ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 9

2024-08-25 20:21:26 | 徒然の記

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

          第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

        第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

              第三段階  日本国憲法制定

  第二段階の「政府説明」は、「マッカーサー草案」が日本側の検討を経て「憲法改正草案要綱」となり、さらにこれが衆議院、貴族院両院の審議を経て「日本国憲法」として公布されるまでの流れを説明しています。

 我妻氏が講演会で述べた下記日程と照らし合わせながら読むと、南原総長の影の苦労が伺えます。

  ・昭和21年2月14日   南原総長の発案で、学内に「憲法研究委員会」を設けた

  ・昭和21年3月6日  突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された

             これについて討議決定し、第一次報告書を作成した

  ・昭和21年4月17日   次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した

 特にコメントをせず「政府説明」をそのまま紹介しますが、注意深く読むと、学徒の好奇心が満たされます。クーデターでしかできない「憲法改正」作業を、自然な流れであるように説明していますけれど、一番苦労した部分だと思います。

  ・総司令部案に基づく日本案の起草作業は、それを日本語に翻訳するというかたちで、まず「3月2日案」にまとめられた。

  ・その主要な特色は、内容を整理するとともに、表現を改めることによって、できるかぎり日本側の主張を生かそうと試みたところにある

  ・【参考】「3月2日案」の主な特色 (総司令部案との主な相違)

     1.  前文を省略

    2.  天皇の地位に関する「人民ノ主権的意思」を「日本国民至高ノ総意」と改めた

                (主権が天皇から国民に移るという、革命的な変革を条文上明記することを回避する趣旨)

    3.  天皇の国事行為について、内閣の「補弼及協賛」を「補弼」に変更

    4.  2月13日会談で松本国務大臣が「一番驚いた」条文である「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表トシテノ国家ニ帰属ス」を削除

    5.  一院制を二院制に変更

    6.  国会召集不能の場合における、応急措置に関する「閣令」規定の追加

     ・「3月2日案」は、同月4日に総司令部に提出されたが、総司令部から早急に確定案を決定したいという意向が示され、同日から5日にかけて徹夜の折衝が行われた。

 ・これは「3月2日案」を英訳し、英文に整えたものをさらに正確に内容を伝えるような日本語に再び翻訳するという作業で、全条項にわたり詳細な検討が行われた。

   ・3月6日、全条項について合意に達した結果が「憲法改正草案要綱」として決定され、国民に公表された

    ・草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、参議院の緊急集会制の新設など若干の点に修正が加えられた。

  ・それと並行して要綱を成文化する作業が進められ、4月17日、我が国で初めてのひらがな口語体の条文が作成され、それが枢密院への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。

 ここで我妻氏が語った「憲法案」検討日程と照らし合わせますと、4月17日という日付が一致します。

  ・昭和21年4月17日   次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。

 「憲法案」の名称が様々あるので戸惑いますが、「ねこ庭」は「政府説明」にある「日本側の検討・要望・修正」は、日本の憲法の第一人者である宮沢教授が深く関与していると推察します。

   ・内閣草案の公表に先立つ4月10日、はじめて女性の選挙権を認めた普通選挙制による総選挙が行われ、5月22日に第一次吉田内閣が成立した。

  ・枢密院で可決された内閣草案は、明治憲法73条の定める手続に従い、6月20 日、新しく構成された第90回帝国議会の衆議院に、「帝国憲法改正案」として勅書もって提出された。

 ・衆議院は、原案に若干の修正を加えたのち、8月24日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付した。

 ・貴族院の審議は8月26日に始まり、ここでも若干の修正が施され、10月6日これも圧倒的多数をもって可決された。

  ・翌10月7日、衆議院がその修正に同意し、帝国議会の審議が完了した。

  ・改正案は枢密院の審議を経て、10月29日天皇の裁可があり、11月3日 「日本国憲法」として公布された。

 ・日本国憲法は、昭和22 ( 1947 ) 年5月3日から施行された。

 次回は、「第三段階  日本国憲法制定」に関する政府説明を紹介します。この中に、「目から鱗」の事実が含まれていますので、ぜひ「ねこ庭」へ足をお運びください。

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憲法制定過程に関する、政府の資料 - 8

2024-08-25 14:12:00 | 徒然の記

  戦後の日本が抱える最大の課題となってる「憲法改正問題」で、吉田首相やマッカーサー元帥、あるいは宮沢氏に注目する人がいても、南原繁氏に焦点を当てる人はあまりいません。

 しかし憲法改正の流れを検討してみますと、南原氏が重要な役割を果たしていることが分かります。

 ホイットニー民政局長か、ケーディス大佐からなのか、絶妙のタイミングで極秘の「マッカーサー草案」を受け取り、学内の学者たちに検討させています。

 表には出ませんが、GHQとのやりとりを氏が行なっていることは、我妻氏の講演会での説明が教えていました。 

  南原氏の存在がなかったら、「日本国憲法」は制定できなかったかもしれない。

 こんな推測をするのは「ねこ庭」だけのようですが、検討する価値はありそうです。南原氏は著名人なので、探せば情報が見つかると思っていましたが、予想が外れました。

 東大総長としての氏に関する情報は、ウィキペディアに限らず沢山ありますが、GHQとの関係を教えるデータは見つかりませんでした。

 諦めかけていた時、富山国際大学・子供育成学部大薮俊宏教授の11ページの論文を見つけました。

 〈 戦後教育改革と戦時期南原繁の教え哲学 〉( GHQが「畏敬」した「洞窟の哲人」)

 分かりにくいタイトルがつけられていて、内容も読みにくい文章です。南原氏の専門は政治学ですが、大薮氏の説明では教育問題の専門家として語られています。

 GHQが畏敬したと書いてありますが、どんなところで、どのように畏敬したのかが分かりやすく書いてありません。戦前から氏はアメリカの教育界の専門家と交流があり、そのアメリカの専門家が、日本の教育改革のためやってきたGHQのメンバーだったと、そういう話のようです。

 GHQが畏敬していたのでなく、GBQの教育改革委員会のメンバーに尊敬されていたようですが、それがどうして「憲法改正」作業とつながるかについては、具体的に書かれていません。

 大薮教授の論文が分かりにくいのか、「ねこ庭」の理解力が無いのか、またテーマを外れますが参考のため一部を紹介します。忙中閑あり、知識の遊びも、息抜きになります。

 ・戦後教育改革の「教育基本法」や 「6・3・3制」は、米国流教育制度の直輸入なのか。

 ・これは、戦後教育の本質的理解に関わる。

 ・憲法制度をめぐる吉田茂らの動きと対照することによって、南原繁らによる戦後教育改革が有する連合軍進駐以前の、戦前・戦中期に遡る一貫性の一端を明らかにしつつ、南原茂がGHQに及ぼした影響力に焦点を当てる。

 枝葉の説明が詳し過ぎると主題が不明確になるという、ダメな論文の見本みたいで、読むほどに分からなくなります。GHQとの関係が知りたいのに、関係のない話にどうして力を入れるのかと、苦情が言いたくなります。

 これはまさに「ねこ庭」のブログと同じで、話があちこちへ飛び、読者はうんざりさせられます。自分の反省も加えながら、南原氏とGHQの叙述を探します。

 ・昭和20年8月30日にマッカーサーが厚木の飛行場へ降り立つと、連合国軍の総司令部が東大を接収して設置されると言う噂が流れた。

 ・この段階で先手を打つようにして、南原法学部長と内田総長が文部省を訪ねて、戦時中にも軍の接収を断って大学の使命を継続したことを、占領軍に理解してもらうよう交渉している。

 ・東大は軍の接収を断り続けたという実績が功を奏し、占領軍の接収を免れることとなり、GHQは日比谷の第一生命ビルを接収する。

 要するに大薮教授が説明しようとしているのは、南原氏が、日本軍に対しても、政府に対しても、GHQに対しても、「学問の自由と独立」を守るためなら妥協しない人物だったと言うことです。

 戦前から信念のある人物だったので、米国の教育界の学者に敬意を持たれていて、その学者だったか、同僚だったか、教え子だったかが、日本の教育改革のため組織されたGHQの委員になっていたと、どうもこんな話です。

 米国教育界内部の話が、対立する学者との関係で説明され、これが又軍人になって、上司と部下になったりと、詳細などうでも良い説明が続くので、必要な箇所が簡単に見つかりません。

 探すのに疲れますので作業を中断し、「ねこ庭」が理解した範囲での結論を紹介します。

 ・南原氏とGHQそのものとの関係は友好的でないが、教育改革委員会の主要メンバーに氏は高く評価されていた。

 ・南原氏の一貫したリベラルな態度が、やがてGHQの信頼を得ることとなり、「憲法改正」作業への橋渡し役につながった。

 「ねこ庭」の理解が正しいかどうかは、訪問された方々の判断にお任せします。関心のある方は、ネットで調べられると良いのではないでしょうか。

 話を切り上げて先へ進もうとしているのは、大薮氏の論文のように散漫なシリーズにしないためです。今回のテーマは、「憲法制定に関する政府資料」の紹介でした。

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

         第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

       第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

           第三段階  日本国憲法制定

 上記三段階の第一段階が終わり、次は第二段階の紹介です。もしかすると「ねこ庭」のシリーズは、大薮氏の論文どころでない「散漫さ」で訪問される方々を悩ましているのかもしれません。

 「目から鱗」の話を紹介すると言いながら、まだしていません。酷評した大薮教授にもお詫びしながら、次回の予定を述べます。

       第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

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