【 1 】日本国憲法の制定過程の概観
第一段階 「マッカーサー草案」の提示まで
第二段階 「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで
第三段階 日本国憲法制定
第二段階の「政府説明」は、「マッカーサー草案」が日本側の検討を経て「憲法改正草案要綱」となり、さらにこれが衆議院、貴族院両院の審議を経て「日本国憲法」として公布されるまでの流れを説明しています。
我妻氏が講演会で述べた下記日程と照らし合わせながら読むと、南原総長の影の苦労が伺えます。
・昭和21年2月14日 南原総長の発案で、学内に「憲法研究委員会」を設けた
・昭和21年3月6日 突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された
これについて討議決定し、第一次報告書を作成した
・昭和21年4月17日 次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した
特にコメントをせず「政府説明」をそのまま紹介しますが、注意深く読むと、学徒の好奇心が満たされます。クーデターでしかできない「憲法改正」作業を、自然な流れであるように説明していますけれど、一番苦労した部分だと思います。
・総司令部案に基づく日本案の起草作業は、それを日本語に翻訳するというかたちで、まず「3月2日案」にまとめられた。
・その主要な特色は、内容を整理するとともに、表現を改めることによって、できるかぎり日本側の主張を生かそうと試みたところにある
・【参考】「3月2日案」の主な特色 (総司令部案との主な相違)
1. 前文を省略
2. 天皇の地位に関する「人民ノ主権的意思」を「日本国民至高ノ総意」と改めた
(主権が天皇から国民に移るという、革命的な変革を条文上明記することを回避する趣旨)
3. 天皇の国事行為について、内閣の「補弼及協賛」を「補弼」に変更
4. 2月13日会談で松本国務大臣が「一番驚いた」条文である「土地及一切ノ天然資源ノ究極的所有権ハ人民ノ集団的代表トシテノ国家ニ帰属ス」を削除
5. 一院制を二院制に変更
6. 国会召集不能の場合における、応急措置に関する「閣令」規定の追加
・「3月2日案」は、同月4日に総司令部に提出されたが、総司令部から早急に確定案を決定したいという意向が示され、同日から5日にかけて徹夜の折衝が行われた。
・これは「3月2日案」を英訳し、英文に整えたものをさらに正確に内容を伝えるような日本語に再び翻訳するという作業で、全条項にわたり詳細な検討が行われた。
・3月6日、全条項について合意に達した結果が「憲法改正草案要綱」として決定され、国民に公表された
・草案要綱は、その後、総司令部との交渉を経て、参議院の緊急集会制の新設など若干の点に修正が加えられた。
・それと並行して要綱を成文化する作業が進められ、4月17日、我が国で初めてのひらがな口語体の条文が作成され、それが枢密院への諮詢と同時に「憲法改正草案」(内閣草案)として公表された。
ここで我妻氏が語った「憲法案」検討日程と照らし合わせますと、4月17日という日付が一致します。
・昭和21年4月17日 次いで 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。
「憲法案」の名称が様々あるので戸惑いますが、「ねこ庭」は「政府説明」にある「日本側の検討・要望・修正」は、日本の憲法の第一人者である宮沢教授が深く関与していると推察します。
・内閣草案の公表に先立つ4月10日、はじめて女性の選挙権を認めた普通選挙制による総選挙が行われ、5月22日に第一次吉田内閣が成立した。
・枢密院で可決された内閣草案は、明治憲法73条の定める手続に従い、6月20 日、新しく構成された第90回帝国議会の衆議院に、「帝国憲法改正案」として勅書もって提出された。
・衆議院は、原案に若干の修正を加えたのち、8月24日圧倒的多数をもってこれを可決し、貴族院に送付した。
・貴族院の審議は8月26日に始まり、ここでも若干の修正が施され、10月6日これも圧倒的多数をもって可決された。
・翌10月7日、衆議院がその修正に同意し、帝国議会の審議が完了した。
・改正案は枢密院の審議を経て、10月29日天皇の裁可があり、11月3日 「日本国憲法」として公布された。
・日本国憲法は、昭和22 ( 1947 ) 年5月3日から施行された。
次回は、「第三段階 日本国憲法制定」に関する政府説明を紹介します。この中に、「目から鱗」の事実が含まれていますので、ぜひ「ねこ庭」へ足をお運びください。