今年も8月15日が来て、去っていった。
『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったり何かしたが、今日で終戦である。
何だか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』
母が62年前に疎開先の千葉県の柏で書いた、僕の育児日誌の記述だ。母はまだ父がフィリピンのモンタルバンで2ヶ月前に戦死したことを知らない。その母も今年の元旦に亡くなった。
今年の8月15日はいつもの年と少し違う。母が亡くなって、国からもらっていた遺族年金解除の手続きをした。
遺族年金は僕たち家族が生きていく支えになったが、後年では孫たちに渡すお年玉などになる母のお小遣いになった。母は急須が好きで沢山集めた。旅に行ったときには、お面やコケシや名物の玩具などを買った。でも皆小物ばかりで安いものにしか手を出さなかった。だから形見分けといってもろくな物はないね!と弟と苦笑いした。残った思いがけないお金を、僕たち子供達3人で分けた。
終戦記念日が月遅れとはいえお盆と重なるのが、今年は何か意味があるような気がする。僕は長崎の実家で、祖父と叔父の精霊流しを味わった。しかし父の精霊流しをやったのかどうか知らない。父の遺骨がないことをふと思う。僕は戦争を許せない。
あまりの暑さに地球の異変を実感した「終戦記念日」。
韓国では「光復節」という。日本の植民地支配から開放されたことを祝う祝日だ。
日本人の建築家の設計したソウル市庁舎の存在は、嘗て大きな課題となった。後ろに高層の庁舎を増築することになって存続が決まり、道路を挟んだ前面に芝生を張った大きな広場ができた。
15日の夜、大勢の市民が集まったことだろう。新聞報道によると、今年のソウル市庁舎の外壁には、ペットボトルの素材で作った国花・ムクゲの花が飾られた。昨年は反日の被いに震撼としたが、今年の咲いたムクゲの花にホッとする。
洪(ホン)君に案内してもらった彼の故郷の大邱(デグ)では、国債報償記念公園に新しく作られた門に吊るされた鐘が、鎮魂と平和を願ってなり鳴り響いたに違いない。大勢の市民が日本統治(植民地)時代を心の奥深いところで見詰める中で。
洪君の博士論文は日本統治時代の大邱の変遷だ。大きな重い鐘の音が聞こえてくる。
Seoulで訪れた「宗廟」を思い起こす。建築家白井晟一は「李朝文化に流れている強靭な持続的な信仰の自信であり、それがまた民族の永遠性を祈る積極的な象徴」(無窓より)と述べた。歴史と今に触れ得た訪韓からまだ一週間しかたっていないのだ。
この5月に訪ねた、家族とともに小学生時代を過した天草市下田町(昔は下田村だった)と、長崎の旅の整理がまだできない。
叔母に案内してもらった数年前に建て替えられた原爆資料館で、爆心地から200メートルしか離れていない工場の写真を見て息を呑んだ。叔母は学徒動員で作業をしていたこの工場で、落ちてきた屋根の鉄骨の下敷きになったのだ。助け出された叔母が黙して語らないその8月6日。そして8月15日。
逝った阿久悠さん(作詞家)は、淡路島で終戦を迎え、「8月15日を常々第2の誕生日だと語っていた」(朝日新聞・池上彰の新聞ななめ読み)という。阿久悠さんの兄も戦死したのだ。
その8月15日が過ぎていった。
<育児日誌については連載した「生きること」をお読み下さい。写真・大邱の鐘>