田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

朱の記憶(5)  麻屋与志夫

2008-11-17 07:26:16 | Weblog
 この年から水彩の絵の具をつかって絵を描く。
 わたしは満を持してその絵の時間に臨んだ。
 
 戦時中にもかかわらず、エンピツすら買えないほどの品不足なのに、わたしには すべてが準備されていた。
 
 わたしが生まれてすぐに母が学用品から衣類まで備えておいてくれた。
 おかげで、ビロードの学生服は六年生になっても着ていられた。
 成長にあわせて何着も買っておいてくれた。
 水彩絵の具がそろっていた。
 それも二十四色。母はすでに不在だった。
 母の記憶は、わたしを雪の庭からだきあげてくれたあたりでプッンととぎれてしまっていた。
 いやそれすら曖昧だった。
 あれは母ではなかったかもしれない。

 母にはわたしとながくは暮らせないという予知があったのだろうか。

「これはなんだぁ。おまえ……狂っているぞ」
 美術教師がかんだかい声でわたしのほほをうった。
 その痛みに泣きだしたいのを必死でこらえた。
 わたしは画用紙を赤の濃淡だけでうめた。
 あれほど恐れていた赤なのに、赤い血のような色の絵を描いてしまった。
 恐怖で筆先は震えていた。
 赤はわたしにとって恐怖の色。
 戦慄の色。
 忌むべき色だった。
 
 それなのに、どうして……。

「赤の絵の具をなすっただけだろう。こんな絵があるか、バカもの」
 
 母はわたしが絵描きになることを希望していたのだと思っていた。
 わたしが、有名な絵描きになれば母がどこからともなく現れる。
 血のような色を使えば、わたしの絵だと母にはわかってもらえる。
 赤い絵を描きつづければいつか母に再会できるのだ。
 幼い時からそう思いこんでいた。
 
 わたしには静かな生活を母はさせたかったらしい。
 美しいものにとりかこまれた生活は母の望みだったはずだ。
 母と静かに絵を描いて暮らすのが夢だった。それなのに……。

「だいいち黒で周りを囲み……中に赤い絵の具をなびりつけただけだ。なにを描こうとしていたんだ。え、なにを描くつもりだった」
「周りを黒でふちどりして、その中を赤く染めた。ぬりえかこれは」
「ぬりえ。ぬりえ。ぬりえ」とみんなが囃立てた。

「そんなことがあったの。赤にたいしてトラウマがあるのね」
 と理解を示すM。
 わたしとK子は黄昏た水神の森でモデルをつとめていた。
 絵筆をふるいながらMがやさしい表情でわたしたちを見ていた。

 色彩こそすべてだ。
 カンディンスキーがコンポジションと呼んだ作品群を小学校の絵の先生は知る由もなかった。
 あのとき美術教師の、あの一言がなかったら、わたしの人生はかわったものになっていた。
 わたしはまちがいなく絵の勉強をはじめていたはずだ。


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