日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

2011年8月15日

2011-08-16 00:45:29 | 生きること

終戦後66年を経て、今年も8月15日が巡ってきた。
例年と違うのは3.11が起きて離れた地に生息している僕でも心が定まらぬことと、昨年末、弟を癌で亡くして8月15日を語りあう仲間が一人欠けたことだ。語り合うと言っても66年間何をして来たのでもなく、ただ心の中で語り合って来たのだと居なくなって気がついた。ふと思い立っても、あの声を二度と聞くことはできないのだと。
12日、明大生田校舎建築学科の製図室にDOCOMOMO100選展のパネルを搬入して、一日かかって状態の確認をした。
翌13日、情けないことに疲労困憊して起き上がれず眠りこけてしまったが、夜になって気になっていた「最後の絆」(フジTV)を見始めたら眼が離せなくなった。沖縄を舞台にした兄弟の実話に人は皆、戦争と言う物語を背負っているのだと眼が霞む。

明け方ふと眼が開いた。カラスや雀、そのほか沢山の鳥のさえずりが聴こえる。このさえずりは6時頃になると機と(はたと)聞こえなくなるのだ。そしてしばらくすると、子供たちの声がどこからともなく聴こえてくる。でも今朝はシーンとしている。思い立って玄関に新聞を取り入った。休刊日なのを失念していた。この終戦の日に休刊するプレス界に怒りを覚える。8月15日を忘れるなと言うジャーナリズムに終戦の日の朝から危うさを感じる。

父は終戦の2ヶ月前、6月17日フィリピンのルソン島、モンタルバンで戦死した。僕は5歳、弟は3歳で妹は1歳だった。僕は8月15日のことを覚えていないが、育児日誌を基に4年前にここに連載した「生きること」(14)を開いてみた。

終戦の日。母はこう書く。
『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったりしたが、今日で終戦である。なんだか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』柏は疎開先だ。

そして昭和21年の元旦。
『元気でおみかんやお餅を沢山食べて、お正月を迎へました。
昭和二十一年一月一日。悲しい日。長崎からお父ちゃま戦死の電報が来た日。
どうかまちがいであります様に。
紘一郎、かあいそうに、かあいそうにお父様のない子になってしまった。』

ところで今日はお盆でもあった。
夏休みの娘は一人旅。昼になって蕎麦でも食いにいこうかと妻君を誘う。旨い蕎麦屋の名前がいくつか挙がったが御殿場の「砂場」を思い出した。そうだお墓まいりをして「砂場」へ行こう。お墓はフジ霊園である。

墓石の前で父と母を思い、「健やかに」と念じたが、亡くなった二人に健やかとは変だと苦笑、妻君の母親は、迎え火、送り火をやっていた。もしかしたら父とは母ここには居なくてウチ(家)にきているのかと、まあいいじゃない、志は届くよといい加減な僕たちだ。

「砂場」は、そうだなあ!旨いのは無論だが店の感じがいいのだ。僕たちの感性に合う。
張り込んで、妻君は天婦羅蕎麦、僕は鴨だ。

帰ってから「人間の条件」(1)を見る。若き日、読み込んだ五味川純平の人生を懸けた著作の映画化だ。懐かしい俳優のシビアな演技に言葉もなく見入る。
TVを点けっぱなしにしていたら、沖縄の娘・黒木メイサがスペインでフラメンコにトライしはじめた。いい女だ。
教師に驚く。心で踊れと言う。そして最後に泣かせることをいう。君は凄い。練習させた僕は踊っていたよ!

(写真 砂場の暖簾)


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2 コメント

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忘れ得ぬ日 (相子)
2011-08-21 21:04:13
兼松さん お母様は何と健気にお子さまを育てたことでしょう。
あの日私は今の中学生2年生でした。12時を境にしての空気の違いをはっきりと覚えております。両親と離れて日本に帰国していましたので、これから先どうして生きて行くのかと、真剣に考えました。
今年はまた一層この日を地震や原発と重ね辛く思いだしたことでした。
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空気が違った! (penkou)
2011-08-22 22:17:27
相子様
そうでしたか!中学2年生。8月15日の受け止め方は僕とはずいぶん違っていたでしょうね。「空気が違った」というコトバは重いですね。おっしゃる通り、地震と原発を重ね合わさざるを得なくてどうすればいいのか困ります。
母を思い起こすのですが、女は結局強いですね!つくづくと!
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