OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

1991年モンタナ州の訪問 その2

2015年08月31日 | 昔の旅行
1991年モンタナ州の訪問 その2
Visit to Montana for digging, 1991. Part 2

 1991年7月2日、長い移動も最後の飛行にさしかかった。ソルトレイク空港を小さなプロペラ機で飛び立つ。

4 ソルトレイク。The Great Salt Lake. 1991.7.2

 離陸すると、近くにソルトレイク湖(Great Salt Lake)が見え、遠くに白く塩湖らしきものも望む。さらに進むと眼下にかすかにロッキーの山が見え、氷河の削ったカールがたくさん見える。写真は帰途に撮影したもの。

5 ロッキーの氷河地形。Glacial remnant in Rokkies. 1991.7.8

 イエローストーン公園の近くを飛んでいるのだろうが、地上はあまり見えない。1時間半ほどの飛行時間の間に日没になって、夕焼けが美しい。

6 ロッキー上で夕暮れ。Sunset in flight to Billings. 1991.7.2

 夜も更けて2120にちいさな地方空港のビリングスに着陸。福岡空港からちょうど24時間程になるから、眠い。空港でしばらく待つと、日本人のEさんが迎えに来てくれてほっとする。ここから車で200キロほど離れた発掘現場に行く。途中はほとんど無人のまっすぐな道を走ったらしいが、暗くて何も見えない。北に向っているのだが、前方に垂直な白い光のすじが見え隠れする。大きな町もないはずだが、と思っていたが、どうやらオーロラだったようだ。走っていた場所の緯度は46度ぐらいだから、樺太の南端あたりに相当する。緯度が低いから、色の着いたオーロラはほとんどなくて、白く見えるのも当然。ただ磁北極の位置は北米にあるから、樺太よりもオーロラの出現は多いのだろう。後で現地の方にも聞いてみたが「しばしば見える」とのこと。英語で聞く時には、「オーロラ」といっても通じにくいので、「Northern light」と言うこと。

7 ビリングスから発掘場所へ。 Map form Billings to the digging site.

 上の地図のビリングスとウィニフレッド間の直線距離が約210kmである。3時間ほど北に移動して、やっと発掘の宿舎としてお願いしている牧場に到着。すでに真夜中を過ぎていた。
(つづく)


私の使った切符 その9 1967年8月から11月

2015年08月28日 | 鉄道
私の使った切符 その9 1967年8月から11月

 今回はこの年8月から9月にかけてグリークラブの合宿と、ついでに一人で化石の採集に行った時の切符。メインの切符は普通周遊券である。普通周遊券はつながったコース(国鉄線を何百キロか含む)と、指定された観光地(「周遊指定地」)少なくとも2か所をめぐる切符で、どこを観光するかは使用者がアレンジするもの。ところが私の目的地は観光地でないから、なるべく駅から近い(=交通費が安い)下呂湯ノ島と浅間温泉を選んでいる。行かなかったからどちらの部分(バス)の乗車券も残っている。ところで「湯ノ島」ってどこかと思って調べたら、下呂温泉の中心部分「湯之島」のことだろう。駅から歩いてもすぐのあたり。この「オーダー周遊券」は、いつも共通の風見鶏の表紙が付けられている。表紙の記載は「日本交通公社」。本体の名古屋発着の乗車券は、経由の記載(ゴム印使用)があって、「高山・富山・北陸・糸魚川・松本・中央」となっている。駅名と線名が混じっているし、「北陸」は要らないような気もする。この周遊券の発行は8月19日であるが、使用したのは9月2日から。普通周遊券の有効期間は1か月あったから、使用開始日を指定しなかったらしい。発行店は、いつもの栄の店ではなく、なぜか鶴舞店。




9-1~9-4 1967.8.19(発行)普通周遊券

 目的は、東八尾駅(高山本線)で第三紀化石の採集、青海駅(北陸本線)で石炭紀化石の採集、北小谷駅(大糸線)でジュラ紀化石の採集、信濃森上駅(大糸線)で合宿、という複合的なもの。当然各所で途中下車したが、下車印をもらったのは富山駅と、最後に切符を残すための降りた千種駅だけ。実家に帰るのなら大曽根駅の方が便利なはずだが、最後に乗った中央本線の名古屋行きで降りそこねたのかな?

9-5 合宿の練習休み時間にスキー場を散歩して撮ったヒョウモンチョウ。

9-6 1967年秋の切符

★1967.9.9松本駅入場券
★1967.9.2名古屋から200kmまでの急行券(硬券では無い)
 均一周遊券は急行の自由席に乗れたが、普通周遊券はあらかじめ購入しておくか、旅行中に買うかする必要があった。
★1967.11.3京都から名古屋ゆきの名神高速バス乗車券
 実家との往復に新幹線は高いと思っていたので、よく高速バスを利用した。その乗車券にも硬券があった。裏面も4桁の券番があって、国鉄のA型券と同一型式のもの。1965年3月から国鉄と日本高速自動車という会社が共同運行で運行をはじめたらしい。ちょうど私の大学進学と同じ時期だ。この乗車券は国鉄発行で、地紋も灰色JNRのものである。途中のバス停も少なく、一回のトイレストップがあっただけだから、どうやって持ち帰ったのか不明。


台風15号(臨時投稿)

2015年08月27日 | 今日このごろ
 台風の直撃を受けた。風雨が強かったのは、25日(火)の8時頃。あまり見た事のない雨の降り方であった。突風もひどかった。10時頃には一段落したので、庭に出てみると、針葉樹の一本が20度ほど傾いていた。

1 庭の針葉樹が傾いた 2015.8.25 午前

2 同じ所を道路側から見る。

 この樹は、3本ある針葉樹の内一番細い木で、幹が低い所で3本に分かれているから、一本一本は最大10センチほどの直径。太い樹は直径30センチほども有り、何がおきても私にはどうしようもなかろう。その樹には支えの角材の門組みをつけてもらった。二番目の樹は今年の4月に頭より少し高い所で切り落としたから、台風の風にも心配がなかった。
 とりあえず、三つの幹のうち道路側に傾いた細いのを切り落とした。その時は風雨が弱かったのだが、午後になって吹き返しがひどくなってきた。夜になって倒れたりしたらいやなので、夕方雨の中、残りの細い幹を目の高さでノコギリを使って切った。生木だし、傾いて力のかかった所を切る時にはノコギリが挟まって全く動かない、風の息を利用して切ったが、そのため最後は幹が裂けてしまってみっともない。目の高さで切ったのは、強風域の風雨の中、脚立に登って落ちるのを避けたため。近年私くらいの老人の台風対策の事故が多いので、その一人にならないように。

3 切り落とした幹 2015.8.27 午後

 26日に切った穂先を小さくしてゴミ袋につめこんで捨てたが、枝葉で袋・大に5つにもなった。まだ落した幹がころがしてある。家の被害はこれくらいで、直撃にしてはたいしたことはなかった。近隣でも同じような樹が倒れたところがあったくらい。
 27日に近くを歩いたら公団の古い桜が倒れたらしく、切断して積み上げてある。

4 桜の幹 2015.8.27 志井公団

 株を見ると、中が腐ってウロになっていたことがよくわかる。直径40センチくらいの巨木。

5 倒れた桜の切り株 2015.8.27 志井公団

 この根っこの部分には、サルノコシカケができていて、まえから「危険だな」と思っていた。何本か同じような樹がまとまっているが数本に茸類が見られる。ちょっと危ない。

1991年モンタナ州の訪問 その1

2015年08月25日 | 昔の旅行
1991年モンタナ州の訪問 その1
Visit to Montana for digging, 1991. Part 1

 このシリーズは、1991年7月にアメリカ・モンタナ州を訪れた時の記録である。10日間の旅行であるが、半分は恐竜化石の発掘地点の確認のために滞在したから、訪れた場所は多くない。また、初めての本格的な仕事での海外旅行だったから、記録が不十分で、とくに滞在中のそれぞれの日の作業記録が混乱している。それで、発掘地点での記録を時系列で述べるのはあきらめて、ひとまとめに記すことにしたことをお断りしておく。写真の保存もよろしくないし、撮影の数に粗密があって、出来事によってはまったく写真が無いこともある。4分の1世紀も前(正確には24年前)のことだから大目に見て欲しい。
 写真はスライドとフィルム、それにフィルムの無いプリントがあって、今回新たにデジタル化した。このブログを記すためというよりも、持っている写真全てをデジタル化していく計画である。

 1991年7月、アメリカへの出発の日を迎えた。私の初めてのアメリカ訪問であったから、少しは緊張していたが、「どうにかなる」と開き直っていた。最初から単独の移動であり、しかも飛行機を4便乗り継いで、全部で何時間かかるか計算もしていないから、やってみるしかない。移動経路は、福岡を昼に出発して成田・ロスアンジェルス・ソルトレイクで乗り継ぎ、最後はモンタナ州の田舎・ビリングスに現地の夜中に着くということだ。調べてみると福岡・成田間が942km、成田・ロス間が8,763km、ロス・ソルトレイク間が951km、それにソルトレイク・ビリングス間が624km、合計11,280kmである。

1 モンタナへの径路。復路も同じ。Flight to Monatna
B: ビリングス Cal: カリフォルニア州 LA: ロスアンジェルス Mon: モンタナ州 S: シアトル SF: サンフランシスコ SL: ソルトレイク・シティー 赤丸は発掘地

 搭乗したのは2日(火)福岡空港1400発のJAL382便。座席は11Cである。1時間40分で成田空港に到着。当時の成田空港は工事中でせまく、待合室が混んでいた記憶がある。短い乗り継ぎ時間で、デルタ航空078便に乗る。座席は30K。出発は1715で、ロスアンジェルス着が1110である。時差のせいで到着時刻が出発時刻よりも前になる。たぶんアメリカは夏時間だっただろうから、約10時間のフライト。かかる時間は現在と余り違わない。並びの一番前の座席で、シートの間のひじ掛けが固定されていたために、せっかく左側がずっと空席だったのに横になれなかった記憶がある。搭乗したのがアメリカの航空会社だったから、この時から英語の生活に入った。といっても発掘期間は日本人との仕事だった。
 ロスアンジェルスで少し待って(待ち時間の記憶がほとんど無いが乗客のほとんどいない搭乗口付近で待たされていた。)1450発のデルタ航空1782便でソルトレイクへ。到着は1730であるが、1時間の時差があるから、1時間40分の飛行である。座席は40D。ソルトレイク空港の写真が、この旅行での最初の写真。

2 ソルトレイク空港。Salt Lake Airport. 1991.7.2

 ソルトレイク空港でも2時間15分待って、最後の飛行はビリングスまで。

3 ソルトレイク・ビリングス間の飛行機。Aircraft to Billings. 1991.7.2

 双発の小型プロペラ機で、搭乗は滑走路面から、座席は3列しかなく、客室係はまるで観光バスのガイド席みたいな席に着く。出発は1945であるが、夏至の2週間ほど後だし、夏時間だからまだ明るい。
(つづく)


私の使った切符 その8 1967年7月

2015年08月22日 | 鉄道
私の使った切符 その8 1967年7月

 東北旅行ではたくさんの化石を採集した。記録では久慈駅から20kg、気仙沼駅から18kgの手荷物を送っている他、宮城バス仙北鉄道線✝米谷駅✝から15kg、,陸前高田駅から25kgの採集標本を小荷物で名古屋の実家に送っている。

8-1 久慈駅から送った手荷物の送付票 1967.7.24

8-2 仙北鉄道米谷駅✝から送った小荷物の送付票 1967.7.28

 荷物の送付票で、薄い複写用紙でできている。手荷物と小荷物とがどう違うかというと、切符を伴うのが手荷物で回数制限があった。切符と関係なく現在の宅配便と同じようなのが小荷物。どちらも駅留めと配達があった。手荷物の方が安い。廃止された宮城バス仙北鉄道線米谷駅の小荷物票はあまり保存されていないだろう。翌1968年3月にこの線は廃止されたから。この会社は鉄道の廃止を見越して、宮城バス(1964年までは仙北鉄道)を名乗っていた。

8-3 仙北鉄道米谷駅から送った小荷物の送付票(部分) 1967.7.28

 左下にあるのは宮城バスの社章であるが、「B」の文字はバスの略だろうが、「B」の右にあるのは文字では無いが何だろう?

8-4 東北旅行1967で購入した乗車券類

★1967.7.25 三厩から今別ゆきの乗車券
★1967.7.25 青森駅の入場券

 どちらも、ハサミが入っているが、その形はあまり見ないタイプである。青森駅の何と言うか「レール断面」型は他に見たことが無い。

8-5 乗車券類裏面。上から近江長岡から醒ケ井、三厩から今別、青森駅入場券。

 ところで、これら二枚は私にはなじみの無い券番5桁のものだった。裏面の番号は発売数チェックなどのためにある数字で、西日本では4桁であったが、現在のJR東北の一部では5桁のものが主流だったように思う。上の写真は比較のために前々回の最後の切符を並べてみた。