日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

都市を考える 鈴木博之の世界(2)

2009-11-15 13:01:39 | 建築・風景

開東閣は明治33年(1890年)J・コンドルの設計によって建てられた。岩崎小弥太男爵の住まいから昭和13年三菱財閥の迎賓館となり、戦災で内部を焼失したこの建築を昭和39年(1964)修復した以降同じく三菱の迎賓館的な使われ方がなされている。

この建築の好きな鈴木博之教授は、ご自分の東大退職記念のパーティをここでやりたいと望んだと司会の伊藤毅教授が述べたとき、同じく岩崎小弥太の冬の別邸として建てられた熱海の陽和洞(設計・中条精一郎)を一緒に訪れたときのことを思い出した。タウトの設計した日向邸を案内した後陽和洞を訪ねたのだ。

当時日向邸を所有していた日本カーバイド工業のOさんの好意によって小人数ならと見学をさせていただいたのに、鈴木教授が大勢のゼミの学生や海外からの研究員を引き連れて現れたので唖然とした。
だが学生たちの目が好奇心に輝いているのを見たOさんの笑顔にホッとしたものだ。そのときの院生が九州の大学に就任してこのレセプションの最後に花束の贈呈をした。うれしそうな鈴木教授の笑顔と誇らしげな彼女の姿が微笑ましい。

室内を歩きながら、この陽和洞が日本の邸宅のなかで一番いいと思うのだがどうだろう?と問いかけられた。うーん!と生返事をすると、駄目?と顔を覗き込まれたので困った。幾つかのこの手の邸宅の姿が浮かんだが僕には答えるに足る知識とその魅力を味わった体験が不足している。
この陽和洞の作庭が小川治兵衛(植治)なのだ。鈴木教授は日本の近代化の象徴として小川治兵衛をとりあげる(近代建築論講義第7回「伝統」より)。

小川治兵衛は`象徴としての庭`を建築が装飾を消滅させて近代化へ向ったことと同じ視点で`自然主義的な庭園`(石は単に石であるというような)をつくり上げたが、鈴木博之はそれを「地霊(ゲニウス・ロキ)に結びつけながら土地の所有者の変遷に目を向け、伊藤毅が論破した「孤高の都市論」を展開するのだ。この都市論は説得力がある。

松山巌はその原点は鈴木博之の家系が幕臣だという出自にあるという。そして「地霊」というコトバのイメージが`土地の神様`と思われてしまうことになりかねないが、ゲニウス・ロキはもう少し緩昧な概念であると同時に「その土地の持つ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素も含まれている」と述べる。

僕は土地を考えるときに、例えば沖縄の「御獄(うたき)」のように、集落(コミニュティ)が一つの御獄を中心として構成されており、現在にあってもその仕組みに代わりがないことに注目したいと思ってしまう。「地霊」というコトバから僕はそれを紐解きたいと思うのだが、鈴木博之はそうではない本流に目を向ける。

日本の近代都市を考察するときに、初田亨元工学院大学教授の銀座の変遷を読み解く事例`勧工場を取り上げた「東京 都市の明治」にふれなくてはいけないように、鈴木博之の「都市論」を抜きにして、日本の都市を語れないのではないかとも思うのだ。 
前項でも述べたが、この「近代建築論講義」が必読書だと考えるのは、その鈴木博之の思考の原点が読みとれるからだ。ゲニウス・ロキのバックには、このレセプションの冒頭の挨拶で石山修が面白おかしく鈴木博之論を語った一説、昼にソクラテスを論じ、夜に泉鏡花を読みふける鈴木博之の好奇心とその問題意識を理解しなくてはいけないだろう。

何年前のことだったか良く覚えていないが、僕の事務所を訪れた鈴木教授が、本棚の「正岡容(いるる)集覧(仮面社1976)」を見つけて、ホー!と眼を輝かせた。講談の面白さとその解読にのめりこんでいた僕に、大正から昭和の寄席場やその時代の市井の様を理解するときにこの本は欠かせないと、親しい講談評論家が出入りの古書店から取り寄せてくれたのだ。僕がと鈴木教授も驚いたようだが、この本にまず目を向けた鈴木教授に僕も驚いたことなど、この一文を書いていてなんとなく懐かしく思い起こしている。

<ちなみに開東閣も陽和洞も非公開>