日々・from an architect

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何が起きているのか、建築確認システムの「性悪説」による改訂

2007-09-29 17:23:20 | 建築・風景

止むに止まれない思いで、下記文章を書いてから3ヶ月が過ぎた。建築確認システムの改訂は、いまだに大きな問題を抱えている。建築雑誌日経アーキテクチュアでも、つい最近この問題を取り上げた。国の定めた法律だから、おかしいと思っても当面対応しなくてはいけない。大手の設計事務所やゼネコンでも、其の対策に大童の様子が伝えられている。

この基準法改訂の最大の問題は、人は信頼できないとする性悪感だ。国交省担当官は、人間を信頼できないという。そういわれると、僕たちはそういう国交省担当官を信頼できないと言い返したくなる。
「性悪説」。今の社会を象徴していると事態だと暗然とするが、とても危険な認識だ。そういう状況把握・認識で豊かな社会ができるわけがない。
・・長くなるが読んでいただきたい・・

<3ヶ月前の僕のメモ>
ほぼ一ヶ月前になる6月20日、東京建築士会の主催による「建築確認システム改訂(建築基準法の改訂)」の講習会に行った。地下鉄大江戸線の勝鬨駅から近い、第一生命ホールという2000人を超す人が入れる大ホールだ。
この講習会は3回行われたが、受講希望者が絶えないので、数回の追加開催をすることにしたという。それだけ建築界の関心が高いともいえるし、皆どうなっているのかと戸惑っているのだ。
申込みのとき僕の事務所にいるM君が、2,3日前に民間検査機関の今回の改定説明会に行ったが、担当官が、改訂の見解や手続きがまだ整備されていないので対応できないと困っていたので、受講するのはなるべく遅いほうがいいと言う。そこで受講日は最終回にした。

ところが、講習会の東京都の実際に確認審査を行う担当官である講師は、国交省から毎日のように変更した通達がでるので、対応に困惑していると言う話しに終始した。
分厚い基準法改定の資料があるが、補足資料として昨日国交省から来たという通達が配布された。これもまた改定されるかもしれない。改定されたものは国交省のHPに記載されるので、毎日チェックしてほしいと言う。構造計算を行い、提出された計算書をチェックする国交省認定のソフトもまだできていないと言う。
この改定が施行されたのは、講習会の行われた6月20日なのにこの有様だ。一体何が起こっているのか。

今回の改訂が「姉歯事件」に端を発しているのは論を待たないだろう。人の安全に関わることなので無碍(むげ)には言い切れないが、振り返ってみると、国政や国交省等の行政関係者の慌てふためく有様は見るに耐えなかった。
その結果が性善説から性悪説への転換になった。つまり建築家や民間の建築関係者は信頼できないので、法規制を作り直して役所の監視を厳しくすると言う。言い換えれば役所が責任を負わなくてもすむシステムに、建築基準法を急いでつくり変えたのだと皮肉をいいたくなるのだ。
しかし時間を与えられないので、そういう上からの指示にうまく対処できないのだ。行政の上に政界がある。姉歯事件に対して、専門家ではない政治家のたどたどしい言い訳と恫喝に、不安を覚えたのもつい最近のことだ。
役人は僕たち建築に関わる「民間人」を信頼できないというが、僕たちもそういう「役人に不信感」を持つ。不幸な事態だ。

僕たち建築家は、実務作業をやる中で、役所のシステムのなかに秀でた役人がいることも、著しく無能な、つまり建築の現場を知らない役人のいることも知っている。役人の法の解釈が人によってまちまちであることもよく知っている。
同時に建築がつくられていく仕組みや、物をつくる喜びや、つくられたものが社会の中に果たす役割や、その功罪をしっかりと受け止めている建築家や施工関係者がいて、多くのクライアントや市民に信頼され、一緒に建築や街をつくっていることも知っている。今度の性悪説への改定は、市民の安全のためというお題目はあるものの、建築界だけでなく、皮肉なことにそういう市民をも信頼できないものとして扱うことになりそうだ。

僕のブログにコメントを下さるEMさんは、建築家として民間の検査機関に協力しているが、つい最近のコメントでも、施行から一月経った今も、依然として今回の改訂法の統一見解や手法の整備がされておらず、関係者に迷惑をかけていると困惑されている。
先に述べたが法の解釈は、役人にとっても僕たち実務者にとってもまちまちだ。建築基準法は国の定める法律なのだが、つくったのも人だし、解釈は人のすることだ。

かつて僕は渋谷区や新潟市の建築主事とやり取りし、今まで行われていた法の解釈を替えさせたことがある。だって多数の県や区がOKしている解釈が、ここでは違うと言われても納得できない。僕も困るが、クライアントだって困るからだ。
「新潟の建築の形がこれから変わるなあ」と主事がつぶやいた。ちょっと僕は得意になったが、同時に不安を覚えたことを思い出した。

こういうことがあるから僕は、危ないと思うと、事前に役所と法の解釈の相談をしてきた。無論多数の建築家がやってきたことだろう。しかし今回の改訂では、その事前相談を受け付けないという役所が大半だ。何故なのかよくわからないが(事前相談でOKしたことが申請時に間違っていたとトラブル事を恐れているのではないだろうね。まさかね!)。
とするとこの法律が実質的に稼動され始めたら、大きな社会問題になることは間違いない。こういうこともあるという。建築の現場での、おさまりや仕上げの変更も認めないというのだ。適法であっても。建築というものと、現場をわかっていない台詞だ。
この事件 (事件といいたくなる) は、いずれも僕たち建築家の問題だけでなく、建築を建てる人(クライアント)つまり市民の抱える問題でもあるのだ。

<建築基準法という法律>
EMさんは、建築基準法は「法律」として著しくバランスの崩れた末期的症状を呈しており、技術、工学的な面や確認許可手続き、都市計画法や景観法など他の法律との整備を行い、抜本的な見直しを行わないと、これからの世代に引き継げないのではないかと危惧する。僕もそのとおりだと思う。消防法などとの整合性にも眼を向けるべきだ。
更に僕が言いたいのは、建築基準法は基本的には新築工事に対しての法律であって、建てた建築の存続についての視点に欠けている。これからの都市や社会の在り方における建築の存在を考えるときに、考えなくてはいけない大きな課題だ。
今回の基準法改訂を、僕は国交省の言うように「改正」とは言いたくない。明らかに「改悪」だ。

建築をつくるのは楽しい。大切な行為だ。今回の法改正がどのような仕組みで行われたのかよくわからないが、建築が生み出されていく現場を知らない役人の、机上の論理で改正作業がなされたとしか思えない。数は多くはないが(当たり前だ)民間人や其の組織が処罰されたが、問題を起こした役所が処罰された例は聞かない。いつものこととは云え、どうもうっとうしい。
建築は、そしてその集合体でもある都市は市民のものだ。それをつくる建築家や建築界を信頼し得ない法のつくり方はどこか歪んでいる。
このうっとうしい梅雨空のように、やりきれない思いがしてくる。

<さて今>
梅雨はあけたが湿気のある暑い日の続いていた9月21日、神戸市の新条例報道がなされた。
「建築物安全確認」の為に、市の職員が、「民間検査機関」の検査に、立会い権限を持たせるというものだ。
民間検査機関が信頼できないので、役人が立ち会うということらしい。この民間検査機関というシステムをつくったのはそういう役人ではないか。それなら何故設置認可をしたのだろう。

不信が不信を呼ぶ。背筋が寒くなる事態だ。
安部元首相が「私が決める」と絶叫したとき、僕はあなたに任せたくはないし、任せた覚えはないと言いたくなった。僕は役人に、建築を任せたくない。安全という、それが市民のためというお題目で、街が壊される、つまり文化としての建築が失われていく。
人が、人の為につくる建築や街(都市)が、性悪説でいいと本当に思っているのだろうか。恐ろしい時代になった。

<写真 講習会会場>