父の遺した写真 38 修学旅行
38-1 ひので号 名古屋駅 1959年6月
1959年4月に修学旅行専用電車ひので号が走り始めた。座席の配置や、テーブルなどの配慮がされた設計だった。父は修学旅行に関して研究していたから走り始めた「ひので号」の写真を撮りに行ったのだろう。修学旅行専用列車としては、「ひので」の他、きぼう・こまどり・わかあゆ・おもいで・とびうめ・わかくさ・わかば・わこうど・友情・なかよし などがあった(このリストは完全ではない)。一部は電車ではなくディーゼルカー。新幹線の建設とともに次第に廃止され、1975年の山陽新幹線博多までの開通の頃には定期運行はなくなった。「ひので」だけで240万人の運送を行ったという。
38-2・38-3 修学旅行 京都駅 1957年
記録では「篠原小学校修学旅行・於京都駅」となっている。現在同名の小学校が、横浜・浜松・名古屋・春日井にある。父はどれにも勤務しなかったが、教育委員会の系列から考えると春日井市立篠原小学校だろうか。駅で偶然出会ったのなら他の篠原小学校もあり得る。撮影場所は京都駅の一番ホームの跨線橋から大阪側に降りた所で、現在も同じ場所が判別できる。
38-4 ひので号車内 場所不明 1959年
座席の配置はボックス席で、片側3人掛け、もう一方が2人掛けだった。この写真は3人掛け側で、背もたれに手すりのようなものが取りつけてあって、その窓側に1人、通路側に2人掛けるようになっている。網棚も枕木方向になっていて、多くのかばんを置けるようになっている。
写真の転載はご遠慮いただきたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/78/73e09732e92db9ce064a12e629f258dd.jpg)
38-1 ひので号 名古屋駅 1959年6月
1959年4月に修学旅行専用電車ひので号が走り始めた。座席の配置や、テーブルなどの配慮がされた設計だった。父は修学旅行に関して研究していたから走り始めた「ひので号」の写真を撮りに行ったのだろう。修学旅行専用列車としては、「ひので」の他、きぼう・こまどり・わかあゆ・おもいで・とびうめ・わかくさ・わかば・わこうど・友情・なかよし などがあった(このリストは完全ではない)。一部は電車ではなくディーゼルカー。新幹線の建設とともに次第に廃止され、1975年の山陽新幹線博多までの開通の頃には定期運行はなくなった。「ひので」だけで240万人の運送を行ったという。
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38-2・38-3 修学旅行 京都駅 1957年
記録では「篠原小学校修学旅行・於京都駅」となっている。現在同名の小学校が、横浜・浜松・名古屋・春日井にある。父はどれにも勤務しなかったが、教育委員会の系列から考えると春日井市立篠原小学校だろうか。駅で偶然出会ったのなら他の篠原小学校もあり得る。撮影場所は京都駅の一番ホームの跨線橋から大阪側に降りた所で、現在も同じ場所が判別できる。
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38-4 ひので号車内 場所不明 1959年
座席の配置はボックス席で、片側3人掛け、もう一方が2人掛けだった。この写真は3人掛け側で、背もたれに手すりのようなものが取りつけてあって、その窓側に1人、通路側に2人掛けるようになっている。網棚も枕木方向になっていて、多くのかばんを置けるようになっている。
写真の転載はご遠慮いただきたい。
覚えです。
その国鉄の列車ですが、電気機関車に牽引された通常の3等客車だったと思いますが
貴方の記憶ではどうだったでしょう?
名古屋駅と小郡駅ホームで列車の到着を
待っていた記憶は定かですが、さて確かに電気機関車牽引だったのかはややおぼろげです。
復路は一般客の方々と同乗でトランプゲームしていた記憶があります。
なお、電化後も一部蒸機の牽引する列車はありました。