日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

8月9日の長崎を想いながら

2015-08-09 21:45:36 | 生きること

父方の実家のある長崎での「平和祈念式典」のTV中継を見た後、この項を起稿する。
<安倍首相は、非核三原則には言及した>

僕の実家は諏訪神社の近くの古町にあり、幸い家屋は被災しなかったが、父の妹、叔母は学徒動員で働いていた爆心地から近い工場で被災し、倒れた鉄骨に埋まってかろうじて助け出された。叔母は口にしないが、そう聞いてきた。
赤紙で招集された父がフィリピンで戦死した後、僕たち家族は長崎に引き取られた。小学校1年生だった僕は、勝山小学校から転校して家族と共に天草の下田村(当時)に転居して、小学生時代を過ごした。長男の僕は母や弟と妹を下田に残し、長崎中学に入学して1年半ほど通った。叔母は体調に異常は起きなかったが、僕を可愛がってくれた優しい叔母の同級生は被爆していて早世した。

この僕のブログに「生きること」と題して書いたシリーズがある。掲載を始めたのは9年前になる2006年6月、補遺を1項入れて23編になった。
母が入院し、2007年の元旦に92歳で亡くなるまでの半年間、父と母が書き綴ってくれた「吾が児の生立」と題した僕の育児日誌を紐解きながら書き進めたこのブログを、僕は時折読み返したりしている。

東京杉並の2軒長屋で僕は生まれた。父が招集された後、母の兄の会社の社宅があった千葉県の柏(現在は市)に疎開したので、東京空襲も長崎での原爆体験もしていない。だが、上記した父の実家から通った戦後の新生中学一期生としての長崎での生活は、何時までも僕の中に留まっている。

さて「生きること」の22項、最後の一言でこう〆た。
「僕も児の親だ。『生きること』に思いを込めて僕はもう少し生きていく」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてこのブログの『「補遺」のなかの、8月15日を書いた箇所を抜書きする。8年前になるが、韓国を訪ねたときの一稿です』。

―あまりの暑さに地球の異変を実感した「終戦記念日」。
韓国では「光復節」という。日本の植民地支配から開放されたことを祝う祝日だ。
日本人の建築家の設計したソウル市庁舎の存在は、嘗て大きな話題となった。後ろに高層の庁舎を増築することになって存続が決まり、道路を挟んだ前面に芝生を張った大きな広場ができた。
15日の夜、大勢の市民が集まったことだろう。新聞報道によると、今年のソウル市庁舎の外壁には、ペットボトルの素材で作った国花・ムクゲの花が飾られた。昨年は反日の被いに震撼としたが、今年の咲いたムクゲの花にホッとする。

<写真 長崎の実家座敷に掛けてある曽祖父の写真>

青空を見上げながら、シリアで亡くなった方々に思いを馳せる。

2015-02-01 14:35:23 | 生きること

晴天の´ひかり`に満ちた休日・日曜日なのに、TVから流れてくる映像は、シリアに関する悲惨な報道で、書かなくてはいけない原稿をぼんやりと頭の中でまとめながらも、考え込むばかりである。

嘗て僕はJIAの理事のときに理事会で提案し、イラクの首都バグダッドに米国が砲弾を撃ち込む様を危惧し、人命とともに長い歴史を築いて来た建築群を無差別砲弾によって破壊するのは、人の生きてきた軌跡を抹消することになるのだから、JIAという建築家集団としてメッセージを伝えるべきだと提案した。いわゆる湾岸戦争だった。僕の頭の中には、子供のときに味わった「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」があったのだ。

東京に在住する理事を中心として協議しただけで会員に広げることをしなかったが、賛同した建築家はすぐに200人を越えた。
文案を数名で取りまとめて、賛同した建築家の名を添付してJIAの捺印をもらった。

今思うと不思議だが、何故か僕一人で、当時本庁が改修工事をしていたので、外務省仮庁舎に赴き、受付に川口順子外務大臣に面会したい旨申し入れをしたものの、あえなく拒否され、担当者に渡しておくといわれて手渡して帰ってきたことをぼんやりと思い出している。

TVの映像で見る破壊されたまちの様は、悲惨だ。そこで生活をしていた人々の面影が宿っているからなのだろう。いまは、亡くなられたというお二人と共に、多くの方々の冥福を祈るしかない。

闘う・人!

2014-03-23 18:20:52 | 生きること
文化庁の文化財監査官大和智氏が急逝された。
氏から戴いた今年の年賀状には、ペンによる一言が書き添えられていて繰り返し眼を通すものの、ただ瞑目しご冥福を祈るしかない。
日大の大川三雄教授から相談を受けて始まったタウトの設計した「旧日向別邸」の保存問題で(現在僕は故鈴木博之委員長による市の委員を担っている)氏は、重要文化財にする事に尽力して下さった。

5月に母校千葉県立東葛飾高校の同窓会を行うことになり、まず電話で数名の同級生とやり取りし、準備会(発起人会)のために事務局を担っている小柳満男の事務所のある柏に二度ほど出向いた。
集ってまず語り合うのはお互いの体調と、同級生の訃報である。
話を聞きながら考えていたのは、親しかった同じクラスだった友人の奥様からの喪中の葉書を戴くことが多くなって、そこには「感謝を込めて・ありがとうございました」との添え書きが筆で書かれたりしていて、一瞬、五十数年に渡る彼との飲み食いしたときのエピソードがよみがえったりしたことだ。

僕たちの学年は5年毎に同窓会を開いてきた。僕は第2回目を発起人代表として企画した。そのときは教わった先生方も健在だった。前回は僕が取りまとめ役になった他の会と重なってしまって参加できなかった。とすると今度集る数十人とは10年ぶりに会うことになる。
久し振りの準備会で、お互いに歳を取ったなあ!と髪が少なくなったその白髪を見て思うものの、一瞬にして皆高校生に戻ってしまうのが不思議といえば不思議である。
その高校時代、球技祭で僕がピッチャーをやった僕のクラスは準決勝で負けその悔しさも蘇ったが、相棒のキャッチャーをやった体操部のキャプテンだった柳沢が体調を壊していて、打ち合わせに出てこれないという。電話ではお互い苦笑しながらのやり取りに、これでいいとホッとする。

そして思った。
「生きるということは闘うことだ」。闘い方は人様々だが、闘わなくては生きていけない。付き合いの中で思うのは、明日本葬をおこなう鈴木博之教授も、大和さんも闘う人だった。そして東葛高校の同級生も、お互い貧しかった天草の小学校時代の同級生も・・・

僕のこのブログ(3月1日)に書いたピート・シーガーは、公民権運動や環境問題で多くの人々の共感を得影響を与えたが、声を振り上げるのではなく、しみじみとしかししっかりと歌い、闘う人としてのその役割を果たしてきた。鈴木博之さんにも大和さんにも、そして親しかった友人とも、人が生きることについて、どこかに通じるものがあると僕は思う。
同窓会の2次会でピート・シーガーの一曲『WE SHARU OVERCOME:勝利を我らに!』を聴いてもらいたくなった。

花火の夏の夜

2013-08-04 12:26:50 | 生きること

福岡ではしご階段を滑り落ち、わき腹を打つなどし、翌日曜日の朝、長崎の救急病院でレントゲンを沢山撮って貰って診察してもらったが骨折はしていないとのことでひとまずホッとする。
古町の実家を訪ねた後、伯母も同乗して茂木港まで従弟が車で送ってくれた。富岡港には小学生時代の親友、吉田君が迎えに来てくれた。僕の母校のある下田温泉へ向かう。6年ぶりの下田だ。そしてショックを受けることになる。

138年前に開校したという我が母校が、この3月で閉校、同じ天草町の他の4校も閉校して、嘗ての隣村高浜小学校に統合されたとのこと。天草市になったにも関わらず過疎化が進むこの地の様相を実感し、友人一視君の妹が女将となった泉屋旅館で寝っころびながら、とっくに無くなった小学生時代の住屋や関連している過疎のこと、次々と我が原風景が消えていくことなどをぼんやりと考えることになった。

さて我が家に帰ってきたら、厚木市の「鮎祭り」の花火である。ここ数年横着して4階の我が家の窓から音が響くたびに身を乗り出してみていたが、今年も同じこと、これは新作だなどと妻君や久し振りに来た娘と能書きをいいながら、行ったりきたりしたものだ。

枇杷と蜂蜜

2013-06-16 16:07:42 | 生きること
体調がよくないと聞いていて、今年は年賀状も来なかった先輩から電話をもらった。
声もしゃべり方もいつもと変わらず、ホッとはしたものの、6ヶ月入院して手術を繰り返した。今でも3泊4日で大学病院に行き、10日経つとまた3泊4日の入院、点滴治療を繰り返し、人工肛門をつけて生活しているのだと言う。一瞬言葉にならず、溜息しか出なかった。

電話をくれたのは、枇杷が旬(しゅん)だからだという。「採りに来ない?」
今は閉業したが、彼が現役のときの材料置き場と加工場の庭に植えた枇杷の樹に実が鈴なり、剪定等の手入れができないので一枝に実が付き過ぎているが美味しいよと言う。
妻君を誘ってまず伊勢原の彼の自宅に行き、僕の車で何度か訪れたことのある置き場に行く。
そこに枇杷の樹のあることには気がつかなかった。
ほっぽっといたら大樹になったのだそうナ!
下から見上げると、確かにたわわな枇杷だ。

妻君は梯子を上るなんて到底無理だとしり込みして下で待つ。
気をつけて、と言い、まず先輩がシナシナとしなるアルミの梯子をスルスルと上る。とても病人とは思えぬ鮮やかな上り方、僕がよろよろと上っていく様に、妻君は心配そうだが呆れてもいる。
波型鉄板屋根の下地のあるところに立たないと屋根が破れるかもしれないので気をつけてといわれながら、陽の当たるところの熟れたものを選ぶように言われてもぎり、皮を剝いて口に含んだ。
野性味あり、これが「枇杷」なのだ。

先輩の自宅に戻って奥様とも一緒に、人生の嘆きと面白さも、そして可笑しさに話が弾んだ。先輩の髪は薄くなったが顔色はその昔と変わらず、うちに帰ってきてからの妻君には、六つも年上なのにあなたより元気じゃない!あんた、よれよれよ!

さても、先輩からプレゼントされた日本蜜蜂のビンテージ、4年物の蜂蜜を、ちびちびと舐めながらの陶酔境、この一文をしたためている。

記憶を留めておく 戦中派の夏の終わりに

2011-08-21 22:58:05 | 生きること

走り書きになっても、記憶として書き留めておきたいことがある。
NHKの朝ドラをチラッと見ていたら、終戦になった途端教師の態度が変わり、小学生が戸惑う様が映し出された。よく聞く話だがふと思ったのは、僕は戦後教育の「第一期生」だと言うことである。
昭和21年(1946年)4月、疎開先の千葉県柏小学校に入学した。そのあとすぐに、実家長崎の勝山小学校へ、そして天草の下田北小学校に転校したのが12月2日、下田国民学校だった。
一学年一クラスの小さな学校だが、先生も優しくて大人への不信感は生まれようもなかった。
よそ者なのに、近所の人たちにも母を含めて支えられていたし・・・・

熊本から赴任して東京を目指していた先生に可愛がられ、恐らく現在(いま)の僕のベースがここで築かれた。と同時に同級生の全ての子が同じように可愛がられたとも思っていた。
あるとき衝撃を受けることになる。`あの小学生時代の辛さを生涯思い出したくもない`と一番の仲良しになったY君から言われたのだ。意味もなくいつも先生にいじめられた。

そのY君は心臓を病み、熊本の大学病院の手術室台で心筋梗塞を起こし、取り囲んでいた先生たちの手で緊急手術によって一命を取り留めたのだという。手術をした先生が驚嘆した。一瞬遅れていたらと。奇跡だった。

今年の正月、年賀状が来ないので電話をしたら使われていないとのメッセージが流れてきてあせった。慌てて同級生のN君に電話をする。
Y君は店の電話をやめて自宅一本にしたじゃないという。そうだったなあと思いながら奥様のお悔やみを述べる。孫が六人、娘の家がすぐ下にあってその間に墓があるので、毎日花を取り替えて手を合わせている。昼と夜の食事は娘の「うち」で一緒にとのことだ。自分は幸せモノだとうるっときている様子が聞こえてきた。

Y君に叱られた。喪中の葉書を寄こしたではないかと!そうだった、弟を知っている人には出したのだった。
小学生時代の同級生は男が12人、女は22人、大学まで行ったのは多分僕を含めて二人。Y君は天草の水産学校に行ったが、N君は中学を卒業した後、山の中腹に住んで親父の跡をついで農業に邁進した。

「団塊の世代」という言い方がある。僕の数年後に生まれた世代だ。「戦中派」という言い方もある。「焼け野原」に繋がる言い方だ。ローリングロウを歌った作家野坂昭如や、夏の闇の開高健の世代。
中途半端な俺だ!と語したことがある。何言ってんだ俺たちは「戦中派」だと決め付けられた。
戦中派?どうもなじまないが、大人の変節を見なくて済んだ一欠けらの世代でもある。ふっと思うのは、終戦前に教師であった人間の苦悩だ。

TVで写真家江成常夫の「霊魂を撮る眼」を見ながら書き進めている夏の終わりの一人の男の呟きか?

<写真 天草下田:2007年5月撮影>

2011年8月15日

2011-08-16 00:45:29 | 生きること

終戦後66年を経て、今年も8月15日が巡ってきた。
例年と違うのは3.11が起きて離れた地に生息している僕でも心が定まらぬことと、昨年末、弟を癌で亡くして8月15日を語りあう仲間が一人欠けたことだ。語り合うと言っても66年間何をして来たのでもなく、ただ心の中で語り合って来たのだと居なくなって気がついた。ふと思い立っても、あの声を二度と聞くことはできないのだと。
12日、明大生田校舎建築学科の製図室にDOCOMOMO100選展のパネルを搬入して、一日かかって状態の確認をした。
翌13日、情けないことに疲労困憊して起き上がれず眠りこけてしまったが、夜になって気になっていた「最後の絆」(フジTV)を見始めたら眼が離せなくなった。沖縄を舞台にした兄弟の実話に人は皆、戦争と言う物語を背負っているのだと眼が霞む。

明け方ふと眼が開いた。カラスや雀、そのほか沢山の鳥のさえずりが聴こえる。このさえずりは6時頃になると機と(はたと)聞こえなくなるのだ。そしてしばらくすると、子供たちの声がどこからともなく聴こえてくる。でも今朝はシーンとしている。思い立って玄関に新聞を取り入った。休刊日なのを失念していた。この終戦の日に休刊するプレス界に怒りを覚える。8月15日を忘れるなと言うジャーナリズムに終戦の日の朝から危うさを感じる。

父は終戦の2ヶ月前、6月17日フィリピンのルソン島、モンタルバンで戦死した。僕は5歳、弟は3歳で妹は1歳だった。僕は8月15日のことを覚えていないが、育児日誌を基に4年前にここに連載した「生きること」(14)を開いてみた。

終戦の日。母はこう書く。
『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったりしたが、今日で終戦である。なんだか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』柏は疎開先だ。

そして昭和21年の元旦。
『元気でおみかんやお餅を沢山食べて、お正月を迎へました。
昭和二十一年一月一日。悲しい日。長崎からお父ちゃま戦死の電報が来た日。
どうかまちがいであります様に。
紘一郎、かあいそうに、かあいそうにお父様のない子になってしまった。』

ところで今日はお盆でもあった。
夏休みの娘は一人旅。昼になって蕎麦でも食いにいこうかと妻君を誘う。旨い蕎麦屋の名前がいくつか挙がったが御殿場の「砂場」を思い出した。そうだお墓まいりをして「砂場」へ行こう。お墓はフジ霊園である。

墓石の前で父と母を思い、「健やかに」と念じたが、亡くなった二人に健やかとは変だと苦笑、妻君の母親は、迎え火、送り火をやっていた。もしかしたら父とは母ここには居なくてウチ(家)にきているのかと、まあいいじゃない、志は届くよといい加減な僕たちだ。

「砂場」は、そうだなあ!旨いのは無論だが店の感じがいいのだ。僕たちの感性に合う。
張り込んで、妻君は天婦羅蕎麦、僕は鴨だ。

帰ってから「人間の条件」(1)を見る。若き日、読み込んだ五味川純平の人生を懸けた著作の映画化だ。懐かしい俳優のシビアな演技に言葉もなく見入る。
TVを点けっぱなしにしていたら、沖縄の娘・黒木メイサがスペインでフラメンコにトライしはじめた。いい女だ。
教師に驚く。心で踊れと言う。そして最後に泣かせることをいう。君は凄い。練習させた僕は踊っていたよ!

(写真 砂場の暖簾)

新版「日本の原発地帯」から「日本の原発危険地帯」(鎌田慧著)へ

2011-04-17 14:11:03 | 生きること

やはり書いておこうと思う。
新版「日本の原発地帯」鎌田慧著(岩波書店同時代ライブラリー)を読んだ。しかしこの文庫は1996年11月に第1刷が発行されており、15年を経ている。原本は1982年(潮出版社)だと言うからほぼ30年程前になる。僕は、原発の近辺に行ったこともなく、その後の15年間と現状も知らない。書いていいのかとちょっと悩んだ。

だが、この文庫の最終章に反原発住民闘争がレポートされた東北電力新潟の「巻」は、計画が消滅しているし、このたびの大震災で事故を起こした福島第一の一号炉は、ルポした当時、放射能を含んだ冷却水漏れが発見されて運転停止中と記載されていて、71年に稼動してから平均稼働率は30パーセントしかなく現地では「被爆者製造炉」と言われていたとある。
これは読んでわかったことなのだが、そうでなくても今回の事故報道の東電や政府、関係機関のあやふやな様を見ていて、原発の実態が気になっていた。

ルポライター鎌田慧が原発をルポしていることは知っていたが、書店になく版元にもなく、図書館も貸し出し中で何人もの予約が入っていていつ手に入るかわらない。ブックオフだと思って数件まわってみたが原発関係だけがなかった。
そこへ「この度改めて読み返してみて愕然としました」とS教授からメールがきた。新版「日本の原発地帯」を読んだという。
思い余ってメールを入れた。そして貸して頂き読んだ。想定していたもののやはり愕然とする。
僕自身の思考の記録としてもここに書いておきたいと思った。

蒲田慧は1938年青森県弘前市に生まれ、早稲田大学を卒業したフリーのルポライターである。
原発に限らず、何よりも自身で現地を歩き、ルポした相手の名前や組織、現状を率直に書き記していることが貴重な記録となっている。「反骨―鈴木東民の生涯」(講談社文庫)で新田次郎賞、「六ヶ所村の記録」(岩波書店)で毎日出版文化賞を受賞しており、その業績は社会的評価を受けているのだ。

この著作は`原発の先進地の当惑`と題した「福井」からスタートしている。若狭湾に面した敦賀、美浜、大飯、高浜、敦賀は日本原子力発電だが、他は関西電力、久美浜が次の主要候補地点となっているが設置されなかった。その他本書でルポされたのは、愛媛の伊方、福島、柏崎、島根、下北(むつ・六ヶ所村)、`核の生ゴミ捨て場`と題された岡山県と鳥取県の県境にある山岳地人形峠など、そして巻である。
今回の事故は東京電力福島第一だが、関西電力、中国電力、四国電力などなど、どの原発も安全性についての大きな問題を抱えていることがわかってくる。

でも僕自身コントロールできないのだが、心のどこから底知れない怒りがじんわりと湧き上がってきて留まってしまうのは、過疎であったとしても先祖から受け継いできた土地とコミュニティを、彼ら!が嘘を並べ立てて分断させてきたことである。
故郷を失うこと、故郷のない僕は溜息が出てくるのだ。
事故を隠蔽して(でも伝わるものなのだ)安全を表号し地域の人々を雇用し、生活の安定と活性化を図るとされる。海に高温の排水をすることになって生態系が変わるので漁業権を放置させる。政治家と産業界の裏に膨大な金が動くが、当の住民が気がついたときにはただ同然の金で土地を手放してしまったことを悔やむことになるのだ。
故郷とは言えないのかもしれないが、小学生時代を過した過疎の村(天草下田村)の、僕の家族を支えてくれた人々の顔が浮かんでくる。

こういう記述がある。柏崎刈羽の人たちが科学技術長の担当官に、東京につくったらいいだろうにというと、東京は人口が多くて危険だと答えたと言う。(140ページ、後に紹介する日本の原発危険地帯では153頁)。
原発の寿命は60年とされるが、日本と同じ原発で40年以上稼動している例はなく、現実には40年では廃炉になるとみられるという。廃炉になったときにこの地域はどうなるのでしょうか? と伊方の町長に問うと「三年、五年向こうのことでさえむずかしい。二十年、三十年先のことは、あとの町長が考えます」。是非を越えて、既に人がコントロールできないのだ。

さて4月15日本屋(僕もしつっこいなあ!)に行って検索したら、この度の事故を受けて「日本の原発危険地帯」(鎌田慧著・青志社4月17日第1刷)が緊急発刊されていた。
蒲田さんは改題刊行あと書きにこう書く。「いままで感じることのなかった、奇妙な時間である。(中略)原発が事故を起こすのは予測されていた。が、どこかに救いを求めていた。」
2006年文庫本後書きにはこうある。「この本は私にとって愛着の深い本である。一人の人生がどのように変わったか、私がお会いした、原発に立ち向かいながら、無念のうちに他界したひとたちの冥福を祈りたい」。


暑い夏 2009年8月15日

2009-08-16 11:19:52 | 生きること

戦後64年、暑い夏、今年も終戦記念日を迎えた。
NHKで放映した市民討論で、冒頭から数名の市民が声をあげて日本の核武装を望む発言を繰り返すのを聞いていて、見ていられなくなった。防元衛庁幹部などとともに、若い女子大生の口ぶりを聞くと、この人たちはどういう戦争体験をしたのだろうかと思う。
今はこれ以上のことを書きたくないが、夏が来ると毎年僕の住まいの近くで行われてきた花火大会を見るたびに思うことだけを述べておきたい。

毎年8月の第一土曜日の夜、厚木市の鮎祭りのメインイベントとして相模川で行われる大掛かりな花火の大会は、団扇を持ち浴衣を着た若者のカップルで賑やかだ。僕も何度かシートを持って河原の場所取りをし、頭の上から響く破裂音に身を揺らせたこともある。季節の変わり目に行われる祭りは、賑やかだが移り往く時を感じて妙に寂しい。

大玉を見上げながら口数が少なかった写真家の木戸征治さんが、後に忘れ得ない一言を呟いた。「来たかったという女房のことを思いながらね・・」。花火の好きだった下町っ子だった奥さんは、体調がよくなくて来られなかったのだ。転移だった。奥さんには「転移だと告げられなかった」という一言が辛い。

家中の金を掻き集めては過疎地の長期取材にでかけた。奥さんは黙って見送った。
四国の先端土佐清水横道の生徒が二人しかいない「ちんまい分校」(著作・1983年あかね書房刊)。片道16時間をかけてたどり着き、富ちゃんが入学してから卒業式までの6年間を追いかけた。
豪雪地、今では廃村になった長野と新潟の県境の戸土。

僕は妻君や娘を連れて木戸さんに連れられて何度も戸土の赤野さんの家を訪ねた。小谷温泉から山越えをしたこともある。
10年追いかけ`人の暮らしがあって初めて雪は猛威となり白魔となる`思わず書き記したフォト・エッセイ「雨飾山麓冬だより」(1987山と渓谷社刊)の出版パーティを、新宿の居酒屋2階の座敷をぶち抜いて行った。もう20年以上経つのにその様を思い出す。
その店に来るのが遅れている木戸さんから僕に電話があった。赤野さんが先ほど亡くなった。メインゲストが赤野さんだったのだ。赤野さんを偲ぶ会になったが、僕は司会をやりながら木戸さんから眼がそらせなかった。笑顔なのに彼の眼にたまる涙姿が忘れられない。

花火。日本酒をちびちびと飲みながら、どーン!と鳴る度に窓に駆け寄る老いた僕の母の姿も目に焼きついている。我が家の部屋から見える低層の4号棟の上に丸い華が咲くのだ。今僕が同じことをやっている。

8月15日。年に一度くらい過去を思い出してもいい。そして64年経った今の時代に危惧感を覚えるのも必要だ。

「生きること」に書いたが、僕の育児日誌に母の字がある。
「昭和20年8月15日。度々の空襲で防空壕に入ったり、何かしたが、いよいよ今日で終戦である。なんだか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせずのびのびと遊べる。柏は(千葉県、疎開先)は広いのではだしでハダカで本当にのびのびと遊べる」
母は、既に父がフィリピン・モンタルバンで戦死していたことをまだ知らない。
さまざまな夏がある。


暑い終戦記念日 今年の8月15日・オリンピック一色だが

2008-08-17 00:35:11 | 生きること

日差しが秋色になってきたが東京は猛暑だ。
夏の休みを取ったが、テレビでも新聞でもオリンピック一色。そのどれもが面白く、勝っても負けても戦った後のテレビの前での選手のコメントが興味深い。
`超気持ちいい`とアテネで叫んだあの北島でさえ、この舞台に立てないと思ったこともあったと言うのを聞いて、戦う選手の人生を考えてしまう。皆の支えが在ってと言う北島も大人になったのだと思う。
こういう、人の述べるコメントを深読みし、ぶつぶつとつぶやいている僕を見て、妻君や夏休みでうちに来た娘が笑っている。

今年の8月15日も暑かった。お墓まいりに行ったのに、8月15日には気が向かなかった。
15日の朝、オリンピックを見ようと思ってテレビのスイッチを入れたら、小泉元首相の靖国参拝が映し出されてドキッとした。安部元首相の姿も写しだされる。ノー天気なと言いたくなるのは、どうしても参議院選挙のときの年金問題をすぐに解決すると絶叫した姿が浮かび上がるからだ。
終戦記念日なのだと思った。
二人の元首相は無言だが、戦犯合祀についての考えを聞いたことがない。語りえないのは、戦争をつくりそれを率いた側の論理が、いまの社会には受け入れられ難いからだ。
でも二人だけではない。多くの国会議員が終戦記念日に靖国神社に行く。そちら側にいることを表明し、それがステータスだと思っているのだろうか。

赤紙で召集された僕の父は、終戦の2ヶ月前フィリピンで戦死した。歳を取るとともに、伴侶を亡くして62年間を生きた母の気持ちに思いやることがあるが、その父に会ってみたいなどと、理に合わないことを考えることもある。でも僕は、僕の人生を歩んでいる。

娘の持つ好奇心を見て僕の血を引いているのだと思うことがある。その僕は父の血を引いているのだ。
終戦記念日だから思うのでもない。法事で親戚に会うと、それぞれが違う価値観を持っているだろうし、問題を抱えているとしても、お互いに血への共通認識を持っていると感じる。

年月は人の思い(重いでもある)を浄化するが、同時にまた今でも秘めている厳しい事実への思いもわかるようになる。
爆心地から200mの場所にあった工場の、鉄骨の下敷きになって救い出された叔母。昨年長崎の原爆資料館を案内してもらったとき、ふと漏らした言葉で初めてその事実を僕は知ったのだ。
先週の従姉妹の連れ合いの葬儀で、その従姉妹もその伴侶を求め得なかった叔母の生きかたに触れた。
戦争の悲惨を秘めている人々を沢山生み出すのが戦争だ。それぞれの8月15日がある。

ただ事実だけを受け止めて生きてきた母に、合祀と言ったって理解できなかっただろうとも思う。
でもふと思い起こすことがあるのだ。一昔のことになるが母と靖国神社を訪れたことがある。母は何も言わずただ眼を赤くしていた。

<写真 暑い日々 咲き乱れた`さるすべり`の花>