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ラオス現代文学全集 - 4 ( ラオス文学を理解するための感性 )

2019-07-11 15:00:06 | 徒然の記
 ドワンチャンバー氏の短編、『その一言が・・』を紹介します。薄給の下級官吏が、羽振りの良い幼馴染と偶然街で顔を合わせ、仲間たちに誘われ高級レストランへ行くという話です。
 
 爪に火をともすように暮らしている主人公は、場違いな店で、次々と出される料理のうまさに舌鼓を打ち、家で待つ妻や子の顔を思い浮かべます。一人でこんな美味しいものを食べず、なんとかして、家族に食べさせてやりたいと、心の中で葛藤します。贅沢な友人たちが、食べきれない量の料理を注文し、勿体無いほど残します。彼には想像もつかない無駄遣いで、自分を待つ家族の顔がちらついて離れません。
 
 家族に薄情ではありませんが、こういう経験をしたことがありません。バブル景気の頃、客先接待のため高級店へ行き、日頃口にしないようなものを味わったことはありますが、それはただそれだけのことでした。
 
 自分も家族も普通に暮らしていましたから、主人公のように切実な思いをしたことがありません。食べ物で深刻に思い悩むような人間も、周りにいませんでした。
 
 貧乏といえば、昔ノルウエーの作家ハムスンの『飢え』を読んだことがあります。凄まじい貧しさでも、あれはむしろ、工夫を凝らした文章の面白さでした。
 
 「真昼のビエンチャン、まるでオーブンで焼かれるような、日差しが照りつけている。」「ブンコーンは、自宅へ向かういつものバスに乗ろうとしたが、体重90キロもあろうかという、肥った人物に声をかけられたので、引きつった笑みを浮かべながら、振り返らねばならなかった。」
 
 これが、作品の書き出しです。「オーブンで焼かれるような日差し」というありふれた言葉と、「引きつった笑み」という、推敲の気配も感じられない言葉に興味を削がれました。
 
 書き出しの二、三行目のため、作家はある限りの力を注ぐと、何かの本で読んだことがあります。書き出しの新鮮さ、奇抜さ、面白さなどのため、作家は何日も呻吟すると聞きます。意識していませんでしたが、こういう退屈な文章を読まされますと、なるほどと思わされます。
 
 著者は革命後、情報文化省に所属し、ラオス作家協会の設立に参加しています。50年以上も小説や詩や随筆等を発表し、外国文学の紹介もしています。日経アジア文化部門賞や、東南アジア文学賞を受賞し、政府から「国家芸術家」の称号も贈られています。ラオスでは有名人で、有力者の一人です。しかし文学に限らず、芸術は肩書きや地位が生み出すものでありませんから、感動の手助けにはなりません。
 
   「ブンコーンは、これだけ立派な店なら、食べる時もきちんとしなければならないだろうと考えて、礼儀正しく控えめに振る舞った。」「とは言っても、周りの者たちが、食べながら互いにガヤガヤと騒ぎ立てる声は、聞いている者の耳の鼓膜が痛くなるほどだった。」
 
 「彼らは、地位のある人物であるにかかわらず、傍若無人に騒々しく飲み食いし、聞こえてくるのは、汚い言葉ばかりだからどうしようもない。なんとまあ、お偉いさんでも、市井の口語や俗語を話すとは ! 」 
 
 昔三島由紀夫は、私小説の露骨な描写に眉をひそめ、「歌舞伎の舞台でストリップをしているようなもの」と、酷評していましたが、なんとなく納得させられます。作者は、小説という立派な舞台で、下手な芝居を演じている役者です。
 
 「ブンコーンは、急いで白く美しい米飯をすくって口に運び、モグモグと噛み締めた。」「炒め物やチャオを米飯の上にかけ、鶏肉をつまんでかぶりついた。」
 
「ああ金持ちは、こんな美味いものを食べるのか。まるまる一羽分の鶏肉が、あっという間に、なくなってしまう。」「そこへ行くと我が家では、たまに鶏肉が何切れか手に入って、煮物をこしらえても、野菜や丸ナスが多すぎて鶏肉がどこにあるのか、わからなくなってしまうというのに ! 」
 
 気前の良い友人が勘定を済ませますと、支払額は、ブンコーンの一ヶ月分の給料と同じでした。友人とその仲間が店を出る時、ブンコーンはトイレに行くふりをして、一人残ります。調理場の入り口まで引き返し、ウェイトレスに頼みます。
 
 「さっきの鶏肉の残りを、包んでくれないかい。」
ウェストレスの顔に、侮蔑の色がちらりと浮かんだのを見て、ブンコーンはすぐに続けた。
 
 「持って帰って、犬に食わせてやるんだよ。」
 
 午後2時近くなって、家に帰り着いた時、ブンコーンは子供たちに、ビエンチャンの高級レストランの鶏肉を、食べさせてやれるという満足感でいっぱいでした。細君は包みを台所へ持って行ったが、すぐ走り出てくると、目を見開いて叫びました。
 
 「父さん、あんた。いったいどこから、豚の骨を拾ってきて、子供にやろうって言うの ! 」
 
 「 何てことだ  ! 見るとそれは、鶏と豚の骨がぐちゃぐちゃに混ざったもので、」「かじって食べようものなら、心臓にグサリと突き刺さってしまいそうだった。  」「さて、いったいどんな悪魔のせいで、彼は犬に食わせるなどと、余計な一言を口にしてしまったのだろう。」
 
 と、これが最後の文章です。
 
 4人のラオス人作家による、17編の内の一つを紹介いたしました。残りの3人も、みな東南アジア文学賞の受賞者で、政府の役人だったり大学の教授だったり、ラオスの著名人です。私は今回で書評を終わりにし、残りの作品は紹介しません。申し訳ないことですが、どうやら私にはラオスの優れた文学を読むための感性が、欠けているようです。
 
 訳者の二元氏には、感謝の言葉を贈ります。
 
 「私の知らない世界を、教えていただきました。この世の広さを、知りました。」
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