日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(6) 兄になった

2006-07-22 14:08:17 | 生きること

声をかけると目を開いた。僕を見て微かに微笑んだような気がした。指先を同行した愛妻に向けると母は目をそちらに向ける。
この前来たときは眼を開けなかったし、先週の土曜日に妻と娘が訪ねたときには、眼を開けたものの反応がなかったと二人は不安げだった。
看護婦さんが二人できて、動かしますよと言いながらよいしょっと手を差し込んで向きを変える。床ずれを起こさないための手当てだ。それが彼女たちの仕事とはいえありがたい。
「にっこり笑うんですよ、可愛いんだ」という。そういう二人は若くて明るく、母にも増して可愛い。
40分ほど居てまたくるね!と手を振ると、声が出ないが母は微かに手を振り返えしてくれた。思わずこみ上げてくるものがあって去りがたくなった。

まだ元気なとき、母はぼくの家と弟のところに数ヶ月ごとに行き来していた。僕のうち(家)の母の部屋をいつ帰ってきてもいいようにそのままにしてある。
介護を受けることになり、弟は自分が面倒を見るという。彼にも家族があるので大変だと思ったが、弟に委ねることにした。下町っ子の彼の奥さんも受け入れてくれる。

我が愛妻に言わせると、血液型が母と同じ僕と妹は母によく似ているという。性格が。
その一つは多分、状況に素直に自分を委ねてしまうことだ。僕は置かれた状況に眼を配り、面倒見のよいのが僕の特質だと思っているのだが、それは本人がそう思っているだけで、マイペースの面倒見のよさ、愛妻もそう言うし、弟からはいつもそれで苦労させられると文句を言われている。
しかし父や母や僕たち兄弟の人生は、言い換えると置かれた状況は今の若者には思いもよらない特異なものだと思うが、僕も母もその時代の日本の多くの人々に与えられた普通のものだと思い、僕の家族だけが受けた特別な状況だとは思ってこなかった。

母の愚痴を聞いたことがない。まだ及ばない僕は、よくぼやきはするが愚痴は言わない。母と僕はその状況を受け入れてしまうのだ。受け入れざるを得ないとも言えるのだが。
だから出来るときに出来ることを当たり前にやる、意識しようとしまいとやることをやろうとするのかもしれない。

弟はどうも理屈っぽい。同じ血を引いているので僕にもその気はあるが、いっぺん言ってしまうと僕はどうでも好くなる。でも弟はなかなか、そうではないのだ。納得できないものは納得できないし納得してもらいたい。らしい!
明治が負けて早稲田が勝つと得意げに自慢し、明治は10年追いつけないなどという。他愛のないラグビーの話だ。
僕だって母校のふがいなさにがっくり来ているのに、何度もそう言われるとね!納得しろといわれたって・・・
僕だったら早稲田が負けても弟に気を使って、いや、でもね、来年はいいかも!なんていってしまうのに。でもまあこの辺りが絶妙のコンビネーネーッション。兄弟ってそういうものか。だから僕は素直に母を弟に委ねるのだ。まだ若い姪たちにも気を使いながら。
そこにはやはり底の所での共有認識・価値観があるのだろう。

その弟が昭和17年に生まれた。僕が二歳になるころだ。
前年の昭和16年(1941年)11月26日、日本は真珠湾攻撃を仕掛けて泥沼の戦争に入るが、この「吾が児の生立」にはその記述がない。

母の字でこう書いている。
「紘一郎がお兄様になった日。夜中の三時頃に生まれたので、隣室で寝ていた紘一郎は、赤ん坊の泣き声で目をさましてびっくり。手伝いの女中が、23日目位に帰ってからは、急におとなしくなり、お母ちゃまの用事の間は、ブーブー(自動車)の絵をかいて遊んでいる。赤ん坊が泣くと、「庸ちゃん、泣いちゃだめよ」なんていって玩具を枕元においてやっている」

三ヵ月後
「お兄ちゃまになって、うば車に乗ってもすみの方に小さくなっているし、つい云うことをきかないとおこってしまう。考えるとまだ三つだもの、かあいそうにといつもあとで、かあいそうになってしまう。本当にごめんなさいね」
三つと言ったって満二歳、当時は数え年で言うのだった。

<写真・昭和15年新宿にて。左から智叔父、父と僕、母。 叔父もおしゃれだが、父と母の着物姿が格好良い。僕は後ろ向きだが好きな写真だ>