関係が築けないということがわかった。建築をつくる行為は正しくそうなのだ。
今では僕自身信じられないが、バブル期にはこなしきれないくらい仕事があり、スタッフが欲しいと思ってもきてくれる若者がいなかった。この蓼科の家は、仕事に追われ建てる気持ちの余裕がなくなり、資金的にも厳しくなって期を逸した。そして僕もいつの間にか歳を取った。

まあそんなことだが、「蓼科の家」だけでなく応募して落ちた僕の幾つかのコンペ案を見ると、現地を見に行った様子やそのときの呻吟して、だけど想いを馳せてスケッチした様が思い浮かぶ。アンビルト「蓼科の家」からは若かった僕の建築感が読みとれて楽しいものだ。実験住宅でもあった。
頭にあったのは、二川幸夫さんの「GA HAOUSES」6号に掲載されているF・O・GEHRYの自邸だった。現在のGEHRYの活躍には驚くが、その萌芽がこの自邸から読みとれる。壁下地の貫を現したまま意匠にしたり、曲面は無いものの木材による複雑な空間構成を実験的に試み、金網を張り巡らしたりしている。
僕は建築家だから、その内部空間や材料の質感が読みとれ、GEHRYの自邸からも、蓼科の家からも、人の交わす声、風の響きが聞こえてくるのだ。

蓼科の家でも自邸だから出来る様々な試みをしようと思っていた。歳を取り、時代が変わっても僕の夢見る建築空間は変わらないのだと図面を見て改めておもう。
このGA  HAOUSES6号はオフィスではなく7号の「C・MOORE」の特集号と共に僕の家の書棚に収まっている。この2冊と「シーランチ」が僕の建築観を揺るがしたのだが、ページをめくるとモダニズム建築の空間構成に魅かれる僕自身、いまでも思わずニヤリとしたくなるのだ。

未完の夢。未完だからこそ見える夢があるのだ。