日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(5) 馬橋三丁目 浦島太郎みたいだね

2006-07-11 10:46:30 | 生きること

僕が生まれたのは、東京都杉並区の馬橋三丁目。JR中央線の阿佐ヶ谷駅と高円寺駅の間の普通の住宅の建っている、山の手ではなくといって下町ともいえない普通の街だ。
昭和20年1月に千葉県の柏に疎開するまでここにいた。
「吾が児の生立」にはところどころに写真の頁があり、29頁に家屋のわかる写真が貼ってある。
初節句だ。小さくてよくわからないが、2階で僕をおんぶして立っているのが母だ。二間と一間半もある二尾の大きな鯉のぼり。長崎の実家から贈られた。
「お父ちゃまと智おじちゃまで鯉のぼりの棒を立てて鯉のぼりを上げる。紘一郎は知らずによく寝ていたが、お隣の子供や近所の子どもが大騒ぎ。風をいっぱいにはらんで大空におよいでいる」。

2階の南側に物干し場のあった木造2階建ての長屋。
この一階の押入れの中で一升瓶に入れた米を棒でつっついて精米をした記憶がある。そのザクザクとした手触りや匂いまでもほんの微かだが僕のどこかにある。空襲警報が鳴ると電灯の光が表に洩れないようにカーテンをひいて、それでも用心のために押入れに入ったのだろうか。いやカーテンがなかったのか。たどる記憶はあやふやだ。

3年前のことになるが、JIA建築家写真倶楽部のイベントで、かつて撮った(或いは写っている)街並みの写真をアルバムから探し出して、現在の様子と並べて展示し、時の移り変わりを考えてみる写真展を企画した。
僕は60年後の馬橋三丁目を歩いてみようと思い立った。空襲で焼けてしまった街を。

<記憶って何だ>
というのはそのときの、展示した写真の説明文のタイトルだ。僕はこう書いた。
『杉並区役所住居表示係に調べに行って愕然とした。
僕の生まれたのは、新宿から荻窪に向かって線路の右側だとばかり思っていた旧馬橋3丁目は左側だった。阿佐ヶ谷北口の近くに、石目ガラスの入った白い扉の伯父の家があって、よく遊びに行ったが線路を渡った記憶はない。でも父に抱っこされ、父の弟(叔父)と一緒に踏み切りを渡っている写真がある。

考えているとなんだかおかしくなってきた。戦後長崎の父の実家に引き取られて昭和21年の暮れ祖父が陶石の事業をやっていた天草に渡り、中学2年の時柏の伯父の会社の社宅に僕達一家は戻った。しばらくして母と馬橋を訪ねてみたが、その時も家の在った場所がわからなかった。
僕の生まれた家は杉並区立第六小学校の近くだ。ドイツ下見風の木造校舎をバックにして校庭で父とブランコに載っている写真が残っている。その近辺を歩いて町のおばちゃん達に当時の様子を聞いてみた。

誰も覚えておらず、浦島太郎みたいだね!とからかわれた。
・生まれた場所がわからない!・
地面に足がついていないようななんとも変な感じだ』

家の斜め向かいには、微かな記憶だが尾関医院があった。
「種痘の日」の母の字。
「昭和16年2月25日。身体も健康で暖かでもあったので、午後だいて近くの尾関医院につれてゆく」ちょっと痛そうで顔をしかめたが別に泣かず五日目に熱っぽくなったが、別に痒がらず機嫌もよろしいとある。
結構僕はいい子ではないか。

さて杉並第六小学校を訪ねてみたが、鉄筋コンクリートの校舎では記憶が戻らない。本当にこの近くに木造二階建ての長屋があったのか。尾関医院が在ったといってくれた人もいなかった。

でも僕にはこの育児日誌がある。