日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

フリーJAZZのある光景

2008-01-27 15:33:52 | 日々・音楽・BOOK

フリーJAZZを語るとき、ある光景が浮かんでくる。
1971年頃の銀座にあった「ジャンク」というJAZZのライブハウスでの出来事だ。ONEセッションと、TWOセッションの間の休憩時間に、ステージに腰掛けてギターを弾き出した若者がいた。渾身の力を込めて弦を掻き鳴らす。リズムもメロディもなく。一緒にいたM君の、「こんなことやってると死んじゃうよな」という溜息が37年も経つのに耳に残っている。

ジャンクはプライドの高いJAZZ倶楽部だったと思う。このステージで演奏できることは、JAZZ・MENのステータスだった。ひところ僕はジャンクに通いつめたが初めて目にする光景で、その後もなかった。必死で若者は演奏したが誰も聴いていなかった。誰かとの紹介もなかった。これが僕の「フリーJAZZ」だ。

ブログでの僕のJAZZの師匠「TARO」さんの、自身のブログでの昨年来の問いかけが`フリーJAZZ`だ。TAROさんは、過去にフリーJAZZ論を書き、JAZZの世界のプロ同士での厳しいやり取りがコメントでなされた。そこでの論考は、僕には読みこなしきれない難しい課題になった。今度のフリーJAZZ論でも、数ヶ月僕の頭の中に、僕の問題意識、「奏者の情念と不協和音」という文字がぐるぐると渦巻くことになった。街中に溢れている雑音は、不協和音なのだろうか。そして!

僕のTAROさんへの問いかけは「なぜ人間は`不協和音`と感じるのだろう」だ。
『ここが一番の本質なんですよね』
TAROさんの僕へのメッセージはこの言葉から始まった。

『なぜ協和音程を美しいと感じ、不協和音を美しくないと感じるのか。トニック(主和音、主音の上に組み立てられた3和音)に安定を感じるのか』ここまでくるともう音響学と生理学、解剖学の話になってしまうかもしれないと述べる。
『ただ人間は、もともと不協和な音が溢れている自然界から、協和音程という美意識にかなうツールを見つけ出して音楽を発展させてきた。そして様々な表現を求めて、「不協和音程にも美意識」を見出すようになって来た。
また、音楽で表現する情感の幅も、快感のみならず、荘厳、恐怖、苦悩、絶望、また思想的な宣伝に至るまで、多岐に広がりを見せてきたわけですね。表現者と享受者が,音楽に何を求めるか・・・この意味においては社会学的な視点も必要になってくる』
建築にも通じる考察だ。

『人間の音楽に対する美意識を「なぜそうなのか、なぜそれを美しいと感じるのか?」という問いは、様々な音楽を聴いてその成立や、そこに込められた情動を知識として知っていくことで、断片な回答を得られるのかもしれない。だが、美意識は、文化圏によっても、気候、風土によっても、最終的には個人それぞれによって違うものだ。』
そして美意識を追求していくことは「人類に共通する,究極の美とは何か」を問う果てしない哲学の世界にさまよいこんでいくことになるという。そうなのだと僕も思う。
そして最後の言葉に感銘を受けた。

『答えなんか出るわけないのに、問うことをやめられない。思索することをやめられない。人間ですからね(笑)』

キースの、インプロビゼーションによるソロでの不協和音に震撼としたことを思い起こし、ふと新聞で紹介された(朝日/1・17 for your Collection)高橋アキの弾く、ジョン・ケージの「危険な夜」はどうなのだろうと聴いてみたくなった。
考えざるを得ない僕たちへの答え(のヒント)が、現代音楽の旗手ジョン・ケージと高橋アキから得られるだろうか。
心のどこかから、「感じればいいんじゃない」というささやきが聞こえてくるのだが。

<写真 1992サンフランシスコにて>