日々・from an architect

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四国建築旅(7) 笑顔が返ってきた  香川県庁舎と坂出人工土地(Ⅱ)

2009-09-22 11:06:58 | 建築・風景

「坂出人口土地」は前川國男の弟子、大高正人によって1962年から68年にかけて4000坪の土地を再開発した人工都市である。香川県坂出市の駅から三分程度の市の中心地をコンクリートによって宙に浮いた人工土地をつくり住居や商店を構築したのだ。

坂出市は現在は人口約65000人、瀬戸内海に面し、瀬戸大橋の四国の玄関口になる地方都市である。この地域は、かつての塩業を基幹産業としていた頃に塩田従業者のだった。密集している木造住宅群が老朽化していて環境整備が望まれていた。再開発計画を委嘱された大高正人は、人工土地計画を提案して受け入れられたのだ。

60年安保の時代、丹下健三は東京湾に人口土地をつくる「東京計画・1960」を提案し、大高と同時期に東大に学んだ丹下の弟子大谷幸夫は1960年、大高と同様の人口土地コンセプトによる「麹町計画」を発表している。
その大谷は前述した「建築家の原点」で興味深いことを述べている。
「丹下先生の`東京計画`は・・人間が海上に移動するというテーマで・・ある意味で東京一極集中の肯定論でしたが、前川國男先生は、なかなか乗らなかったですね」。
前川は丹下と同じように戦後の日本の建築を率いた建築家だが、都市への視線、つまり人と建築を見る眼が違うのかもしれない。大高はその前川の弟子なのだ。

大谷幸夫は1946年に東大建築学科を卒業して大学院に進みそのまま丹下研究室に在籍したが、大高正人は大学に残らず、大学院を終了した年に前川設計事務所に入所した。1949年だった。
坂出人口土地プロジェクトは、大高が独立した1961年から始まった。デビュー作といってもいいのだろうか。38歳の大高正人だ。若い。
住居を組み合わせる建築計画とはいえ、小都市を構築する人工土地計画からスタートできたのが、時代というものを考えさせられる。

僕がいま(現在)感慨を覚えるのは、今の時代と比して1960年代の社会が「建築家」に寄せる信頼と期待だ。モダニズムの時代、「私はモダニストです」そして「私は闘わない建築家なのです」と述べる槇文彦へのいまの社会からの信頼と重なるのではないかと僕はふと思ったりする。

人口土地は、約4000坪の土地に一階に駐車場や商店、倉庫などを入れることを前提として地上に6メートルから9メートル持ち上げたコンクリートによる人工地盤をつくった。そこに市民ホールをつくり、平屋から4階建ての二戸を一組とした100戸のアパートを組み合わせて建てた。
住居を持ち上げることによって光と空気を取り入れるという発想は大谷幸夫の麹町計画に通じるが、大高は人口土地の下一階に地元の建築家によって自由に商店などを構築して欲しいと考えた。

建てられてから50年近くになりその成果は?そして土のない人口土地での住まいとは?というのが僕の見学目的だった。
しかし当然のことだが1時間ほどの通りすがりの旅ではつかみきれない。でも感じ考えたことは伝えたい。

この人口土地は周辺のまち並に埋没している。言い方をかえるとまち並に馴染んでいるともいえる。発表当時の写真を見ると、木造2階建ての瓦葺きの周辺の家屋の様が写し撮られている。50年を経たが、道路に面する部分はコンクリートに建て換わっているが高層化されておらず、その情景があまり変わっていないからかもしれない。
一階の駐車場に車を入れたが暗い。光を入れる筒状の開口が人工地盤にあって樹木が植えられているが、駐車場にはほとんど光が届かない。

周辺の道から見ると人工地盤が構築されたとは一見思えない。ちょっと気になったのは人口土地の下部が周辺に開かれていないことだ。開かなくてはいけないとは言い切れないが何故開放感がないのだろうと思った。土地の建築家の問題か?プロジェクト自体に起因するのかは判断できない。

さて気になっていた住居群。
人工土地(地盤)自体に一層の高低差があり、変化に富んだ建築群構成がされているがさて・・朝から夕方までの光が動き、季節による太陽の高さによる変化を感じ取れるかもしれないとは思った。
大地ではなくコンクリート地盤に住まう生活はどうなのだろうなどと思いながら、藤本さんと二人でカメラを持って恐る恐る人の住む空間に踏み込んだ。
出会う人やバルコニーから僕たちを見下ろす人に挨拶した。そして挨拶を返してくれる人々の笑顔に僕たちはホッとしていた。

<写真 住居群の中にある小さなお宮と駅に向かうメイン道路から見る人口土地・道路の向かい側の1階店舗にもシャッターが下りていたのが気になった>