日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

四国建築旅(10)撮らえ得ない内藤廣の牧野富太郎記念館

2009-11-22 12:08:59 | 建築・風景

稀代の植物学者牧野富太郎の名を知らない人はいないだろう。
でも明治維新(大政奉還)の5年前、まだ寺子屋のあった時代に生まれ、小学校を中退したものの後に東大で教鞭をとり、学位をとり(理学博士)学士院会員に推挙され文化勲章を受章したと知ると、おやっと思うと同時に一気にその足跡が思い浮かぶのではないだろうか。といって僕の中に「牧野富太郎」の名が刻み込まれたのは、内藤廣の設計した記念館の写真を建築誌(GAなどで)で見たときからだ。
2000年の初頭(竣工は1999年)、ほぼ10年前のことになる。

高知市五台山の樹木のなかに白い亜鉛ステンレス複合版による微妙なカーブによる円を描いた屋根が浮かび上がり、米松の集成材による梁や屋根勾配を見せる地元の杉材下地板、それを支えているスチールパイプとコンクリート打ち放しの壁柱、あえて付け加えれば、ウッドデッキなどの姿が眼に焼きついてしまったのだ。

だが、カメラを手にしてそのどれをも眼にしながら戸惑った。植物園の中にあるこの建築は、四角い建築の中に円を描いた中庭のある本館と、円に囲まれた展示館の2棟を渡り廊下でつないであるが、全貌は無論捉え切れないし、撮るポイントも見出せない。

ふと写真家下村純一さんがぼやいていた一文を思い出した。アールトの写真を撮ろうと思ったときのことだ。「正面がない。ここという箇所がない」。
でもこの建築にふれると人は生きていることが嬉しくなる。そうなんだと思った。そしてそのアールトの建築とは趣が違うのだが内藤廣が言っていたことも思い出した。
「数年後には建物は樹木に囲まれやまのなかに姿を消していく。周辺と一帯となって内部空間と中庭という構成だけが残ることになる」。
散文詩のようなこの一文は正しく内藤廣。全貌を撮らえ得ない建築をつくったのだ。

この記念館は牧野富太郎が発見して名をつけた多くの植物や、土佐の高知の樹林に包み込まれている。内藤が考え試みた建築の姿をいま僕たちは眼にしている。
何故ギクシャクとした円を使ったのか。それが内藤のこの場所の自然観で建築は自然との対話なのだ。本館の□。それは自然との対峙。
「フォレスト益子」では宿泊棟とパブリックスペースを緩やかなカーブで対面させ、プロジェクトを周囲の自然と対話させた。島根県芸術文化センターではその土地の赤い石州瓦を使ったが□で構成した。

僕がこの記念館を訪れて心打たれたのは、本館に設えられた牧野富太郎記念室の書斎の有様だ。
壮年時代の見識に充ちた風貌の写真を見た後、書斎を復元して書物に埋もれた牧野富太郎翁の姿をみると、この姿を伝えるためにこの建築があるのだと思った。思わず立ち尽くしてしみじみと牧野博士の足跡を思った。この建築は牧野富太郎の記念館なのだ。当たり前なのだけど・・・