生まれた日のことを母も書いている。
「元気な産声をあげよく泣いたが、産湯に入ってからはよく寝る。夜中に二度ネエヤにおむつをかへてもらう。二日目の夜から私がかへる。二日目うまい砂糖湯を少し飲む。夕方の三度目位に私の乳房にすひつく。」
そして`初の歯`の欄に、「ずーとまえから下あごに白いところが見えていたが、いよいよ出てきた。左側2本。別に熱も出ない。おっぱいをのます時、歯がさわってこそばゆい様ような痛さを感じる」と。生まれてからおおよそ7ヶ月目だ。
この育児日誌には、上旬、中旬、下旬という三項目に仕切られている一月目の記事から十二月目の記事という頁が設けられており、僕が笑ったり、飲んだり、寝むったり起きたり、熱を出したり、おしっこがよく出て安心したとか、はいはいについて「教へもしないのに、だんだんとおぼへていく」とか、母の流れるような文字でびっしりと書かきこまれている。
その全てから若い母の好奇心が滲み出てくる。自分のことなのに母の思いだけに眼が行ってしまう。
この記事によると僕は、よく笑い、よく寝て、なんとも?かわいかったようだ。
三ヶ月目の上旬、「紘一郎をだいてお外に行って他所の人にほめてもらう。ああいい顔をしているなんて云われると、とてもうれしい」。4月29日、親戚の駒込にゆく。丹波さんの凱旋祝いなのだとある。凱旋とはなんの、どこから?と思うがそこでもかわいいとほめてもらう。
下旬には阿佐ヶ谷に行き辰っちゃんが帰ってきていてあやしたところ大きな声で笑ったようで「俺の顔がそんなにおかしいか」なんてみんなで大笑い。
6月には父の弟と一緒に4人で国立にある父の母校に行った。下宿のおばさんとか学生時代の知り合いの家に行くが皆僕が父似でかわいい赤ちゃんだという。帰りに井の頭公園に行くが、僕が重くて父もへとへとになったそうだ。
四谷に`喜よし`という寄席があって連れて行ったところ、声色の芸人が変な声を出すので泣き出して困ったなんて書いてある。あちこち僕を連れて行ったようだが、寄席が好きだったのだ。まだ寄席もあったのだ。
水泳の選手として長崎の僕のおば(父の妹)が神宮プールへ来た。自由行動が取れる日に新宿の伊勢丹にお土産を買いにゆき「店員が可あいい可あいいとて抱いて大さわぎ、本当に可あいい子は、赤ん坊の時からとくだ」とある。
そういえば紘一郎は小さいときはかわいかったのよ!と写真を見ながらよく母に言われたものだ。小さいときは、というのが問題だけど、当時の百貨店の有様も窺えて興味深い。太平洋?戦争開戦間近なのに人の情が細やかだ。
しかし、七ヶ月目の9月5日の記述には「防空演習中、家庭防火班で紘一郎をおんぶして出る。バケツを運んだり避難したり。紘一郎は背中でねてしまった」とある。
既に国では空襲を受けることを予測していたのだろうか。
銭湯に行った。
「お風呂に行って主人が洗ってしまうまで、紘一郎をだいて待っていて、ガラス戸のむこうに主人の姿が見えると、体中で喜ぶ。もうどんなに大勢の人の中でも、お父ちゃまは、見つけられるらしい」。こうせつの神田川っぽい。11ヶ月目のことだ。