日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄文化紀行 1 聖クララ教会・修道院

2005-11-19 23:19:13 | 沖縄考

沖縄は僕を捉えて離さない。何に惹かれるのだろうか。と自問自答するのだが、僕の考える文化や気になる文化創造問題の原点がそこにあるからに違いない。
この11月1日からの3泊4日の文化人類学の研究者と母校明治大学政治経済学研究科の院生に同行した6名での旅は、飲み食い歩き観、語り聞くいつもの旅ではあったが、建築家との旅とは視点の違う新しい発見もあって面白かった。
いままでとは一味違ってと言ってもいい。様々なことに想いを馳せながら、文化紀行として何度かに渡って書き連ねてみようと思う。

<夕焼けに浮かぶ 聖クララ教会・修道院>
329号線を中城村(nakagusuku-son)を経て与那原に入ると、ほのかに夕焼け雲の浮かぶ正面の高台に、逆光のためにシルエットになったバタフライ形の「聖クララ教会・修道院」がくっきりと見えてきた。ここを訪れるのは3年ぶりだ。
許しを得て聖堂に入ると、夕べのお祈りの前でひっそりとしているが、ホッとするような暖かさに満ちていて、自分の居場所に帰ってきたような思いにとらわれた。なぜだろう。

DOCOMOMO100選に選定したこの教会は、終戦からまだ13年しか経っていない1958年、米軍キャンプで施設の設計に携わっていた建築家片岡献が、アメリカの設計事務所の協力を得て建てたカトリック教会で、修道院を併設している。

アナヤーとかヌキヤーといわれる木造住宅に住んでいた沖縄の人々は、暴風雨に悩まされていて、丈夫そうなコンクリートで建てられた米軍キャンプの宿舎に憧れた。沖縄は台風の通り道なのだ。
四角い白い箱にスラブ(コンクリートの床版)の屋根を乗せただけという単純なそのスタイルは、スラブヤーといわれるようになり、基地周辺にアメリカ住宅として次々と建てられてゆき、そこに住むことは沖縄人のステータスとなっていった。

この教会はそのスラブヤーに範をとって創られている。モダニズム建築の典型だ。
僕は聖堂の北面の、床から天井一杯に取られている所々にステンドグラスの入ったサッシから、眼下に広がり光り輝いている与那原の町と、その先の海原をぼんやり眺めていてふと気がついた。
苫小牧では初雪が降ったというのに、外気が30度を越す11月の沖縄の暑さが、この聖堂ではさほど気にならない。空調機がなく扇風機が壁についているだけなのだが。
此処から見る町が順光だということはこの大開口部には直射日光が入らない。この前来たときもそうだった。形が明快に見えるこの外観を撮ろうと思うと逆光で苦労した。そうか!

この教会と修道院は廊下によって分けられ、さりげなく、しかし明確にプライバシーに配慮された計画がなされている。いづれにも芝生を引きつめた中庭がとられており、中庭に面して廊下や、いかにも南国の趣を感じさせる回廊が取られている。
中庭に面しているこの聖堂の南側は、天井が低い幅の広い通路になっていて、燦燦と入ってくる直射日光が礼拝席には届かないよう配慮されている。正しく自然の摂理に配慮し、しかも風土に馴染んでいる。光と風だ。
この建築が僕たちを受け入れてくれるのは、無論神父さんをはじめとする関係する人々の志によるものだが、それを建築が受け留めているからだ。
3年前は、この建築を発見したという気持ちもあって何もかも新鮮な驚きで興奮した。しかしいま僕はこの建築にまた出会えた喜びを静かにかみしめている。

沖縄から帰ってきてすぐ、ある女子大学で180名の住環境科の学生にモダニズム建築の魅力について薀蓄を傾ける機会があった。なんとなくボーっと僕の話を聞いていた学生が、沖縄に行ってきたよ!というとちょっとざわつき、「タコライス」と言った途端目が輝いた。いやね!タコライスを食べる前に「何はさておき聖クララ教会にいきなさい」というと、彼女たちがニヤリと笑ったような気がした。