日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること 補遺(1) 暑い8月15日が来て、去ってゆく。

2007-08-18 11:34:05 | 生きること

今年も8月15日が来て、去っていった。
『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったり何かしたが、今日で終戦である。
何だか涙が出る。でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』
母が62年前に疎開先の千葉県の柏で書いた、僕の育児日誌の記述だ。母はまだ父がフィリピンのモンタルバンで2ヶ月前に戦死したことを知らない。その母も今年の元旦に亡くなった。

今年の8月15日はいつもの年と少し違う。母が亡くなって、国からもらっていた遺族年金解除の手続きをした。
遺族年金は僕たち家族が生きていく支えになったが、後年では孫たちに渡すお年玉などになる母のお小遣いになった。母は急須が好きで沢山集めた。旅に行ったときには、お面やコケシや名物の玩具などを買った。でも皆小物ばかりで安いものにしか手を出さなかった。だから形見分けといってもろくな物はないね!と弟と苦笑いした。残った思いがけないお金を、僕たち子供達3人で分けた。

終戦記念日が月遅れとはいえお盆と重なるのが、今年は何か意味があるような気がする。僕は長崎の実家で、祖父と叔父の精霊流しを味わった。しかし父の精霊流しをやったのかどうか知らない。父の遺骨がないことをふと思う。僕は戦争を許せない。

あまりの暑さに地球の異変を実感した「終戦記念日」。
韓国では「光復節」という。日本の植民地支配から開放されたことを祝う祝日だ。
日本人の建築家の設計したソウル市庁舎の存在は、嘗て大きな課題となった。後ろに高層の庁舎を増築することになって存続が決まり、道路を挟んだ前面に芝生を張った大きな広場ができた。
15日の夜、大勢の市民が集まったことだろう。新聞報道によると、今年のソウル市庁舎の外壁には、ペットボトルの素材で作った国花・ムクゲの花が飾られた。昨年は反日の被いに震撼としたが、今年の咲いたムクゲの花にホッとする。

洪(ホン)君に案内してもらった彼の故郷の大邱(デグ)では、国債報償記念公園に新しく作られた門に吊るされた鐘が、鎮魂と平和を願ってなり鳴り響いたに違いない。大勢の市民が日本統治(植民地)時代を心の奥深いところで見詰める中で。
洪君の博士論文は日本統治時代の大邱の変遷だ。大きな重い鐘の音が聞こえてくる。

Seoulで訪れた「宗廟」を思い起こす。建築家白井晟一は「李朝文化に流れている強靭な持続的な信仰の自信であり、それがまた民族の永遠性を祈る積極的な象徴」(無窓より)と述べた。歴史と今に触れ得た訪韓からまだ一週間しかたっていないのだ。

この5月に訪ねた、家族とともに小学生時代を過した天草市下田町(昔は下田村だった)と、長崎の旅の整理がまだできない。
叔母に案内してもらった数年前に建て替えられた原爆資料館で、爆心地から200メートルしか離れていない工場の写真を見て息を呑んだ。叔母は学徒動員で作業をしていたこの工場で、落ちてきた屋根の鉄骨の下敷きになったのだ。助け出された叔母が黙して語らないその8月6日。そして8月15日。
逝った阿久悠さん(作詞家)は、淡路島で終戦を迎え、「8月15日を常々第2の誕生日だと語っていた」(朝日新聞・池上彰の新聞ななめ読み)という。阿久悠さんの兄も戦死したのだ。
その8月15日が過ぎていった。

<育児日誌については連載した「生きること」をお読み下さい。写真・大邱の鐘>


生きること(22) 思いを込めて生きる

2007-04-22 16:08:47 | 生きること

写真館で撮った一枚の写真がある。
父と母が椅子に腰掛け。`智`叔父が中央に立ち、僕は父の膝に抱かれている。
皆きりっとしたいい顔の写真だ。生まれて幾ばくかもないのに僕まで「これから生きていくぞ」とでも宣言しているようで威張っている。父はほんの少し微笑んでいるようにも見え、32歳とはいえ大人の風格がある。
新宿を歩いている写真(第6回掲載参照してください)もある。楽しそうだ。同じメンバーで着ている物も同じなので、この写真館で写真を撮るために出かけたときのスナップなのだろう。その写真でも僕は父に抱かれているが僕は後ろ向きだ。紘ちゃんはいつもお父さんに抱かれていたねと従姉妹によく言われたことを思い出した。
どちらの写真からも、その場のそしてその時代の空気まで伝わってくるような気がしてくる。

僕の「生きること」は67年前のここから始まった。
「吾子の生立」に書かれた父や母の言葉や、出征した父からのはがきを読むと、どんなに僕が可愛がられてきたかと身が引き締まるような気がする。両親の愛を一身に受ける子供って贅沢なものだ。
この写真の中の3人はもういない。僕も児の親だ。『生きること』に思いを込めて僕はもう少し生きていく。

22回にわたって読んでくださった皆様ありがとう。
この回で「生きること」を閉じることにする。
来月小学生時代を過した天草に行くことにした。何十年ぶりだろうか。久しぶりに同級生に会うのが楽しみだ。これから僕が生きていくための発見があるかもしれない。

生きること(21)顔を見合わせて微笑みあっているだろう

2007-04-15 15:25:07 | 生きること

元旦の午前1時過ぎ、母は逝った。
一年余り母は良く眠っていたがもう眼を覚ますことはない。僕の撮った微笑でいる母の顔と、きりっとした顔で僕たちを見やっている父の写真を見ると、「お前よく来たね、62年も待っていたよ、でもちょっとふけたね」と母に笑いかける父の姿が目の前に浮かんでくる。そういうことがあるような気がする。6年しか一緒にいることができなかったがそんな夫婦だったと思う。

僕たち三人の子供たちの見る母の姿は少しずつ違う。妹はオールマイティの母だったという。母と過した時間の一番多かった弟は、母親ではあるが母に対して身近な自分の子供のような気持ちを抱いていたような気がする。
僕は母に一度も叱られた記憶がない。そういうとあなたはノーテンキだから感じないのよ、と妻に言われそうだがそれでもどこかに近寄りがたいところがあった。

僕には小言を言わなかったが、オールマイティではなく僕にとってはちょっと頑固な一人の女性だった。それなのに何故そう感じていたのだろう。こういうことを思い出す。卒寿の祝いで僕たち三人の子供たちとその家族、つまり一族が浅草に集まったときに、しばらく弟の家にいて久しぶりに会った母は、ニコニコするだけでほとんど喋らなかったものの、思わずドキッとした。
髪が真っ白でなんとなく品がありそして可愛いのだ。僕はまだ及ばない、いやたどり着けないかもしれないと思ったのだ。

戦争という存在があった。
幼子を抱えて多くの人に支えられてきたが、それでも一人で生きなくてはいけなかった。頑固に寡黙に。そういう時代だったといえるかもしれない。母と接するごとに笑顔の底の戦争を僕はみてきた。人にはただ居るだけで教えられることがあるのだと思う。だから居るだけでもいいのだ。

大晦日の夜、気になると病院から電話があり、弟と妹に電話をした。年を越したが医師が、僕たちが着く前に母は息も脈も一旦止まったが甦生したという。父が亡くなったのは6月だが、祖父から電報でその知らせがあったのは元旦。僕たちが枕元に来るのを待っていたのかもしれないが、夫の死の知らせのあった元旦に夫のところへと、夫への気持ちを僕たちに伝えたかったのかもしれない。岡崎に居て来ることのできなかった妹も同じことを考えたという。

密葬のとき従兄弟たちから、僕の生まれる前の付き合いの様子と様々な母への想いが語られた。母は僕たち家族だけの存在ではないのだ。人の「生きること」の不思議さと大切なことを教えられる。母は92歳だった。

<写真 母の文字のある「吾児の生立」に僕の描いた落書き。口がなかなかおそくて二歳誕生過ぎでやっといろいろ云えるようになった。カキクケコが云えないのでオタアチャマである。と書かれている>



生きること(20) 二通のはがき

2007-01-05 11:13:35 | 生きること

この「生きること」を一旦閉じようと思って仏壇の引き出しを改めてみたら、二通のはがきが出てきた。一通は母が書いた宛先のない出さなかったはがきで、もう一通は真ん中から半分にちぎれてぼろぼろになっているはがき。このはがきにも宛先が書かれていないが、馬橋の住所と父の名がブルーのスタンプによるゴム印で押してある。
文字はたった三行の黒インクによる万年筆の走り書きである。

『南方派遣軍□□で○月○日
 ○○港出発予定
 元気で暮せ 子供頼む』

□はちぎれたところで読み取りにくいが「所属」と書かれているようだ。○○は書けなかったのだと思うが、知らされていなかったのかもしれない。父は一言でも気持ちを伝えたかったのだ。
投函していないのに此処にあるのは、誰かに託したのだろう。ということは母の手に渡してくださった方がどこかにいるのだ。でも何故自宅の住所と父の名のスタンプが押してあるのだろう。
この後戦地からのはがきも届いたが、何故このはがきだけが二つにちぎれぼろぼろになって、他の19通のはがきとは別のところにしまわれていたのだろう。もしかしたら母はこのはがきを肌身離さず持っていったのかもしれない。「元気で暮らせ、子供頼む」母はこれを守った。

『今お電話を仕様としたのですが、一寸も出ないのでまた端書を出します。又お芋お願いしたいのですが。今ご飯むし一ふかしでとうとうなくなりました。お願いします。入りましたらお電話下さい。』
その後に僕の従兄弟の5人の名前が書いてあって、『昨晩はみんな帰ってきている夢を見ていました。阿佐ヶ谷も又にぎやかになってよかったなーと思っていたら、空襲になってびっくりしてしまいました』

この葉書は父が出征した後、多分母の姉、頼りにしていた阿佐ヶ谷の僕の伯母に出そうとしたのだろう。ここに出てくる名前は伯母の子供たち、僕にとっては従兄弟だ。今だからわかるのだが、僕の従兄弟たちは日中戦争で中国にいたり、北海道の大学へ行ったりしていた。戦争の末期他の人たちも阿佐ヶ谷を離れていたのだろうか。時が経った。現在元気なのは一人だけだ。
母は切羽詰ってこのはがきを書いたけど出せなかったのかもしれない。
でもなぜ母はこの出さなかったはがきをとっておいたのだろう。

「吾子の生い立ち」にはこういうことは書かれていない。僕は父からの出発直前のはがきよりこちらの‘芋‘を送ってほしいという`はがき`を読むのが辛い。「また」とも書いてある。何度も無心したのだろうか。出さなかった、或いは出せなかった母。書いた後電話が通じたのかもしれないが、父のいなくなった生活を思う。

生きること(19) 貧しくても豊かだったが・・・

2006-11-29 10:43:19 | 生きること

昭和27年(1952年)3月、僕は熊本県天草郡下田北小学校を卒業した。
この小学生時代の6年間が今の僕を育ててくれたと思う。僕はいつの間にか天草弁を話すようになり、よそ者という違和感はなかった。
疎開先でいじめられたと言う話をよく聴くが、小学生時代だけでなく僕にはいじめられたりいじめた記憶がない。しかし坂を上った道の脇に`マンボウ`と呼ばれた気の良い上級生がいて何かありそうだと彼の傍に寄り添った微かな記憶がある。ささやかとはいえ身を守るすべをこの頃から身につけるものなのだろうか。

金さんというボロをまとった浮浪者がいて、学校に行く途中にあった階段をはるかに上る神社を定宿にしていたというこれも微かな記憶がある。
金さんを揶揄すると言うこともなく、金さんの存在と共にこの神社は僕達にはちょっと近寄りがたい異空間だった。此処には宮司もいないしお祭りもない。
賑やかな祭りがあり、露天が出た境内で全校生が学年に関係なく背の高さの順に並んで相撲を取った杜の神社は、川向かいの山裾にあった。神社の名前は思い出せないが下田村北の氏神なのだ。きっと。

この祭りで忘れがたい思い出がある。貧しかったが母は祭りの小遣いを僕たちに渡してくれた。露天を覗きながら僕たちが買ったのは、母にプレゼントする包丁だった。喜ぶ母の顔を見たかったのだ。母の苦労がわかっていたのかもしれない。
よく隣組(宮本)の常会があり、母は真っ暗な道を`つぶき`という黒く淀んだ底知れない深さのある下津深江川の淵を通って出かけた。僕たち三人の子供は心配しながら寄り添って母の帰りを待った。

小学校二年生になったとき新制中学が誕生することになり、校舎がないので講堂を仕切って教室にしていたことを覚えている。そういう時代だった。
1年生の時は優しい横山先生、2年と3年は西島明子先生、西島先生になにを教えていただいたのか覚えていない。きっと文字の読み書きや算数という基礎を教えててくださったのだと思うが僕の記憶に在るのは、僕たちのクラスをとても可愛がって下さったことだ。僕たちも先生が大好きだった。西島先生を想うとき、二十四の瞳の大石先生を連想する。先生にとっても初めてのクラス、僕たちは特別な存在だったのではないだろうか。先生も僕たちと一緒に様々なことを学んだのかもしれない。今でも先生の明るい笑顔が即在に目の前に現れる。

4年生から卒業するまでの先生は、正しく恩師矢野四年生先生だった。
先生は熊本県菊池郡の出身で、師範学校を卒業して下田北小に赴任された。僕たちのクラス(学年)が始めての生徒だ。昭和4年に生まれたので四年生だ。
新しい日本を夢見て生涯を子供の教育に懸けた若干21才。僕は矢野先生に巡り会ったのだ。
先生は後に玉川大学を卒業され、東京の足立区の小学校で教鞭をとり、鹿浜西小学校の校長を最後に定年退職されたという。多分先生に触発されたのだ、
6年生のとき抽象画を描くようにもなった「僕の生きること」の始まったこの時代を語るのは別の機会にしたい。
天草を訪ねて同級生に会い、その時代を地元の子供たちはどう見ていたのかを聞く。僕の一家はどういう存在だったのかも。そして僕の住んだところを見てからに・・・

サーカスが来た。講堂で映画会があり、村中の人が集まる運動会があり、隣村との対抗の村を上げての野球の大会、学級新聞も出した。僕にとっては貧しくても豊かな天草の生活だったが、夫を失い、遠く東京から離れた母には辛い時代だったのかもしれない。
思い立って天草からの母の半生を聞こうとテープを何度も回したが、いつも同じところで先へ進まなくなった。僕たち3人の子供をつれて防波堤に行き、一緒に飛び込んで僕たちの父のところに行こうとしたところで。

<写真 西島先生を囲んで>

生きること(18)  「吾が児の生立ち」最後の記述

2006-10-26 23:52:05 | 生きること
 
『六月十三日。お母ちゃま、紘一郎、庸介、敬子の四人は、阿佐ヶ谷のおばちゃま、アパートのおじちゃまに送っていただいて、長崎にきました。
これから長崎での生活が始まります。みんな元気に育ってくださいね。』

東京から長崎まで汽車で24時間では着かなかった。長崎の駅のホームは屋根がなく、ぐにゃりと曲がった鉄骨がむき出しのままだった。
祖父に引き取られた僕たち四人は、原爆の投下後まだ10ヶ月しか経ってない街に来たのだ。諏訪神社の近くの父の実家はその山にさえぎられて直接の被害は受けなかったが、ケロイドの刻印された瓦が屋根にあった。

食べるのにさえ困るときに長男とはいえ、戦死した息子の家族を引き取とる厳しさが祖父にはあったと思う。僕たちはそこで生活する辛さを味わうことになるのだが、60年を経た今でもまだその様子は書けない。
小学校一年生の僕がほんの少しだが大人の世界を垣間見た数ヶ月だった。

実家は中庭のある、間口がさほどなく奥の深い町屋風の作りだが,傷みはひどくなったものの今でもほとんどそのままの状態で建っている。中庭に面して大きな仏壇のある座敷や、そこに掛かっている額などが即在に頭に浮かぶ。家族と離れ、長崎中学に入学して約1年ここで生活したので懐かしさと共に,愛おしさも覚える家だ。しかしこの家の存続にも難しい問題がある。

<天草 下田へ>
その年、昭和21年の11月、僕たち家族は長崎から熊本県天草郡の西海岸、下田村に移住した。
祖父が陶石採掘事業をやっており、母はその管理や事務処理を担うことになる。同時に採掘した陶石を船に積む管理をやりながら作業も手伝った。潮の満ち干にもよるのだろうが、僕の記憶では、早朝まだ薄暗いうちから川の河口に着けた船にゆらゆら揺れる足場板を渡して猫車で船に積み込むのだ。150センチにも満たない小さな母が、良くそういう作業に耐えたとおもう。母は若かったのだ。
明け方に作業をやるのは、皆昼間は農作業があるからだろう。下田の人にとっては貴重な現金収入の機会だったのかもしれない。

そうやって母は難しい天草弁の下田の人々に、少しづつ受け入れられるようになったのだと思う。

坑道の奥にある採掘場では、カンテラで明かりを取り、爆薬を仕掛けて石を掘り出す。その爆薬管理も母が行うことになる。家の目の前の頂上まで段々畑のある丸い山の人目につかない一角にその爆薬庫があった。僕たち子供には立ち寄り難い場所だった。

天草陶石は品質が良く、高級陶器の材料としての評価は今でも高い。
村の中心部に日本陶器の出先があった。ぼくの祖父とは違う形態で陶石事業に関わっていたのだとおもう。そこの子息井上君が僕の同級生だった。背が高く足も速く、成績は抜群だった。彼は理系で音楽や絵が苦手、僕とは正反対だったが仲良くなった。と言うより僕たちの学年(クラス)はとても仲が良かった。

僕の家にはクラスの男の子がよく遊びに来た。でも井上君は一度も来た事がない。そして彼の家には敷居が高くて立ち寄りがたかった。その彼は後年九州大学の教授になったと聞いたことがある。気になってインターネットで調べてみたが名前が出てこない。さてどうしているのだろう。
男性12名の小さなクラスだった。何十年経っても忘れがたい一人一人が個性豊かな子供集団だったのだ。12名のうち3名が床屋になった。
末吉君は今でも下田で開業しているし、大阪で店を開いている二人のうち、西条君は嘗て技術を競う全国のコンクールで優勝したことがある。

なにより先生に恵まれた。いわゆる代用教員だったかもしれないのだが教育に対する志があった。いやそういう言い方ではなく、子供が可愛くて一緒にいることの楽しさを自然に受け止めていたような気がする。

半農半漁の平地の少ない小さな村だが村の真ん中を下津深江川が流れ、温泉が出たし、温泉祭というお祭りもあった。夏には部落対抗のペーロン、沖縄で言うハーリーも行われた。信じられないくらい貧しかったが、やはり新しい時代を切り開く気概が先生にもあったし村にもあった。戦争には負けたが開放感に満ちていた。

この『十一月二十四日。船に乗って、おじいちゃまにつれられて、私たち四人、天草の下田に来ました。下田はお芋の多い所で、毎日毎日お芋をたべています。』

『十二月二日。下田国民学校に入学する。
一年生は三十五人。小さい学校だ。
けれど、高いところに建っていて、けしきはよい』

『吾が児の生立ち』の母の記述はこれが最後だ。
この小学校時代に今の僕の原点がある。天草で僕の「生きること」が始まった。


<写真 「吾が児の生立ち」の表紙>

生きること(17) 一年生になる

2006-10-17 15:57:24 | 生きること

『昭和21年4月13日 千葉県柏国民学校へ入学。出山先生(女)
庸介と敬子も一緒につれて入学式に行く。
紘一郎は新しい金ボタンにお母ちゃまの作った靴をはいてうれしそうだ。お父様がいらしたらね。
始め組み分けがあって(紘一郎は三組に入いる)次に先生につれられ講堂に入り、校長先生のお話があり、お教室に入って先生のお話がある。明日から八時はじまりである。
紘一郎は講堂からお教室に入る時に、お母ちゃまいないと泣いたのよ』

読み返すとちょっと恥ずかしい。弟や妹が一緒なのに情けない。
僕は今は涙もろくなったが、泣き虫だとは思わない。しかし思い起こすことがあるのは僕はシャイだということだ。そう言うと冗談を言うな、という顔をされるが、言い換えれば心細がりやだ。父が早世したからだろうか。

僕はこの入学のことを覚えていない。学校が記憶に残り始めるのは天草の下田小学校に転入してからだ。その間の生活は生々しく記憶に新しいこともあるのだが。
僕は柏小から長崎の勝山小学校に転校し、すぐに天草の下田小学校へ、中学は兼松家の総領息子なので家族と離れて都会の長崎中に入学、祖父が亡くなって下田に戻り、中学2年のときに柏中学に転校した。
この時代僕のように転校する子供も多かったのではないだろうか。

母は父が戦死するなんて思ってもみなかったに違いない。父が生きて帰るぞ、と宣言していたからだ。戦死の報を聞いてもどこかできっと生きているとは思っただろう。同時に心の奥底では死んだことも受け入れただろう。そして子供たちをしっかり育てなくてはいけないと無意識にも考えたと思う。

母はラジオの「訪ね人」を何年も何年も聞いていた。ラジオに聞き入る母の姿が僕のまぶたに焼き付いている。しかし僕は口には出さないが父はもう死んだのにと気になりながらも母の姿を見ながら思っていたような気がする。
子供は残酷だ。すぐに記憶は薄れ今何をするかに眼を奪われる。

父がいなくても小学生になる。母の作った靴をはいて。






生きること(16) ごうの寅

2006-10-09 12:36:05 | 生きること

母は大正3年(1914)6月4日、`小寺松次郎`と`すみ`の末っ子として三重県四日市で生まれた。ごうの寅の生まれなのよねと時折口に出した。強くないのにね、と言いたいようだ。
長男は後に品川区の明電舎の近くに家を借り、`大崎の`と言われた伯父で、男3人女4人の7人兄弟、次男と三女は早くして亡くなったようだ。
長女はここに書いてきた父の手紙やこの「吾が児の生立」に良く出てくる`阿佐谷`の伯母で、僕の父や母が頼りにした伯母だった。僕はこの母方の祖父の記憶がないが、阿佐ヶ谷の伯母のふっくらした笑顔やゆったりした物腰は良く覚えている。

父(僕にとっては祖父になるのだが)松次郎は、四日市の水道局長など務め、市の水道敷設に貢献したと母の自慢の父だった。太っていてお酒が好きだったと母が言うが、四日市の自宅の庭で撮ったらしい着物を着た松次郎おじいさん夫婦のセピア色になった写真がある。いかにもお酒が好きそうだが、どっしりと貫禄がある。やはり父方の祖父と同じ明治の男だ。
写真を見ていると、改めて僕はこの祖父や祖母の血を引いているのだという不思議な感じがしてくる。僕の娘が「おじいちゃんってかっこいいよね」と仏壇の上に掛けてある長崎に生まれた父の写真をみながら言うのを聞いて、そうだ、僕の父は娘の祖父でもあるのだと不思議な気がしたことを思い出した。

さてもう一つの母の自慢は、自分の母校四日市高女が、全国バレーボール大会で優勝し街中が大騒ぎをして凱旋行列をしたことだ。更に卒業式のとき「右総代兼松千代子」と卒業生を代表して卒業証書を貰ったようで、お酒を飲むとよく「右総代・・・」と嬉しそうに繰り返した。級長もやったようだ。

母は甘いものも好きだが、何時の頃からか晩酌で日本酒を飲むのがなによりの楽しみになった。自分では味はわからないとは言いながら、おじいさんもお酒が好きだったと、嬉しそうに飲んでいるのを見ていると、酒は母の生きがいのひとつだと言いたくなる。飲めなくなった今でもお酒を送ってくださる方がいる。おいしいお酒なのでたいてい僕が飲んじゃうのだけど。

さて母と父がどこで出会い、或いはお見合いをして一緒になったのかよくわからない。聞きそこなった。
一緒に晩酌をやりながら四方山話をするときに出てくるのは、中野に住んでいたとか、千駄ヶ谷にいてよく神宮球場に東京六大学野球を一人で見に行ったことだ。背が小さいので前のほうで観たいのに案内人が上へ上へと指差すので、いつも上のほうから見ることになってしまったと文句を言っていた。お酒を飲むときの定番話だ。

何故末っ子の母が父母の元を離れて一人で東京に出てきたのか本人は口にしない。末子のお嬢さん育ちだった母をよく一人で東京に行かせたものだと思うが、僕たちが`アヤコババア`とよぶ泰伯父の娘、母と仲の良い僕の従姉妹(といっても母の妹と言っても良いくらいの年で僕よりづっと年配)に聞くと、四日市にいたのでは良い人に巡り会えないので東京に出したんじゃないのという。
そして父と出会い僕が生まれた。

「吾が児の生立」十一ヶ月目の記事にこう書いてある。
『十二月二十二日。私たちの結婚記念日。紘一郎をつれて、高円寺へ写真をうつしにゆく』
昭和13年のことだ。式場は目黒雅叙園だったと聞いた。集合写真はないが、二人の立派な記念写真が残っている。二人とも緊張感に満ちている。父と母の生活はこの日からの6年間だった。

<写真 昭和23年僕が3年生、弟が1年生のときの写真だ。母は生活の苦しい中でも、毎年4月1日から3日まで行われた天草下田村の温泉祭のときに家族の写真を撮った。僕は靴をはいているが、弟と妹は藁草履だ。この草履も母が作ったのだろう>

生きること(15) 昭和21年元日

2006-10-05 23:25:12 | 生きること
『元気でおみかんやお餅を沢山食べて、お正月を迎へました。
昭和二十一年一月一日。悲しい悲しい日。長崎からお父ちゃま戦死の電報が来た日。
どうかどうかまちがいであります様に。
紘一郎、かあいそうに、かあいそうにお父様のない子になってしまった。』

母はいつまでも、なにもお正月に電報を打たなくてもいいのにといっていた。

<死亡告知書は6月22日の日付で、祖父のところに来ている。宛名も日付けもない封筒に入っているので、長崎に転居したときに祖父から渡されたのだろう。その半年前の大晦日に祖父のところに戦死の知らせが来たのだと思う。祖父は動転して母のところに電報を打ったのに違いない。祖父にとっても長男に死なれたのだ>

生きること(14) 8月15日・何だか涙が出る

2006-09-24 16:56:10 | 生きること

昭和20年の2月、僕は6才、満で5才になった。
「吾子の生立ち」には`二つの時の主な事`から`六つの時の主な事`そして最後は`七つの時の記事`とタイトルは変わったが主な出来事を書くページがある。
`六つの時の主な事`には、1月27日に柏に疎開したことが書かれている。伯父が創設した建築 会社の社宅があった。そこへ疎開させてもらったのだ。

父の手紙に良く出てきた「駒込」というのが早稲田で村野藤吾の同級生だった伯父、母の兄だ。
後に引越し、大崎の伯父になった。
伯父は長男で、母は末っ子。20才も年が違い妹とはいえ自分の娘のような気がしていたのではないだろうか。僕たち一家はこの伯父に世話になり、支えられて生きてきた。

村野さんは日本を代表する建築家になったが、伯父はささやかな建築会社を新橋に作った。
早稲田の出身でありながら交詢社の社員になり、毎日夕方になると必ず銀座の交詢社に立ち寄った。皆に愛された名物会員だったようだ。名門我孫子でも名物会員だったという。キャディーが伯父につきたがったそうだ。僕もお下がりのゴルフクラブを貰ったことがある。エスカイヤーという洋服屋からよく電話があった。おしゃれで懐の深い伯父だった。

何故こんなことを知っているかというと、昼間は伯父の会社で働いたからだ。夜は伯父の明大教授とのコネで、今でいう裏口入学で明大の建築学科の二部つまり夜学に通った。ジャーナリストになりたかった僕は、高校時代理系の勉強をまったくしていなかったので。寛容性のある時代だったのか。過去形は使いたくないがよき時代だったといって良いのかもしれない。
どこかに書いたことがあるのだが、僕が建築に関わることになったのは、というわけで何がしかの挫折感、夢見た将来に思いを残しながら、世話になった伯父の希望に添うところからスタートした。

終戦の日。

『昭和二十年八月十五日。時々の空襲で、防空壕に入ったり何かしたが、今日で終戦である。
何だか涙が出る。
でもこれからは、子供たちもびくびくせず、のびのびと遊べる。
柏はまはりが広いので、はだかで、はだしで、本当にのびのびと遊べる』
1月の疎開の次の母の記述だ。

『九月に敬ちゃん、悌ちゃんが(駒込の伯父の長女の子供たち、孫になる・敬ちゃんは僕と同い年)鬼怒川から引っ越してきて、又お友達がふえてよく皆で毎日遊びます。
紘一郎はよく敬子のめんどうをみます。本当に何でもよくわかる。
かわいそうなくらい良い子です。
お父ちゃまがいないから、おかあちゃまの云うことをよくきいてくれます』

僕には終戦の日の記憶がない。しかし千葉県柏は空襲を受けなかったが、遥かな東京の方の空が赤く染まったことを覚えている。B29の編隊の姿が微かな記憶として、そしてそのゴーという爆音が耳に残っている。何度も何度も家の上空を通ったような気がしている。

このページにはなんだろう、家らしきものと、その上を飛ぶ8機の飛行機の落書きで一杯だ。字の上からの書き込みなので母が書いた後に描いたのだ。
飛行機は下から見上げた格好なので、その姿が眼に焼きついていたのかもしれない。まだ杉並にいたときに何冊かの軍艦や飛行機の戦闘場面の絵本があった覚えがある。時々出てくる色付の夢のような黒と赤の二色。あるいはそういう絵本を写したのだろうか。

『何だか涙が出る』
母は淡々と書いているが淡々としか書けなかったのだろう。
かわいそうなくらい良い子ですと書く母。家族って良いなあと思う。