どうも気になって仕方がなかった展覧会に足を運ぶことが出来た。最終日の3日前。「時間の終わり」という妙に心を打つタイトルの、写真家杉本博司の回顧展である。
杉本は1948年生まれの57歳、バリバリの現役なので回顧展というのには早いのだが、単に写真家というだけでなく世界で高く評価される美術作家としてのまとまった作品紹介がされるのは初めてなので、回顧展と銘打つのもうなずける。
写真雑誌や作品集で印刷された写真を見て気になっていたのは、海の水平線をただ撮っただけの「海景」シリーズ。それがなぜ作品になるのか。
それと建築が関わる2つのシリーズである。
一つは映画の上映中カメラを据え放しにして撮り、スクリーンが真っ白になったアメリカの古い映画館を撮った「劇場シリーズ」。それによく知っている建築をあえてピンボケで撮った「建築」シリーズ。
いずれの写真も「建築の面影」が写し撮られているが、微妙な濃淡をかもし出すディテールが気になっていた。これらの写真は印刷ではわからないのではないかとずっと思っていたのだ。
これは正しくそうで、大きくプリントされた写真展示を視た後は、カタログや作品集を手に入れる気持ちがなくなってしまった。
プロの写真家は基本的に印刷を頭に入れて機材も選び撮影をする。だが杉本はそうではなさそうだ。そこが多分写真を超えた存在として注目されるのだろうが、同時に写真とは何かという常に僕自身に問いかけている悩ましい課題を、改めて突きつけられたような気もする。
僕はどうしても1950年代のロバート・フランクやウイリアム・クライン、日本では60年代から70年にかけての東松照明、プロボーグ時代の森山大道や中平卓馬あたりから写真を考え、そしてそこに戻ってしまうのだが、杉本の写真を見るとやはりそれだけが写真ではないのだという思いと、写真とタブローとの関係を考えてみたくなる。
しかし終わってしまった展覧会を論じてもさほど意味があるとは思えないので、それは別の機会に考えることにして、杉本の写真の建築に関わる二つだけを書いておきたい。
一つは、ネガかプリントか、という問題だ。
田町にあるインターナショナルギャラリーのディレクター山崎信さんによると、プリントこそが作品で、ネガの存在は気にしないという。
これは写真アーカイブをどう考えるかという根底に関わる大きな問題で、彼はプリントされた作品、たとえば所蔵している石元泰博のシカゴシリーズも、プリントされた作品を劣化させないように保存していくことこそが何より大切で、中性紙による保存の箱や収蔵の際、プリント面に宛がう紙、展示のときの照明やガラスの材質(アクリルも)などに腐心している。
僕は何処かにネガさえあれば、つまりネガを劣化させないように保存していくのがアーカイブだという思いが抜けきれないのだ。写真を作品と見るか、記録と考えるかという課題にも関連した問題ではあるのだが。
建築界では、図面や資料のアーカイブが大きな課題である。同時に当然建築写真のアーカイブも緊急課題なのだが、何の手当てもされていないのが現状なのだ。
さて杉本博司はどう考えているのか。アサヒカメラの2005年12月号で大竹昭子との対談でこの展覧会について語っているが、それを紐解きながら考えてみたい。あの水平線の淡くもあり光も感じられる黒の絞まりは、実はネガにかかっているのだという。
「完全なネガが出来ればプリントはやさしい」
しかし、あのモノトーンの色調をどうやれば生み出せるのか、僕も暗室にこもって苦心するのでわからないでもないのだが、話に聞くその杉本のネガ創りは想像に絶する。
詳細は記すこともないだろうが、しかし展示作品プリントの素晴らしさを視ると、とてもとてもネガさえよければ簡単にプリントできるとは思えなくなる。結局それは改めていうまでもないということなのだろう。
建築写真のアーカイブ、建築写真家の作品を、つまりプリントの保存も考えなくてはいけないか。
それにしても大きなプリントの中に、実に微かに浮かぶ映画館の微妙なディテールの面白さはなんとしたことか。そしてふと思うのだがほとんど暗黒にしてみるための映画館を、様々な装飾で飾った建築家の建築に対する思いと、その時代の映画を見る人の、その映画とは何だったのかという存在に思いをはせる。日本にもこういう映画館は生まれたのだろうか。
でも。上映中シャッターを開けっ放しで撮る写真。
そんなに苦労しなくたって、スクリーンに光だけを映写して撮ったっていいじゃない。どこが違ってくるのだろうか。うーん!杉本に聞いてみたくなる。
さて二つ目は建築に関するテーマだが、これは会場に記載されていた杉本のコメントが興味深いのでそのまま記すだけにする。
「建築」
・モダニズムで、装飾から人間の魂が開放され、神の気を惹く必要なく、王族の自己顕示も必要なく、機械によって人間の力を上回る形をつくる自由を得た。
・優秀な建築はボケ写真の洗礼を受けても溶け残る。
<いずれも極めて明快でなかなか興味深い指摘だ。確かにピンボケのバウハウス校舎も、サボア邸も、クライスラービルも、アインシュタイン塔も溶け残っていた。さてね、アインシュタイン塔はモダニズムか、クライスラービルは!>
閑話休題。「海景」
ところで水平線を撮った作品の海のさざなみが、まるで波打っているように見える。会場の六本木ヒルズ53階の森美術館が揺れているのだそうだ。
写真に当るシャッターライトがゆれているから。
大竹昭子は思わず「嘘でしょーっ」。僕もえー!本当?
杉本は1948年生まれの57歳、バリバリの現役なので回顧展というのには早いのだが、単に写真家というだけでなく世界で高く評価される美術作家としてのまとまった作品紹介がされるのは初めてなので、回顧展と銘打つのもうなずける。
写真雑誌や作品集で印刷された写真を見て気になっていたのは、海の水平線をただ撮っただけの「海景」シリーズ。それがなぜ作品になるのか。
それと建築が関わる2つのシリーズである。
一つは映画の上映中カメラを据え放しにして撮り、スクリーンが真っ白になったアメリカの古い映画館を撮った「劇場シリーズ」。それによく知っている建築をあえてピンボケで撮った「建築」シリーズ。
いずれの写真も「建築の面影」が写し撮られているが、微妙な濃淡をかもし出すディテールが気になっていた。これらの写真は印刷ではわからないのではないかとずっと思っていたのだ。
これは正しくそうで、大きくプリントされた写真展示を視た後は、カタログや作品集を手に入れる気持ちがなくなってしまった。
プロの写真家は基本的に印刷を頭に入れて機材も選び撮影をする。だが杉本はそうではなさそうだ。そこが多分写真を超えた存在として注目されるのだろうが、同時に写真とは何かという常に僕自身に問いかけている悩ましい課題を、改めて突きつけられたような気もする。
僕はどうしても1950年代のロバート・フランクやウイリアム・クライン、日本では60年代から70年にかけての東松照明、プロボーグ時代の森山大道や中平卓馬あたりから写真を考え、そしてそこに戻ってしまうのだが、杉本の写真を見るとやはりそれだけが写真ではないのだという思いと、写真とタブローとの関係を考えてみたくなる。
しかし終わってしまった展覧会を論じてもさほど意味があるとは思えないので、それは別の機会に考えることにして、杉本の写真の建築に関わる二つだけを書いておきたい。
一つは、ネガかプリントか、という問題だ。
田町にあるインターナショナルギャラリーのディレクター山崎信さんによると、プリントこそが作品で、ネガの存在は気にしないという。
これは写真アーカイブをどう考えるかという根底に関わる大きな問題で、彼はプリントされた作品、たとえば所蔵している石元泰博のシカゴシリーズも、プリントされた作品を劣化させないように保存していくことこそが何より大切で、中性紙による保存の箱や収蔵の際、プリント面に宛がう紙、展示のときの照明やガラスの材質(アクリルも)などに腐心している。
僕は何処かにネガさえあれば、つまりネガを劣化させないように保存していくのがアーカイブだという思いが抜けきれないのだ。写真を作品と見るか、記録と考えるかという課題にも関連した問題ではあるのだが。
建築界では、図面や資料のアーカイブが大きな課題である。同時に当然建築写真のアーカイブも緊急課題なのだが、何の手当てもされていないのが現状なのだ。
さて杉本博司はどう考えているのか。アサヒカメラの2005年12月号で大竹昭子との対談でこの展覧会について語っているが、それを紐解きながら考えてみたい。あの水平線の淡くもあり光も感じられる黒の絞まりは、実はネガにかかっているのだという。
「完全なネガが出来ればプリントはやさしい」
しかし、あのモノトーンの色調をどうやれば生み出せるのか、僕も暗室にこもって苦心するのでわからないでもないのだが、話に聞くその杉本のネガ創りは想像に絶する。
詳細は記すこともないだろうが、しかし展示作品プリントの素晴らしさを視ると、とてもとてもネガさえよければ簡単にプリントできるとは思えなくなる。結局それは改めていうまでもないということなのだろう。
建築写真のアーカイブ、建築写真家の作品を、つまりプリントの保存も考えなくてはいけないか。
それにしても大きなプリントの中に、実に微かに浮かぶ映画館の微妙なディテールの面白さはなんとしたことか。そしてふと思うのだがほとんど暗黒にしてみるための映画館を、様々な装飾で飾った建築家の建築に対する思いと、その時代の映画を見る人の、その映画とは何だったのかという存在に思いをはせる。日本にもこういう映画館は生まれたのだろうか。
でも。上映中シャッターを開けっ放しで撮る写真。
そんなに苦労しなくたって、スクリーンに光だけを映写して撮ったっていいじゃない。どこが違ってくるのだろうか。うーん!杉本に聞いてみたくなる。
さて二つ目は建築に関するテーマだが、これは会場に記載されていた杉本のコメントが興味深いのでそのまま記すだけにする。
「建築」
・モダニズムで、装飾から人間の魂が開放され、神の気を惹く必要なく、王族の自己顕示も必要なく、機械によって人間の力を上回る形をつくる自由を得た。
・優秀な建築はボケ写真の洗礼を受けても溶け残る。
<いずれも極めて明快でなかなか興味深い指摘だ。確かにピンボケのバウハウス校舎も、サボア邸も、クライスラービルも、アインシュタイン塔も溶け残っていた。さてね、アインシュタイン塔はモダニズムか、クライスラービルは!>
閑話休題。「海景」
ところで水平線を撮った作品の海のさざなみが、まるで波打っているように見える。会場の六本木ヒルズ53階の森美術館が揺れているのだそうだ。
写真に当るシャッターライトがゆれているから。
大竹昭子は思わず「嘘でしょーっ」。僕もえー!本当?