日々・from an architect

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四国建築旅(6) 師と弟子と建築・香川県庁舎と坂出人工土地(Ⅰ)

2009-09-13 12:09:27 | 建築・風景

丹下健三の設計した旧東京都庁舎が気になっていた。この建築が建てられたのは1957年。僕が明大の建築学科に入学したのは58年だから前年に完成していたことになる。
日本の都市に勢い良くモダニズム建築が建てられるようになった時代、学校で学ぶ建築の教材(実例)として胸を躍らせた。
卒業後、大学時代の仲の好かった同級生が都庁にいたので良く出かけた。執務室の天井が低く、室内は書類が山済みになって窮屈だったし、外壁を構成したスチール製の格子壁が傷んで修復費が大変だと報道されたが、コンクリート打ち放しのシャープな造形や、岡本太郎の壁画とのコラボレートは新鮮で魅せられた。

しかし、解体されるとき建築界では誰も保存についての発言をしなかったし、設計した丹下健三自身が壊してもいいのだと言ったなどと取りざたされたりした。
新宿に都庁移転が決まり、コンペだが新庁舎を設計するチャンスがあるとは言うものの、何故だ?

今年(2009)の5月に建築家会館の企画によって発刊された大谷幸夫さんの`建築は誰のために`と副題がつけられた「建築家の原点」(建築ジャーナル刊)で、丹下の弟子大谷幸夫は旧東京都庁について興味深い報告をしている。
「僕は失敗から多くのことを学びました」という一言から、建築技術が貧困で、丹下さんの意図は理解していたが、課題に対応できず都庁は全部成功したわけではないと述べる。建築はいろんな部分の支えでできているが「部分の真実」が獲得できなかった。

僕は都庁の1年後に竣工した香川県庁舎(1958)の中を歩きながら、この大谷さんのこの一節を考えていた。丹下健三は1912年生まれだからこのときは47歳。大谷さんは世代交代、つまり優れた人材に場を与えることを意識して1960年に丹下さんの元を離れるが香川県庁舎には関わらなかった。

この建築は地元の画家猪熊弦一郎が丹下を金子知事に推薦することによって生まれた。都庁の経験を踏まえて設計がスタートしたが、1階ホールの猪熊弦一郎の大胆な壁画とコンクリート打ち放しの架構による空間構成の完成度は高く、中を歩く人の動きにもゆとりが生まれている。建築界ではこの時代の丹下の作品(香川県庁舎を含めた)を中心として伝統論争が起きたが、その回答がここにあると言いたくなった。

ふとこんなことを思った。
イチローが時代を築いて名を残したいといった。不遜とは思わない。僕はイチローをTVで見ていると、人がつくる「歴史」の現場を見ているのだと感慨を覚える。人の可能性に胸が躍る。
ジャック・ニクラウスを見ているときも、スライスの名手ローズウォール(僕が好きだったテニスプレイヤー)、亡くなったF1のアイルトン・セナの走りを見ているときにも感じたことだ。

時代を築いた丹下健三に`時代を築いて名を残そう`という意図はなかったのだろうか。完成度の低い都庁舎を壊してもいいといったのは、過去をみるのではなく新庁舎に目を向けたいという意だろうか。香川県庁舎を味わいながら釈然としない西新宿に建つ都庁舎が瞼に浮かぶ。
藤森照信さんの著した「丹下健三」に、過去のことを繰り返すのはやめよう、これからのことを話そうと、インタビューの時いつも言われたという一文がある・・・丹下健三晩年の話だ。

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