父方の実家のある長崎での「平和祈念式典」のTV中継を見た後、この項を起稿する。
<安倍首相は、非核三原則には言及した>
僕の実家は諏訪神社の近くの古町にあり、幸い家屋は被災しなかったが、父の妹、叔母は学徒動員で働いていた爆心地から近い工場で被災し、倒れた鉄骨に埋まってかろうじて助け出された。叔母は口にしないが、そう聞いてきた。
赤紙で招集された父がフィリピンで戦死した後、僕たち家族は長崎に引き取られた。小学校1年生だった僕は、勝山小学校から転校して家族と共に天草の下田村(当時)に転居して、小学生時代を過ごした。長男の僕は母や弟と妹を下田に残し、長崎中学に入学して1年半ほど通った。叔母は体調に異常は起きなかったが、僕を可愛がってくれた優しい叔母の同級生は被爆していて早世した。
この僕のブログに「生きること」と題して書いたシリーズがある。掲載を始めたのは9年前になる2006年6月、補遺を1項入れて23編になった。
母が入院し、2007年の元旦に92歳で亡くなるまでの半年間、父と母が書き綴ってくれた「吾が児の生立」と題した僕の育児日誌を紐解きながら書き進めたこのブログを、僕は時折読み返したりしている。
東京杉並の2軒長屋で僕は生まれた。父が招集された後、母の兄の会社の社宅があった千葉県の柏(現在は市)に疎開したので、東京空襲も長崎での原爆体験もしていない。だが、上記した父の実家から通った戦後の新生中学一期生としての長崎での生活は、何時までも僕の中に留まっている。
さて「生きること」の22項、最後の一言でこう〆た。
「僕も児の親だ。『生きること』に思いを込めて僕はもう少し生きていく」。
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そしてこのブログの『「補遺」のなかの、8月15日を書いた箇所を抜書きする。8年前になるが、韓国を訪ねたときの一稿です』。
―あまりの暑さに地球の異変を実感した「終戦記念日」。
韓国では「光復節」という。日本の植民地支配から開放されたことを祝う祝日だ。
日本人の建築家の設計したソウル市庁舎の存在は、嘗て大きな話題となった。後ろに高層の庁舎を増築することになって存続が決まり、道路を挟んだ前面に芝生を張った大きな広場ができた。
15日の夜、大勢の市民が集まったことだろう。新聞報道によると、今年のソウル市庁舎の外壁には、ペットボトルの素材で作った国花・ムクゲの花が飾られた。昨年は反日の被いに震撼としたが、今年の咲いたムクゲの花にホッとする。
<写真 長崎の実家座敷に掛けてある曽祖父の写真>
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