OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

2002年SECAD at Dunedin 出席 その4 学会のスタート

2021年07月31日 | 昔の旅行
Meeting of SECAD in New Zealand, 2002. Part 4. Start of the meeting.

 12月9日から学会が始まった。セント・マーガレットの建物は道路から少し高い位置にあるが、道路に降りて反対側にオタゴ大学キャンパスがある。しかも会場の地質学教室の建物はその道路に面しているから非常に便利である。講演はオタゴ大学のあまり大きくない教室を使う。参加人数が50名くらいの小規模な学会である。

4-1 オタゴ大学 2002.12.9
Otago University

 演題数32で、その中にはポスター発表が含まれている。内容では、鯨に関するものが19件で最も多く、鰭脚類・デスモスチルス類・爬虫類・哺乳類全体・化学的分析がそれぞれ2件、残りが海牛類・食肉類・鳥が各一件というもの。とくに鯨類が多いのはFordyce博士がその分野の大御所だからだろう。なかでもヒゲクジラ類に関するものが一番多い。日本人の参加は、発表者に加わっている人が13人ぐらいだが、出席したのはそのうちの6人、他に発表のない方もいた。

4-2 Fordyce博士の開会あいさつ 2002.12.09
SECAD Opening speech

 Fordyce博士の挨拶あと文部省にあたるような役人さんの女性(Helen Anderson. Ministry of Research Science and Technology)が挨拶をされた。

4-3 開会序論 2002.12.9
Introductory greeting by Miss H. Anderson.

 鯨類の脳の進化に関するウーエン博士(Dr. Mark D. Uhen. USA)の講演から順に個人講演が行われた。

4-4 ウーエン氏の講演 2002.12.9
Lecture of Dr. Uhen

 写真のように、講義室天井にプロジェクターが固定されていて、演題の横のノートパソコンから画像をコントロールする。今ではあたりまえの手法であるが、当時としてはかなり早い時期のもの。とくに旧式の階段式教室だから目立つ。

Keywords: SECAD Dunedin Otago二次適応学会 ダニーディン オタゴ大学 

Abstract. Part 4. Start of the meeting.
The meeting was held at the Geological Department of the Otago University. The University has good sights as the old-fashioned stone buildings. There were opening speech by the Prof. Fordyce and a greeting by a official of the Ministry of Research Science and Technology. The lectures of each attendants were started by Dr. Uhen, about the evolution of the brain of whales.

古い本 その66 Sanger, 1881

2021年07月28日 | 化石

 次の別刷も、鯨関連。しかもZeuglodon が標題に出てくる。題は「On a molar tooth of Zeuglogon from the Tertiary Beds on the Murray River near Wellington S. A.」Proc. Linn. Soc. N.S.W., 5: 298-300. (南オーストラリア・ウエリントン近くのマレー川の第三紀層からのZeuglodon 臼歯)というもので、3ページの短い論文である。文中に歯のスケッチが提示してある。

185 Sanger, 1881 p. 298の図

 一般的にこのような「手のひらを広げたような」鯨類の歯は、始新世から中新世に見られるが、現在の分類上の位置は、原鯨類(亜目)・歯鯨類・ひげ鯨類にわたっていて、見かけですぐにわかるとは言えない。上に記したようにSangerはこの標本を原鯨類のものと考えた。しかし、前回記したBasilosaurusのような典型的な原鯨類の臼歯とはサイズに大きな差がある。上のスケッチは、キャプションに「nat. size」となっていて、2.5センチほどの大きさが示してある。後に再記載(後で触れる)された時の計測値は、「歯冠の最大前後径」として22.8 mmという計測値をあげている。それに対して、原鯨類の歯のサイズは中くらいのもので50 mmくらいもある。スケッチの右に歯根の断面図が挙げてあるのは、Owen のPlate 8 に従ったからに違いない。
 この文献のコピーは、間接的な知り合いの研究者にお願いして1980年頃に入手した。現在はインターネットで入手できる。E. B. Sanger については、ネットではよくわからなかった。政府の行った地質学的な調査に携わったらしい記録がある。何しろオーストラリア連邦の成立が1901年1月1日だから、(それまでは英領の自治区だった?)それよりも20年前。この人についてわからないのも無理はない。
 論文では新種 Zeuglodon harwoodii を提唱している。参考文献のリストというものも無いが、文中でZeuglodon cetoides に言及しているからOwen 1839を読んでいることは間違いない、種小名「Harwoodii」は当時の習慣でHが大文字で書いてある。James C. Harwood は以前南オーストラリアにいた人で、これを含む多数の化石を提供された、としている。後の論文では最後の「i」が二つではなく。一つになっているものが多いがどちらが正しいのだろう?古い命名規約で、人名に由来する種小名の語尾として「ii」よりも「i」が良い、としてあるが、勝手にそのように変更してよいとは書いてない。
 標本は1個の歯で、南オーストラリアのアデレードの近くで発見された。

186 産出地 Pledge and Rothousen, 1977(後出)

 Sanger の論文が発行されてから30年後の1911年にその標本について研究した論文が発行された。T. S. Hall. 1911. On the systematic position of the species of Squalodon and Zeuglodon described from Australia and New Zealand. (Proceedings of the Royal Society of Victoria 23(2):257-265.)(Australia と New Zealandから記載されたSqualodonZeuglodon の各種の分類学上の位置)というもの。著者はたぶんThomas Sergeant Hall (1858-1915)で、メルボルン大学に所属していた。オーストラリア生まれの最初の古生物学者とする記述もある。1911年というのは明治44年。前の1881年の論文と比べるとずいぶん読みやすい。
 この中で、次の種類について記述している。
1  Kekenodon onamata Hecter 1881
 1881年にJames Hecter が記載した種類で産出地はニュージーランド南島のワイタキ川上流のWharekuriというところ。1993年に私は近くまで行ったが産出地のすぐ横にあるワイタキ湖を丘の上から見下ろしただけで、その場所に行っていない。時代は漸新世。

187 遠景の山の下にある水面がワイタキ湖。1993.2.6

 上の写真はワイタキ湖。産地のWharekuriはその湖の岸にあたり、左の丘の向こうにあって見えない。この種類の特徴は変わった形の歯で、歯根は二つあるが広がらないで寄り添っている。

188 Kekenodon onamata Hecter. Holotype(一部)

 Kekenodonは、原鯨類と歯鯨+ひげ鯨のいずれに属するのか議論されている種類で、前述のKellogg 1936 「a Review of the Archaeoceti」でも取り上げられている。
2  Parasqualodon wilkinsoni (M’coy) n. gen.
 1846年にM’coyがオーストラリア・Castle Coveの漸新世の地層から報告した種類で、その時には新種Squalodon wilkinsoni とされた。Hallはこの時に新属Parasqualodonを設立した。論文には一枚の図版(pl. 36)が示されている。Figs. 1-5がParasqualodon wilkinsoni、figs.6-7は次に述べるMetasqualodon harwoodi

189 Hall, 1911 Plate 36

3 Metasqualodon harwoodi (Sanger)
 fig. 6は原論文の標本ではなく、別の地点の化石。Fig. 7はSanger 1881のスケッチの転載である。本文中で、Metasqualodon harwoodi原標本は探したが見つからなかった、としている。
 このHall 1911は、オーストラリア・ニュージーランドのスクアロドン・ゼウグロドン型の歯の化石について詳しく論議したもので、そういった歯の注目すべき形態(歯冠・歯根の形態、鋸歯の形態、表面の装飾や光沢などを詳しく論じている。時代を考えると先進的ではあるが、一方で「歯のあるひげ鯨」の概念がない頃なので、現在は通用しない部分があるのは仕方がない。コピーはインターネットから最近入手したもの。以前から存在は知っていたが南半球の一部の標本を論じているものと判断していたが、読んでみたら結構鋭い指摘があって面白い。さらに、Kochの見世物にされたZeuglodonまでも登場する。

2002年SECAD at Dunedin 出席 その3 セント・マーガレット寮 2

2021年07月25日 | 昔の旅行

Meeting of SECAD in New Zealand, 2002. Part 3. St. Margaret’s College. 2.

 12月8日から13日までセント・マーガレット寮に宿泊して学会に出席した。朝起きると寮内に食堂があって朝食をとる。

3-1 食堂 2002.12.12
St. Margaret’s College: Dining room.

 写真に写っているのは全部の三分の一ぐらいの椅子だから、200人以上座れるだろうか。壁の高いところに額皿が掲げてあったりして古風なムードである。例の有名な映画の魔法学校にも似ている。写真奥のついたての付近にパンやベーコン・ウィンナーなどが並んでいて、紅茶やコーヒーとともに持ってきて、こちらで食べる。向こうに座っているのはアメリカの研究者グループ。

3-2 朝食 2002.12.12
St. Margaret’s College: Breakfast.

 私はいつもの自宅の朝食にウィンナーなどをプラスしたもの。テーブルに各種のマーマレードやジャムなどスプレッドが置いてある。私は施設名に敬意を表してマーガリン。スプレッドの中には「ベジマイト」というのもある。野菜を原料とした発酵食品で私には合わない。この朝食代金は受付で登録した時に支払った宿泊代金に含まれている。

3-3 ビリヤード台 2002.12.12
St. Margaret’s College: Cue game table.

 館内には卓球台やビリヤード台もある。正確に言うとビリヤード台ではなくスヌーカー台である。どう違うかというと、穴の近くのクッションに角(かど)があるのがビリヤード台、丸くなっているのがスヌーカー台。ちょっと見にはほとんど違わないが、実はスヌーカー台ではちょっとでも縁の丸いところに当たると穴には入らないで弾かれてしまう。だからクッション着きの球はよほどゆっくり入れないと入らない。置いてある球はスヌーカーの球ではないのに。ちなみにキューは細くてスヌーカー用だった。
 自動販売機もある。内容はジュース類と袋菓子。

3-4 自動販売機 2002.12.12
St. Margaret’s College: Vending machines.

 また洗濯機がたくさん置いてあるから、学生さんには居心地良さそうである。

3-5 洗濯室 2002.12.12
St. Margaret’s College: Washing room.

Keywords: SECAD Dunedin Otago St.-Margaret’s 二次適応学会 ダニーディン オタゴ大学 セント・マーガレット寮

Abstract. Part 3. St. Margaret’s College. 2
In the Morning, we took breakfast at the dining room in the College. There was more than 200 seats in the dining room. I could take almost the same breakfast as my home in Japan. There were the places or corners for billiard table (actually snooker table), washing machines and vending machines.

古い本 その65 Adams,1868

2021年07月22日 | 化石

 古い論文の古いコピーを順に紹介している。大昔に勉強したものだが、読み返してみると、当時はあまりよく理解していなかったことがわかってきた。
 今回は次の論文コピーを紹介する。Adams, A. Leith 1868. Has the Asiatic Elephant been found in a Fossil State? with some Additional Remarks by G, Busk, Esq., F. R. S., F. G. S. (アジアゾウは化石として発見されたのか?Busk氏の追記を添えて)というもの。掲載誌は「Proceedings of the Geological Society, London」である。日本の哺乳類の「化石」が西欧に初めて報告された論文である。短い論文で、付記のBuskによる「Additional Remarks」を入れて4ページのもの。
 この論文を紹介するのには1868年というところから話が始める必要がある。この年は明治元年にあたる。明治元年は9月8日に始まる、のだが、これは太陰暦(旧暦)なので、西欧のグレゴリオ暦に換算すると、1868年10月23日から、ということになる。この論文が発行されたのは1868年6月17日なので、明治元年ではなくて慶応4年。Andrew Leith Adams(1827-1882)は、スコットランドの地質学者・自然科学者であるが、この論文ではあまり議論をせずに事実のみを記している。論文の最初に、標本に添えてあるメモが記してある。「Dr. DugganとMr. Hogson(在日英国領事の一人)によって1859年に発見された化石の歯。(発見場所は)神奈川と江戸の間の海岸から40マイル以上の所の、地表に露出した炭層(80フィートぐらいの高さ)の基底部。どんな動物のものだろう?(Dugganのサイン)。」というもの。そしてAdamsが主に気にしているのは「化石かどうか」という点である。3ページで、40行以下の短い文章である。
 まず、発見された1859年に注目したい。1858年の日英修好通商条約の締結の翌年であり、1859年7月1日に横浜港他が開港された。だからオランダ以外の西欧人が入国したのはわずかな例外を除いてそれ以後ということになる。英国の初代駐日総領事Sir Rutherford Alcock (1809-1897)は、1959年6月26日に江戸付近に到着した。まず領事館の設置と、他に開港された長崎・箱館の領事を任命するのが仕事だったようだ。
 次に発見場所に関することを考える。「神奈川と江戸の間の海岸から40マイル以上の所」とは? 当時のここの海岸線は、ほとんど現在の東海道本線のラインと考えてよい。40マイルというのは64kmなのだが、困ったことに、多摩川河口あたりから青梅まで行っても直線距離なら60kmにもならない。次の「80 feet, or thereabouts, from the general level」というのを、当初標高と思っていたが、「general level」とは言わないようだ。そうするとその辺りの地平から、という意味だろうか。第一、地図が伊能忠敬図以外原始的なものしかなかったこのころに、自分がいるところの標高を知ることなど出来そうにない。開港半年以内のことである。24メートルの崖なら不自然ではないが、そんな崖に石炭層がでているところが、関東にあるだろうか。群馬県に炭層があるようだが、そんなところを「神奈川と江戸の間の海岸から」という表現をするだろうか? そんなわけで、産出地はよく分からない。
 では「Dr. DugganとMr. Hogson(在日英国領事の一人)」について調べてみよう。この「英国領事の一人」という記述は、おそらくMr. Hogsonだけを言っているのだろう。イギリス領事館のホジソンは調べればすぐわかる人物で、初代長崎領事・初代箱館領事のChristopher Pemberton Hodgson (1821-1865) にちがいない。歴史上出てくるホジソンは、もう一人いて、初代ネパール公使Brian Houghton Hodgson (1800-1894)(生年を1801とする文献(川田・2020:「アラン・オーストンの標本ラベル」ブックマン社:この本、面白いよ。)があるが、たぶん1800が正しい)は、博物学者で、ヒマラヤに関する著書がある。この二人のホジソンの関係は分からなかった。C. P. Hodgson は、確かに発見された1859年に日本にいた。それについてはオールコックの「大君の都」にわずかに記されている。(大君の都 幕末日本滞在記 オールコック著・山口光朔訳 岩波文庫)

181 大君の都 オールコック 1962初版 岩波文庫

 この本は、3巻にわかれ、総ページ数1260ページ以上のもので、記録に日付が部分的にしかないのと、日本人をよく見てはいるものの上から目線でやや不愉快であるから私としてはあまり丁寧に読んでない。オールコックは6月末に江戸近くまで来ていた。ホジソンが同行していたかどうかは書いてない。
 オールコックが同年9月末に箱館に向かった時には同行していたようだ。「9月が終わりに近づいた頃に出発して、10日あまりで、箱館に着いた」とあるから、箱館到着は10月はじめだろう。箱館でホジソンを領事に任命しておいてきたという記録が書いてある。以上のようにこの標本を得たのは出発前の7月から9月の可能性が高い。その頃、外国人が日本人に切りつけられることがあって(生麦事件はもう少し後の1862年)、8月初めにはそれに対してイギリス公使の抗議があったのだから、ホジソンたちの外出も安全ではなかっただろう。
 メモを作ってサインしたDr. Duggan (Richard N. Duggan: R. W. Duggan とする文献もある) は、横浜で1859年に開業した医師で、西洋病院として最初のものだったという。1859年に西洋式気象観測を行ったという。同じ1859年に上海の新聞にこの病院の広告が載っているから、日本にいたことは確認できる。開港に伴って、「日本最初」のできごとが、1859年に続発したのだ。
 標本に関する記述はG. Buskによって追記として記され、咬合面の図も示されている。わずか1ページ半の短い論説である。George Busk (1807-1886) は、イギリスの船医で古生物学者。表面の干割れや、歯の萌出線が黒く染まっていることなどを指摘しているから、これが化石であるかどうかについて気にしていることがわかる。結論として、「現生の状態で見たら、誰しもこれがインド象のものとするだろう、しかし、化石ならば差異もあって、1 かなり曲がっている(どこが曲がっているのか不明)。2 咬板の幅が広い。3 咬板の厚さが厚い。」としている。 

182 Adams, 1868 標本の咬合面スケッチ 標本の長さ7.4 inch (18.8 cm)

 文中で、咬板の中央のふくらみがないことに触れているのは、すでに報告されていたPalaeoloxodon antiquus (Falconer et Cautley, 1847) などとの違いも認識していたことを暗示する。ただし、日本のナウマンゾウなどの報告はまだされていない。E. Naumann が日本にゾウの化石があることを西欧に報告するのは1881年のことである。
 この論文が、今から150年以上前の江戸時代の最後の頃発行されたことを考えると、英語の安定性を感じる。実際この文中で古さを感じさせるところはあまりなく、また現在と違う綴りなどもほとんどない。
 日本国内にかなりの数のインド象に似たゾウの歯の遺物が発見されている。それらは、主に人里に近い平地で発見され、他の遺物を伴わない。H. Matsumotoは、1927年にそういう標本の一つ(岩手県二戸産)をホロタイプとして新亜種Elephas indicus buski を記載した。E. indicus Cuvier, 1798 は E. maximus Linnaeus, 1758のシノニム。

183 Matsumoto, 1927 Holotype 上:inner view. 下:palatal view
サイズは上の写真の幅16.2 cm, 下は16.5 cm.

 この記載論文の写真は、上が側面(舌側=内側)、下が咬合面であり、倍率が異なる。上の写真の左上方向の面が咬合面なので、誤解のないように。上顎臼歯をどちらを上にして図示するかについては気をつけなげれば。
 現生のインド象は主に3つの亜種にまとめられるが、歴史的には数多くの亜種が記録されてきた。日本のこういった象「化石」については、疑問視されてきた。ホロタイプと幾つかの標本についての絶対年代の結果として300年程度というような若い年代が得られた(Takahashi and Yasui, 2017)。これによって E. m. buskiが無効名であるという。タイプ標本がどの亜種であるかを判定していないことや、日本に野生の象がいなかった時代のものだから亜種が成立しないのかどうかという点にはやや不満が残る。

184 福岡市老司産の インドゾウ臼歯(レプリカ)

 上の写真はこれに類する標本の一つ。ナウマンゾウの化石として報告されたもの(松尾・吉村, 1953)で、原標本は現在九州大学総合研究博物館にある。