「東京は卒業だ」というテレビコマーシャルに魅かれる。民家の縁先に立つ、多分還暦になった男のシルエットの向こうに、風の吹き抜ける沖縄の碧に映える海が映しだされる。下部にテロップで東京は卒業だと文字が浮かぶのだ。
そうだ卒業だと思いながら還暦をはるかに過ぎたとは言え、僕にはまだそれは許されないとも思う。
しかし病院のBEDで眠っている92歳になる母を見ていると、やっと卒業して今のんびりと休めるように成ったのだとしみじみと感慨を覚える。昨日愛妻と一緒に病室に赴いた一時間ほどの間には、とうとう眼を開けなかった。ゆっくり寝るのもいいと思う。ゆっくり休んでほしいと思う。
母のいた和室の小さな仏壇の上に父の写真が掛かっている。戦後、長崎の父の実家に僕達家族は引き取られたが、僕の小さいときは父にそっくりだと3人の子どもたちの中で長男の僕だけが叔母たちに可愛がられた。それは嬉しい反面辛いことでもあった。
若き日の父は僕よりずっとハンサムで聡明な面影を、粒子の粗い写真からも漂わせている。これは子が父を想う贔屓目なのかもしれないが写真を見ながら愛妻は、お父さんも年を取るとあなたのようになったのかね!と髯が白くなった僕を笑わせる。
その父は、僕が生まれたときの「吾児の生立」という三省堂の日記の「父として」という欄にこう書き残している。
「遂に父となった。父となってみて始めて私の父のことを思う。父が私を此れまで育ててくれた恩を思う。そして母の恩も。父は高等の教育も出ずして私を商大(今の一橋大学)に出してくれた。
それも何回も入試に失敗した私を、多分生活の苦しい中から大学まで卒業させてくれた。」
そして僕をどんなことがあっても大学までやりたい、と書く。そしてそれは難しい気がするといい、会社に勤務してみて帝大を卒業していないのをと嘆いている。当時の社会の様相が垣間見える。更に父としての責任は重い。うんと働いて勉強して心置きなく大学にやりたいと重ねて記す。
その父に、僕が満四歳になった昭和19年3月17日の夜、召集令状がきた。
3月20日の日記に母はこう記す。
「11時、お父ちゃま、23日の佐賀聯隊入隊のため出発なさる。永久の別れになるかも知れぬ。お別れ、元気で紘一郎は佐様奈良という」
自分には子供はいませんが、親は無条件に子に愛を注ぐ、子供の為になることを考える。そんな存在と信じているのです。(が、最近ニュースを見て心が痛むことが多すぎます。)