日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

終の棲家 団地の住まい

2005-11-11 18:15:10 | 建築・風景

30年前僕たちはどういう思いで此処に住み始めたのだろうか。

団地はほぼ同年代、収入もほぼ同格の人々が購入して入居し、生まれも育ちも違うものの、同世代という何がしかの共通認識によってコミュニティが生まれくる。
しかし年月が経るにつれ、子供が育ち家を離れ、自分自身は年を取り、階段の上り下りも少々きつくなってくる。社会環境も変わり、バリアフリーという入居時には聴かなかった言葉がごくごく当たり前のように言われるようにもなる。
駐車場の問題もおきるし、神戸の震災の後地震に対する不安も出てきた。修繕計画がきちんとなされていても、建物の老朽化の不安もささやかれるようになり、建て替え論議が生じてくることは自然のことなのかもしれない。

しかし考えてみると、入居時には団地とはいえ夢を持って住まい始め、あるいは一軒家に住むことが夢でここに住むのは仮の住まい!と思っていた人も、年月を経るに連れて近所の人との付き合いも深くなり、かけがえのない友人も出来、ふとこの住まいを愛していることに気がついたりする。
またここで生まれ育った子供にとっては、口には出さなくてもここが人生の拠点でもあるだろう。このような想いはほぼオリジナルな形で残っている建物の形や景観、この団地で行なわれたり感じたこと、記憶つまりメモリー、そして緩やかに繋がっている住民同士の信頼関係・安心感によるものだ。

時を経ることによって、やっと手に入れたものだと思う。

建築界は団地再生論議が盛んである。しかし僕たちのこの団地の例のようになかなか難しいのが実態である。だいぶ前から建て替え計画が検討されてきたが、中断になって実は僕はほっとしている。高層になると人生が変わるし、築いてきたコミュニティが壊れ時間を掛けて創りなおさなくてはいけない。名建築と言われた同潤会アパートが高層に改築されて様々な問題がおきていることを建築家としてよく知っているので。

僕たちは年を取っていくという初めての体験をしている。先のことはよく分からないが、この住まいが終の棲家になるような気がする。この団地が好きな僕は、それでいいのではないかと思い始めている。