棟方志功が「絶大な写業という大世界の中にあった瞬時、絶対の私に一期一会がここに再貌され」「大原總一郎氏のいわゆる`ホントウノムナカタ`が濱田益水の写業によって生就されつくされた」と言う驚くべきメッセージを巻頭に書いた 『写真 棟方志功』(講談社刊1972年9月30日)をみている。
写真集のタイトルはそっけないし、奥付のどこにも講談社写真部に所属していた写真家濱田益水の名前が無いが、ハードカバーの表紙をめくると、志功の眼や眼鏡をさり気なくレイアウトした倭絵に、筆で「濱田益水作 棟方志功の業貌」と書かれた中表紙が現れる。
出版社に所属し、社業として撮影に取り組んだが、それをはるかに越えた益水氏に対する志功の心使いが見て取れる。
板画を生み出す志功の息を呑むような詳細な連続写真「版下」「彫る」、「摺る」、「彩色」、そして「署名・捺印」。カラーで現れる作品は「加寿良穂の柵」。
文化勲章を受章し、皇居に向う日の朝の自宅、勲章を胸にした皇居での晴れがましい姿、自宅に戻って嬉しそうなチヤ夫人に勲章をかける姿や家族や友人に囲まれた志功御夫妻。園遊会で昭和天皇、皇后と談笑している志功と撮られた廻りの人たちの笑顔をみると、あの青森弁のほとばしり出る志功の口調とそれを支えるチヤ夫人の声が聞こえてくる。
僕が建てた鎌倉の自宅の居間でお茶を飲む志功の持っている茶碗は、ぼくも好きだった黒高麗だ。
この写真集の面白いのは、昭和47年5月19日、朝起床するところから風呂に入った後、STEINWAY & SONSの鍵にちょっと触れ、眠りにつく志功の一日を追いかけていることだ。ご夫妻の姿は若き日の僕がふれたそのままだが、写真家にサービスしているようにも思え、いまみるとちょっとわずらわしい。日常の姿は、そっとしまっておきたいような気もするのだ。
この写真集の撮り方はその時代の正統派ドキユメントの手法だといえるが、現在(いま)にして思う、いやむしろ膨らんでいく棟方志功の不思議さをこの捉え方では解明できないのだと思った。とはいえ後に板画美術館を建てた庭の芝生に紐を張って範囲をきめ、その日の雑草を丹念に取るチヤ夫人の姿が写し撮られていて、数十年前が一編に蘇っても来るのだ。そういう集積が志功なのか?いやそうでもあるまい。
「ねぶた」祭りの志功がいる。跳ねる志功もいるが、ねぶたから離れて立ち尽くす後姿が撮られられている。
松本清帳と裏表に収録してあるレコードで「ねぶた」を語る志功の声が写真を見ていると聞こえてくる。祭りが終わると冬になるというその寂寞をとつとつと述べるが、その北の国の祭りの後の少しずつ消えていくざわめきや鐘の音が途切れ、かすかに吹いて来る冬の風の気配を感じるのだ。厳しい自然と人が生きていく上で欠かせないのが祭り(祀り)なのだ。
この頂いたレコードでの志功の呟きが、いつの間にか僕が自然と人とのかかわりを考えるときの原点になっていることを思う。
この写真集はインド訪問で終わる。
何となくぷっつんと閉じる不思議な構成だ。お金を出してあげるから一緒にインドに往かないかとチヤ夫人が誘ってくださったことを想う。1972年だったから38年も前の、往けなかった無念さもあって多分生涯忘れ得ない一言になった。