日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

「音楽の現在」 サントリーホール サマーフェスティバル2009にて

2009-09-30 10:52:15 | 日々・音楽・BOOK

ふとテレビのチャンネルを回したら、庄司沙矢香がジョルジ・リゲティのヴァイオリン協奏曲を演奏していた。スリリングな演奏で、深夜にもかかわらず眼が離せなくなり最後まで聴いてしまった。彼女の全身で演奏に打ち込む様も魅力的だったが、現代音楽特有の奏法とその新鮮な響きに好奇心が刺激されたのだ。
その後NHKの「トップランナー」で、そのときの練習風景が映し出された。指揮者と奏者で奏法の確認をしている様子を見ると、プロだから何度もそういう機会を得ているのだろうが、学んできた教科書にない音楽に挑む喜びが彼らにもあるような気がした。

8月25日のサントリー大ホールはほぼ満席、こんなに現代音楽に惹かれる人がいるのかと驚いた。
「音楽の現在」と題した演奏会は、4曲とも日本初演だ。管弦楽は東京交響楽団、指揮をしたのは沼尻竜典。サマーフェスティバル2009のワンセッションだが、プログラムによると、1990年のブザンソン指揮者コンクールで優勝した経歴もあり、現代作品を含む意欲的なプログラムと演奏で評価が高いとある。
この日演奏された4曲の作曲者を僕は誰一人知らないのだが、どの作品も意欲的で聞いていて現代音楽の面白さを堪能することになった。

サルバトーレ・シャリーノの「リコーダーとオーケストラのための4つのアダージョ」、オーガスタ・リード・トーマス「ヴァイオリン協奏曲<楽園の曲芸師>」、ルーク・ベッドフォード「オーケストラのための<花輪>」そしてペーター・エトベシュの「2台のピアノとオーケストラのための協奏曲」である。

それぞれに白石美雪氏の解説や作曲家からのメッセージが記載されているが、音楽の専門用語に関しては僕にはなかなか理解できないものの、作曲者のやろうとした意図はわかる。
しかし白石氏の`「かつて一度も聴いたことのない」音空間が立ち上がる体験は希少だ`と述べる一言に「確かに」と納得したが、続く「<音楽の現在>という窓からのぞく現代性は、逆説的にそういう状況の反映となっている」との一節にもうなずいてしまう。魅力的でもう一度聴きたいと思っても再演奏される機会も少ないだろうし、CD化もなかなかされないだろうから。

僕はルーク・ベッドフォードの<花輪>に魅かれた。プログラムに僕の走り書きがある。いつものことながら自分で書いたのにちゃんと読みとれないが、文字を追っていくとあのとき受けた刺激が蘇る。
「管がゆったりとリズムとメロディを流していくバックに、不協和音を交えながら弦が厚みのある音を重ねてゆき、2回の高揚した`わめき`で盛り上げる指揮者と東響の響きに打たれる」。

ルーク・ベッドフォードは4人の中で一番若い31歳。白石さんは、イギリスの若手に共通する早々に老成してしまいそうな危うさを感じると書いているが、それだけこの曲の完成度が高いといえるのではないだろうか。

「現代音楽」というコトバを聞くと「実験」というコトバか裏腹にあるような気がする。例えばジョン・ケージの弦にボルトをかませて響かなくなった音を「置いていく」ような試み、つまり実験が現代音楽だというイメージが僕にはこびりついているのだ。
1960年代初期の、刺激を受けたジョン・ケージ、オノ・ヨーコや武満徹等のパフォーマンスのイメージがまだ残っているのだ。

しかしこの日に聴いた4曲は全て完成度が高かった。<花輪>の不協和音も実験ではなかった。
僕を誘って招待券を用意してくれたSさんが、<花輪>の演奏が終わった後「これは再演にたえるなあ」と感じいったような一言を漏らした。
僕の感性もまんざら棄てたものではない。

建築家の僕は、建築の『現在性』を考える。「音楽の現在」は、正しく素直に音楽の現在なのだと思った。